百人一首いろいろ水野琥珀さて、前回が紅葉の歌でしたから今回は初霜の歌と参りましょう。 近頃では駄歌と言われてしまうようになった歌ですが、私はすっきりとした歌いぶりが好きなのですよ。 心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる 白菊の花 どうです。解説の用などないでしょう。この大げさな誇張が子供のようで楽しいではありませんか。 詠み人は凡河内躬恒です。この人は不思議といえば不思議な人で、生没年などがさっぱりわからない人なのです。 それのどこが不思議なのか、といいますと、躬恒はかの「古今集」の選者の一人なのですね。紀友則・紀貫之・壬生忠岑と並んで「古今集」の選者とされたほどの歌人でありながら親の名も何もわからない、という人なのです。 「古今集」が編まれた時代、というものは面白くも良いものですね。躬恒は名もなき家に生まれながらその歌才だけでこうして時代に名を残すことが出来たのですから。 初霜が降りてあたり一面真っ白じゃないか。おやまぁ、本当にこれじゃどこに何があるのだかもさっぱりわかりゃしない。 ここかね、それともあちらかね。 まったく真っ白の中の白菊じゃ探しようもないねぇ。 あてずっぽうにこの辺か、と折るなら折れようけれども、なにしろこう真っ白じゃ、ねぇ。 可笑しいですよね。この誇張が私は好きですよ。こういう歌を小難しく 「いや、霜が降りたくらいで菊の花が見えなくなるなどありはしないものだ」 などと言うことはないでしょう。 正岡子規は「歌よみに与うる書」の中でこの歌をこれ以上ない、というほどけなしていますが、それというのが「些細なことを仰山に述べたのみ」というのですね。 私は躬恒のこの歌、ただ単純に面白がればよい、またそうした歌だ、と思うのですが。 この躬恒という男は話し言葉よりも歌が出てくる、といった男ではなかったか、と思います。 ですからこの白菊の歌も初霜の降りた白菊を見た彼がぱっと口にした、そんな歌ではないでしょうか。 練りに練った歌も良いものですが、こうして即興らしい歌もまた、良いものです。 そうそう、この歌は「古今集」に載せられていますが、同じような感覚の歌がもう一首載せられています。 月夜には それとも見えず 梅の花 香をたづねてぞ 知るべかりける 白梅が、白い月の光に漂白されてどこにあるのかわからない。ただ香りだけを目当てに探し出せる。 そんな歌ですね。 これもまた子規にかかれば大げさだ、ということになるのでしょうが、その梅の薫り高さが際立って、良いではないですか。 「古今集」というのは名高い歌集としてあまりにも世の尊敬を集めすぎましたね。ですから子規のように言う人もあり、崇め奉る人もありということになったのでしょう。 私は「古今集」はもっと楽しいものだと思いますよ。歌の手本となるべき名歌から、少しばかりくだけた機知に富んだ歌など、多才な所が魅力なのだ、そう思うのです。 さてさて話を戻しまして、躬恒が即興型の歌人ではなかったか、と思うのはこんな話があるからなのです。 ある時、躬恒は天皇からこう問われました。 「月のことを別名・弓張、と言うのは躬恒よ、なぜかお前わかるかね」 と。 躬恒は 「照る月を 弓張としも いふことは 山の端さして いればなりけり」 そう即興の歌で天皇にお答えしたのですね。 入ると射るをかけた言わば駄洒落ですが、天皇とても何も由来や堅苦しい答えをお望みだったわけではないでしょう。 躬恒のこの答えをたいそう愛でられてご褒美をたまわることにしました。 この時代、褒美と言えば白絹です。いただいた者はそれを肩にかけて舞い御礼をする、というのが作法でした。 この時に躬恒はまたも即興で 「白雲の このかたにしも おりゐるは あまつ風こそ 吹きてきぬらし」 と歌っています。 どうです、やはり言葉より歌が出てくる、そんな男のようだと思いはしませんか。 それもただ三十一文字の体を成しているというだけでなく、品位に欠けることのない洒落があったり、子供のような驚きであったり、とにかく機知に富んだ、と言うのはこういう男のことを言うのでしょうね。 白菊、と言えばもうずいぶん前に過ぎてしまいましたが、重陽の節句を思います。 重陽の節句はまたの名を菊花の節句とも言いますから菊にまつわる風習も懐かしいものです。 「枕草子」にもありますからご存知の方も多いでしょう。 前日に菊の花に綿をかぶせるのですよ。そうして降りた露で体を拭うのです。すると老いを捨てられる、など言います。 菊の花に降りた露はしっとりと香りを含んでさぞ豊かな心持になるでしょう。 ずっとそう思っていたのですが、日々の生活に追われてつい、忘れるのですね。 それを今年はようやく忘れることなく試してみることが出来ました。 いい加減、私も篠原も老後というものを考えてもよい年齢ではありますし、何より老いにまつわる病気は歓迎できないものですからね。 いついつまでも若くありたい、などとは思ってもみませんが、健康で長生きはしたいですね。生きている、というのは嬉しいものですから。 さてその菊の着せ綿ですが、どうしたものか悩んでしまいます。考えた挙句にまず花の上に綿を置き、それで軽く花を包んでから糸でそっと茎の部分に縛ってみました。 なんだかふんわりとして可愛らしく出来上がりました。 それを篠原は 「何をせっかく開いた花にむごいことを」 など悪態をつくのですが、私には聞こえません。 その夜一晩そのままにして、朝になったら見事に成功です。たっぷりと、とはいきませんでしたが充分香りも移ってしっとり濡れていました。 それをまずなにはともあれ篠原の元へ。朝寝坊の篠原はまだ眠っていた所を起こされて不機嫌ですが、頓着せずに首の辺りを拭ってみました。 ずいぶん冷たかったのか一度に目が覚めたようです。すっかりご機嫌斜めのお目覚めでしたよ。 このところ病気がちの篠原です。はてさて効き目はありますことやら。 |