百人一首いろいろ

水野琥珀



 さあ、基俊の話をしたのですからこの人を次にご紹介せねばなりませんね。
 言葉遣いの面白い人です。一度ですっと入ってくる歌もあればわかりにくい歌もあり、実験的、とでも言うのでしょうか、そんな歌を詠んだ人ですよ。



 憂かりける 人をはつせの 山おろしよ
 はげしかれとは 祈らぬものを



 詠み人は源俊頼朝臣。前回・基俊が口を極めて罵っていた相手です。
 この歌も背景を知らないと少し理解しにくい歌でしょう。背景を知るとなるほど、とうなずける所もあり、それでいてやはりわかりにくい歌でもある、という歌ですね。
 この歌は「千載集」に収められている歌で、「権中納言俊忠の家に恋十首の歌詠み侍りける時、祈れども逢はざる恋といへる心を詠める」という題で詠んだ歌だ、とあります。
 神や仏に祈っても逢瀬のかなわない恋、というのはいったいどんな情景なんでしょう。どうにも難しい題詠ではありませんか。



 この私を、こんなにも辛い思いにさせたあの人。いったい私のなにが気に入らないのか、あの人はちっとも振り向いてくれない。
 こんな辛い思いをするとは思ってもみなかったものを。
 いっそ長谷の観音様におすがりしよう。
 「はつせ」の山におわす観音様、どうぞ私の思いを「はて」さてせください、と。あの人を忘れさせてください、と。
 それなのにどうしたことか、初瀬山から吹き降ろす山おろしのこの激しさよ。
 風の激しさは私の心の中のよう。ますます募る想いに風の激しさもいよいよ増して。
 あぁこんなに酷くなれ、とは祈らなかったものを。



 いま、私が訳したものはあまり一般的な解釈ではありません。それを一応お断りしておきます。
 一般的には「あの人が振り向いてくれるように祈ったのであって、こんなに酷い風を吹かせてくれとは、あの人のように辛くあたってくれとは祈らなかった」という解釈でしょう。
 ですが、せっかくここに「はつせ」という言葉があるのですから、凝り性の俊頼にふさわしく、「果て」の縁語と見て、想いを止めて欲しい、と解釈することにしました。
 なんだかその方が題詠にふさわしいような気がしたものですから。
 神仏に祈っても逢うことのできない恋、想い。いっそ想うことをやめてしまえたら、でも自分の力ではすでに止めることさえできない。
 そんな狂乱を私は感じたのですよ。

 この歌人・俊頼という人は前回も少しお話したように人好きのする人格者であったようです。
 そう伝わっているのですが、文献を読む限りでは中々お茶目なこともしていますよ。
 基俊は和歌も詠めば漢詩も達者、という人でしたので批判の手に容赦がないのですね。その基俊が俊頼の歌をけなすことけなすこと、一文字取り上げて滔々と難じ尽くす、というのですから傍で聞いているほうもたまったものではありません。
 一方、俊頼は温和で人の悪口を言うことを知らない歌の上手ですから、自然と人々から敬愛されて歌会の判者なども頼まれることが多くなります。
 それがまた基俊の癇に障るのですよ。
「俊頼という奴は漢詩が作れないじゃないか。漢詩が作れてこそ、和歌の才も映えるというもの。漢詩の才なくして和歌を詠んだとて、例えばそれは『あの馬は良く歩く』といったもので、ちっとも自慢になりゃしないさ。やっぱり漢詩ができて和歌が詠める、というのじゃなけりゃあ、駄目だね」
 そう悪口を言ってまわるのでした。なにしろ自分は漢詩の方も道の上手、と呼ばれるほどの才能があるのですからね。
 その漢詩という武器を持たない俊頼を攻撃するにはうってつけ、というわけです。
 当然、この悪口は俊頼の耳にも入ります。そこで彼はどうしたか。
「菅原文時・大江朝綱のように漢詩文や経史に優れた人であっも和歌を詠んだというのは聞かないねぇ。躬恒・貫之が漢詩を作った、という話も聞かないけれど少しも和歌を詠むのに不都合があった、とは私には思われないよ」
 そう、温和に言ったそうです。
 人々はなるほどもっとも、と思いましたし、当の基俊としても反論する術さえなく、口を閉ざしてしまいました。
 これを聞いたり読んだりした人は「やっぱり俊頼は人格者だなぁ」と思うのでしょうか。
 どうも私はこの言葉の中にあるちくりとした皮肉こそが俊頼本来の持ち味であったか、と思うのです。
 決して嫌味ではないのですよ。なんと言うのでしょうね、機知、と言って差し支えないかとも思います。それはこんな所にも現れています。
 ある歌会で、俊頼が自分の歌に名前を書かないで差し出したことがありました。詠み上げる人は、困りますよね。どなたですか、と小声で問うてもただ、どうぞそのまま詠み上げてくださいな、との声がするばかり。仕方なく詠み上げれば

  卯の花の 皆白髪とも 見ゆるかな
  賤が垣根も としよりにけり

 そういう歌でした。歌の中に自分の名を詠み込んでいたからわざと、名を書かないでいたのです。そんな茶目っ気もある人でした。



 神仏に祈っても逢うことのできない恋。
 いったいどんな恋だろう、と私はずっと気になっています。ただの題詠だ、と思いはするのですが、想像するとこちらまで苦しくなってくるようではありませんか。
 相手がつれない、ということもあるでしょう。なにか多大な障害が二人の間にある、ということも考えられますね。世に隠れて忍び会う恋人同士、なんてどうです。
 そちらの方が浪漫的でしょうか。
「傍はそう言うが、そんな生易しいものじゃないぞ」
 おやおや、どうしたことでしょうね。篠原がずいぶん真剣な顔をして言っていますよ。
 なにか思い当たる節でもあるのでしょうか。
「隠しても隠してもいずれ露見する恋、なんていうのはな、中々神経が疲れる」
 お珍しいこと。溜息なんぞついています。
「それでも別れよう、と思ったことは一度もないが、その上、会うこともできないなんて、考えただけでぞっとする」
「篠原さん。実感がこもりすぎです」
 私は次の言葉を聞いて、わずか一瞬ではありますが、この家を出て行こうか、いっそ自立しようか、と思いました。
「……誰も現実にあった、とは言っていないが。私の生業がなんであるか、忘れているようだね。琥珀君」
 そう言って、にたぁりと笑ったのですよ。あの男は。
 もう本当に出て行こうと思いました。手におえないったらありゃしませんよ。
 ただそうすると篠原が飢えて死ぬのは目に見えていますからね。それも後味が悪いですしねぇ。困ったものですよ、まったくね。




モドル