百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回の俊成を歌の師とし、そして百人一首の中で一二を争う人気の歌を歌った歌人をご紹介いたしましょう。
 麗しく、気高く強い。そしてあえかに優美な歌です。



 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
 忍ぶることの 弱りもぞする


 一度耳にするとその音の優雅さに憧れ、二度三度と耳にするうちに歌意の恐ろしいまでの恋情がじんわりと染み渡ってくることでしょう。
 歌い手の名は式子内親王。後白河院の女二の宮です。幼いころより賀茂の斎院として神事に過ごす毎日を送られました。
 いわば式子内親王は巫女であったわけですね。そのような方のこの情熱の熱さ。どんなにか素晴らしい方であったか、と想像するだけでうっとりとしてしまいます。
 とは言え、賀茂の斎院をおよそ十六歳ごろにおやめになってはいるのですよ。病であった、と言います。
 斎院を退かれた後、うら若き皇女の身に次々と不幸が降りかかってきます。
 母宮や妹宮、そして兄宮までもが亡くなります。兄宮、と言うのはあの以仁王でありました。平家打倒を掲げる源氏の政略に巻き込まれた形での横死でした。
 式子内親王の生きた時代、というものは正に戦乱の世でした。戦乱、とだけ言ってしまうのは正しくはないですね。
 時代が大嵐の中の小船に乗せられたように揺れ動いていた頃です。
 平家の栄華と失墜。都の騒乱。飢饉は都を腐臭で覆い、疫病がそれに輪をかけます。さらに追い討ちのように起こった火事と大地震。
 皇女が生きた時代、と言うのはそういう時代でした。
 「方丈記」にも
「塀に寄りかかり、あるいは道の端に飢え死にしたものの死体が数知れずある。一箇所に集めることも出来ない有様で死臭が都中に満ち満ち、その死体の腐乱していく様子など目も当てられない」
 そう、あります。加茂川のほとりなどは車馬はおろか人も通れぬ有様だったとか。死体に埋め尽くされて。
 そのような時代に生きざるを得なかった歌人の魂が研ぎ澄まされないはずがありましょうか。



 魂を我が身につなぎとめる紐よ、玉の緒よ。私の命そのものよ。
 いっそ切れてしまうがいい。絶えてしまうがいい。
 もう私は耐え切れないのだから。この思いをしっかと胸にしまっておくことが出来そうにない。
 このまま命ながらえてしまえば、私はどうなるのだろうか。
 あぁ。きっと耐え切れない。こらえきれず、あなたへの恋があらわになってしまう。
 それが死ぬより辛い。
 だから玉の緒よ。私が耐え切れなくなるその前に、切れてしまえ。心が弱まる、その前に。



 皇女の歌の師は俊成であった、と最前申し上げました。俊成の息子は定家でしたね。
 その定家もまた皇女の宮に何度も足を運んでいます。
 ある年の正月三日、二十歳の定家は六十八歳の父に連れられてはじめて皇女の御所の門をくぐりました。
 皇女はもちろん御簾の内側においででしたが、その焚き染められた香の薫り高さに定家は陶然とした、と自身の日記「名月記」にあります。
 以来、十歳弱ほど年上の内親王と定家の交流が始まりました。
 そうは言ってもむしろ定家が歌才にたけた内親王の教えを乞う、という形であったような気がします。
 美しい人であったでしょう。ほの暗い御簾の内、かすかに見受けられる人影や、身動ぎの衣擦れの音。あるいはふ、と香る濃密な薫物の香り。
 歌の憧れがいつしか思慕に変わったとて不思議ではありません。
 これはまるで源氏物語ですね。六条の御息所と若き光る君の関係のようではありませんか。
 昔からそう思うものか、定家と内親王は恋仲であった、という伝説が色々と残っているようです。
 ですが私としては、これは色恋、というより定家は式子内親王の中に存在することのない理想の女性を見ていた、そんな気がするのです。
 仮にそうだとすれば式子内親王のお心はいったいいかばかりであったでしょうね。
 生身の自分ではない女を見ている定家に恋をしていたのならば、そんな意地悪な思いも浮かんでしまいます。
 そもそもこの時代、内親王の恋、などというものはありえません。結婚すらしないことが普通でさえありました。
 皇女、というのは神聖で美しく、手の届かない尊いお方、憧れることも恐れ多い、そういう存在です。
 ですから式子内親王はこの思い――誰に向けたものかはわかりませんが――をしっかり胸にしまって押さえつけなければならなかったのです。
 そして思いを隠したまま、式子内親王は五十歳に満たない人生を終えられました。
 それが幸福であったかどうか、我々後世の人間にはわかりません。いえ、同時代の人にもわかることではないでしょう。
 ただ、恋の相手ではないにしても同じ言語を操って語り合える人を得ました。あるいは友、と呼んでもよい人を。
 式子内親王にとって定家という知己を得たことは幸福なことであった、そう思いたいものです。



 それにしても思いを耐える、ということが私はいささか苦手なので内親王を尊敬してしまいます。
 篠原に言わせれば、耐えているつもりでも
「顔に出ている」
 ということらしいのですが、こればかりは仕方ないですね。
 それでも口にしない想いがあるからこそ、歌を詠むことが出来るのではないか、と本人は思っているのですよ。
 もし私が己の思いのすべてを口で言うことができる男ならば、あるいは初めから歌を詠む気にならなかったような気がしてなりません。
「それに関しては同感だ」
 と、珍しく篠原の同意ももらえました。
 そうですね。彼にしてもきっと口下手で人間嫌いの癖に人間という生き物に興味があるから、文章を綴ろうと思ったのでしょうね。
 私と篠原と、方法は違っても同じ道をたどっているのかもしれません。なんだかそう思うのは、心躍ることなのです。




モドル