百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回は俊頼の話でしたから、今回はその父の話をすることにいたしましょう。
 桂大納言とも呼ばれた非常に多才な人物です。



 夕されば 門田の稲葉 おとづれて
 蘆のまろ屋に 秋風ぞ吹く



 どうです、涼やかな風の肌触りが感じられませんか。
 匂いや音を感じる歌は少なくありませんが、肌に吹き抜ける風を感じる歌は多くはありません。
 特にこのような想像力に訴えるまでもない、情景を歌った歌でここまで鮮やかなものは特筆に価します。
 詠み人の名は大納言経信。先に記しましたように俊頼の父親にあたります。
 彼の生きた時代は、そうですね。丁度ひとつの時代から次の時代に移り変わって行く移行期、だったでしょうか。
 ですから、後から見ればそうであった、というだけでまだ当人たちは気づきもしない、そんな変化の中に生きました。
 華やかな平安時代、王朝の歌人たちはすでに亡く、道長などの政界実力者たちも姿を消していました。
 藤原の男たちが入内させた娘たちは男御子を上げることなく、したがって幼い者の背後に立つ、という藤原の手段が使えなくなり始めた、そういう時期でした。
 藤原氏の権力が翳りはじめ、武士勢力が次第に伸びてくる。
 ですが、人々はまだ気づかないのですよ。
 いまだ平安の夢に酔ったまま、めくるめく日常を過ごしているのです。
 それは頽廃が見せる夢であったでしょうか。熟れた果実の腐る寸前、饐えた異臭の中の甘い香り。
 言葉を操る才を天より受けた人間はそれをそれと知らずに嗅ぎ取ります。
 歌人の魂に次の時代の胎動が聞こえてくるのでしょう。
 経信はその耳を持った歌人でした。



 時は夕暮れ。この家の前に広がる田。
 地に着くほどに実った稲穂。空の金色、地の金色。
 風、吹き渡る。稲穂、揺れる。さわさわ、さわさわと。
 蘆ぶきの、丸い小さなこの家にも、風は吹く。
 戸口に聞こえるかすかな物音。
 人の訪れか、と見えて。それは風の音。
 かたり、戸を引いた私の傍らを風が吹きぬけていく。
 秋が傍らを通って行ったのだ。



 この歌は「金葉集」に「師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて田家秋風といへる事をよめる」として収められています。
 ですからこの歌も題詠なのですよ。それにしてはずいぶん実感がこもっていると言いましょうか。まるでその場に立っているようではありませんか。
 平安の歌人というものは本当に素晴らしいものです。
 私など題詠だ、と読むまでは実際に経信がその目で見たことだ、とばかり思っていたのですから。

 経信は博学多芸、何しろかの公任卿と並び称される、という人物です。
 ある年のこと、白川院が大堰川に御幸したときのこと。漢詩に管弦、和歌の三つの船を川に浮かべてその道に通じた人たちをそれぞれの船に乗せたのです。
 そこに経信は遅刻をしてきました。すっかりお上はご機嫌を損ねてしまっています。経信は早速、川の水際にひざまずき
「どの船でもいいですから、こちらに寄せてください。乗せてくださいよ」
 そう、呼ばわったと言います。
 その言葉を言いたくてわざと遅刻したのだろう、と皮肉な目で見る文献もありますが、まぁここはいいではありませんか。
 私個人としては中々に可愛いことをする男だな、という感想を持ちましたよ。
 その経信ですが、どうやら管弦の船に乗り、そして詩と歌とを献じた、という話です。
 この話、どこかで似たような話を聞いたことがありませんか。そう、公任卿の話ですね。
 時代的には少し前になるでしょうか。公任もまた「どの船でも、どうぞ」と言った人でした。
 ここから公任卿と経信の二人を「三船の才」と呼ぶのですね。
 私はもしかしたら経信はこの公任卿の真似がしたかったのかな、と思うのです。
 まだ若い頃、経信は公任に会っているのですね。すでに歌会の判者を任せられるほどになっている歌道の大家・公任に若き経信はどれほどの憧れを抱いて会ったことでしょう。
 自分の用ではないのに帝の御用を務める兄についてわざわざ公任の所に行っています。公任もまた、この鮮烈の気に満ちた若い歌人に事細かに歌の話を聞かせた、と言うことです。
 そう思うと、どうでしょう。憧れの人の真似をしたがった可愛い男だと、思えませんか。



 真似をするしないというわけでもないのについ、影響を受けてしまって困る、と言うことが私にはよくあります。
 そもそも私は三十一文字が専門ですから長い文章――私にはこれでも充分長いのです――を書くことには長けていません。
 ですからいつも難儀するのですが、ことに困ったときにはつい、やはり身近にある文章を読んでしまうのですね。
 我が家にはそれはたくさんの本がありますし、雑誌も色々とありますからね。
 手近に取れる、と言えばやはり雑誌でしょう。
 それも栞がしてあったりするとついつい、それを見てしまいますよね。栞をしたのは私なのですが。
 それが連載小説だったりして御覧なさい。
 もういけません。こんなことをしている場合ではない、早く書かなければ、と思えば思うほど続きが読みたくなってしまいましてね。
 結局、篠原の机をあさって……もとい、机の整理などしつつ新しい原稿を清書し始めてしまうのですよ。
 その世界にうっとりと遊び始めたら最後、私のほうは完全に影響を受けてしまいます。
 元々和歌の訳、と言うのは苦手なのです。いつもそこで四苦八苦するものですから、篠原の世界に入ってしまったらもうまるで「篠原の言葉のような」翻訳になってしまいます。そうは言っても劣悪な贋物でしかありませんけれど。あの世界は篠原のもの、篠原だけのものですから。
 そこから抜け出して手直しをする、と言う作業にまたずいぶん日数がかかってしまって、本当に難儀です。
 手近に篠原の書いたものがあるのが悪い、と八つ当たりをしてみても、なにしろ生産する本人が一番手近にいるのですから、嫌がらせに小説の断片の書付などを寄越される始末。
 その話もまた気になって気になって。挙句に
「それはまだ当分、書く予定はないな」
 など言われてしまうのですから。八つ当たりなどするものではありません。いじめ返されるのがおち、というものですからね。




モドル