百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回、前々回と歌合での歌をご紹介いたしましたから、今回もまたそうすることにいたしましょう。
 今回の歌は永承四年の内裏歌合での歌です。実に六十年ぶりになる歌合でした。



 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
 竜田の川の 錦なりけり



 詠み人は能因法師といいます。出家以前には橘氏であり、左大臣・橘諸兄の血を引くと伝えられています。生年は九九八年、とわかっていますが、没年はわかっていないのです。いわゆる受領階級の出で、若い頃に文章生になって肥後進士を名乗っていました。
 さて歌のほうですが、これがまた中々の難物です。と言うのも困ったことに訳す必要がない。歌合らしくきらきらしい、それだけの歌なのですよ。
 ともかく訳すことにいたしましょうか。



 突然の風、嵐でもあろうか。全山の燃えるような紅葉がいっせいに散り惑う。
 三室山の紅葉。その美しさと言ったらまるで錦ではないか。
 秋が織り上げた錦の衣、竜田川に降り来たっては秋の姫の名を持つ川を飾る、竜田姫の衣装となる。



 歌合の歌ですからもちろんこれも題詠です。事前に題を与えられて詠んだ歌なのですね。
 華美ともいえるほど華やかで、個人的な意味を持たせない、これはこれで面白いものですよ。
 私個人としまして、そうですね、秋の良き日に遠出などしまして、紅葉狩りに行くのですよ。遠くに見える山々には紅葉が見事で。裾野はすっかり濃く、中ほどは赤に黄色、緑に燃えるのです。そこに一陣の風など吹きましてね、川にさっと散り掛かってくるのですよ。そのときに同行している、陽気で軽い言葉遣いの男などがちょっとふざけて言う、そんな場面であったらさぞ楽しいでしょう、と思うのですよ。
 いずれにせよ、たまにはこんな情景だけを印象的に切り取った歌、というのも悪くはありませんね。
 印象的に、と申し上げましたが、実に印象だけで成り立っている歌なのです。
 なぜか、と言えば三室山と竜田川はずいぶん離れているのですね。離れている、と言いましても「三室山」がどこで「竜田川」がどこ、とは良くわからないのです。
 一説に三室山は奈良県明日香村、とも生駒郡の神南備山とも言いますし、竜田川は大和川の上流であるという説が大勢を占めますが、これとてはっきりとした証拠はありません。
 とにかくどちらも紅葉の名所、ということで登場している地名なのですね。
 これで煌びやかで印象的、と申しげた意味がお分かりいただけたと思います。

 さて、ではこの能因法師、という人物はどんな人物だったのでしょうか。法師と言うからには坊主なのですが、坊主の癖にこのような軽ろみのある歌を詠む所など、面白いものでしょう。
 さらに面白い、いえ、おかしい話があるのです。
 能因法師、ある時非常に出来が良いと自分でも感心してしまうほどの歌を詠みました。何度か己の口の中で呟けば呟くほど、
「おお、これは名作」
 と思ってしまうのです。その歌というのが、

  都をば 霞とともに たちしかど
   秋風ぞ吹く 白河の関

 というのです。さあ能因法師は考えました。これは確かに名歌、いや秀歌、素晴らしい。だが都に居たまま詠んだと言っても面白くないではないか。
 考えた末、とんでもない行動に出るのです、この能因法師という男は。それというのも長いこと家にこもりきりになってしかも日に当たって顔を黒く日焼けさせてから
「陸奥に修行に行った折に詠みました」
 と、いけしゃあしゃあと言ってのけたのですよ。
 もうこの話を聞くたびに私はおかしくておかしくて笑い転げてしまうのです。
 なんと面白い法師がいたものでしょうか。このやり方のあざとさ、臭みがきらいだ、という方も確かにいるのですね、私とても同じことです。ですが、ここまですると笑ってしまうではありませんか。人を楽しませよう、笑わせよう、というわけでもないのでしょう、ただ少しだけ、評判を良くしたい、それを能因法師はいささかやりすぎるのですね。それがなんともおかしみを誘うのですよ。
 きっとこの人の回りにはいつも笑いが絶えず、ご本人はなぜどこがおかしいのかさっぱりわからない、そんな人ではなかったか、と想像するのです。
 きっとこの紅葉の歌にしても歌合の後の酒宴で「三室山の紅葉は竜田川には散らないでしょう」「いやいやとんでもなくよく飛ぶ紅葉もあったものですな」など笑いの種にされたのでは、そんなことを考えては私もまた、笑ってしまいます。あんまり笑ってはご本人に失礼でしょうね、きっと能因法師は大真面目だったのでしょうから。



 実を言えば私も良く笑われる方なのですよ。篠原が、あの気難しくて人嫌いのあの篠原が、私を見て笑い転げているのですからたまったものではありません。
 最近ではこんなことがありました。買い物から帰ってきた私は、普段でしたらすぐに買ってきたものを片付けるのですが、ちょうど猫も帰ってきましてね、それも草の実を一杯につけて大変な有様です。そのまま上がってこられては家中が草の実だらけになってしまいますから買ってきたものもそこそこに猫にかかりきりになってしまったのですよ。
 篠原は、といえば当然黙って見ているだけですよ。手伝おう、という気を起こすことを期待するのはとっくにやめてしまいましたから私も心置きなく猫をかまっていたのですね。
 そこでですよ、うっかりしていました。買い物の中には煮干があったのですね。もちろん猫のための煮干です。それをかぎつけた猫が大興奮でもう人の言うことなど聞きやしません。あっという間に逃げられて、買い物はぐちゃぐちゃ、猫は草の実を撒き散らす、と大騒ぎでした。
 すっかり落ち込んだ私が散らばった買い物――すでに煮干が奪い取られたあとの残骸――を片付けていましたらね、
「あっちに芋が転がってたぞ」
 と、教えるだけはしてくださるんですよ。有難い事。それを猫におもちゃにされないうちに片付けよう、と手を伸ばし
「わかっていますよ、いま片付けます。猫じゃあるまいし」
「猫……。猫二匹と同居した覚えはないな。拾ったときは確かに人間だったと思うが」
 など言いながら大笑いしているのですよ。いったい何がそんなにおかしいのか、さっぱりです。私は生まれたときから人間ですし、猫になった覚えは一度もないのですけれどね。
「篠原さんにしてみれば同じように養っているつもりでしょうけど、猫より少しは役に立つ、と思っているのですが」
 ああ、言うのではなかった。また笑いの発作が起こってしまいました。後々冷静に考えれば、猫と己を引き比べるなど、情けないことをしたものです、まったく。




モドル