百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回、僧正遍昭のご紹介のところに小野小町の話を少しいたしました。ちょうど良いので今回は小町を取り上げることにいたしましょう。
 小野小町。絶世の美女と名高く、いまも「何々小町」などと言ったりしますね。あの、小町です。



 花の色は うつりにけりな いたづらに
 わが身世にふる ながめせしまに



 かほどに有名な小野小町ですが、名ばかり高くて、その生涯のほどはほとんど知られていないと言っても過言ではありません。
 在原業平や文屋康秀、そしてもちろん僧正遍昭との歌のやり取りが残っていますから、九世紀の半ばから後半にかけて生きた人なのでしょう。
 前回の僧正遍昭がお仕えした仁明天皇時代の、宮中の女房ではなかったか、とも言います。そうそう、小野篁の孫、と言い伝えられる場合もあります。とにかく定かにわからない人なのですね。この時代の女性だから、と言ってしまえばそれまでなのですが、なぜか「絶世の美女」にはそんな不可思議さがふさわしい気もします。
 六歌仙の一人でもあります。その中で唯一、女性なのですよ。
 そのような曖昧さからでしょうか、日本中、各地に小町伝説が残っています。



 桜の花も、もはや衰えてしまったわ。あっという間に移ろってしまうのは、同じなのかしもれない。この私と。
 あれほど絢爛に咲き誇っていた桜。あれほどこの世の春を謳歌した私。
 空しいものね。雨にあたって衰えて。いまや見る影もないもの。
 春の長雨に惨めにしおたれた花も、物思いにふけってこの世を眺めていた私も、もう盛りはとっくに過ぎ去ってしまったの。



 春の長雨、ながめと呼び習わしますが、それに物思い、の意味である「ながめ」を忍ばせ、なおかつ雨が「降る」と時が「経る」をかけています。
 一般的な技巧を施した歌ですが、小町の真実の心であったのかもしれない、そんな彼女の声のせいでしょうか、技巧臭を感じさせない良い歌です。
 美女の呼び声も高かった女の溜息のような言葉、そんな気がします。
 ある日、ふと気づいたのではないでしょうか。鏡に映った顔に頬の窶れを見たのかもしれません。髪を梳いたその櫛に一条の白髪を見たのかもしれません。
 はたと気づけば自分はもう若くはない――。
 人からは美しい女と言われ、自らもそれを自負していたであろう小町の嘆きは深かったのではないでしょうか。
 小町の歌は趣が深く艶な様子で、言ってみれば貴婦人が病を得てしどけなくしているような歌、と貫之は評しています。
 確かにこの歌などはそうだ、とうなずかれるでしょう。ですが、はたして彼女の歌のすべてがそうか、と言うと決してそんなことはありません。
 何しろ深草少将の百夜通いで知られる彼女のことですもの、若いころは驕慢でその美貌を鼻にかけるところもあったことと思います。また、そんなところが小町の美しさをさらに磨いていたのでしょう。
 華やかで、自分の美しさをよく知っている女。美貌や機知を高く謳われている男たちと歌の交流を楽しみ、あるいはそれ以上も。
 男などというものは父の他には間近に見たこともない、などと言う姫君では決してない女です。自分で男を選び取り、明るい恋をした、そんな女が慎ましいなどと言うわけはありません。
 しかしある時小町は恋をしました。今までの恋とは違う、苦しいまでの恋でした。かつては自分の男が他に誰の元に通おうと気にもかけなかった小町が、このときばかりは嫉妬に苦しみます。私一人を見て、と窶れ悩み、ですが叶わぬ思いにまた身を焦がし。けれど男を諦めきれない。
 そして小町は本当に美しい女になりました。ただ若いだけの美しさなど、誰でも持ちます。機知が美しさを際立たせる女もいくらでもいます。
 恋を知り、物思いを経て、自分の内面を見通す目を持った深い人格を備えた女に。
 そしてその時、小町の外面の美貌、と呼ばれる物は衰え始めていたのでした。
 それは酷いことかもしれません。若いころの美貌を鼻にかけた振る舞いが祟ったのだ、と人は言うかもしれません。
 ですが私はこのような歌を詠むようになった小町こそ、愛おしく美しい、と思えるのですよ。それは私が男だからかも、知れませんね。



 やはり、男の私には女性が美しくあろうとする気持ちがよくわかりません。なにも身なりにかまうな、と言っているわけではないのですが、外見だけ装っても心根が貧しくては、などと思うのですよ。
 そんなことを言う私を篠原は
「贅沢だ」
 と笑います。なぜ笑うのかと問えば
「美貌の上に心の美しさまで求められては女はかなうまいよ」
 など、またひとしきり笑うのです。別に顔も心も、なぞ言った覚えはないのですが、よくよく考えれば、篠原の言も間違っている、とは言いがたくて、確かに贅沢な男、と言われても仕方ありません。
 それにしても女性は若く美しい、と言うことに拘りを見せますね。美しいかどうかは別にして、私はどうも童顔であまり若いときと変わらないものですから、新人の編集者などに歳を言うと非常に驚かれて不思議な思いを味わうことも再三です。
 そんな私ですが、篠原は輪をかけていますよ。篠原の読者の方はご存知でしょう。著者近影と言うものが本の裏にありますね。よく訊かれるのですよ、あれは古い写真ですよね、と。いいえ、まったくそのようなことはありませんよ、と笑いをこらえてお答えしています。
 篠原付きの編集者、と言うのが真面目と言うか懲りないと言うか、とにかくまめな質でして本を上梓するたびに嫌がる篠原を説き伏せて写真を撮っています。
 一度、本屋で手にとってご覧になると面白いものが見れますよ。たいてい機嫌の悪そうな顔で映っていますが、写真嫌いなもので真実ご機嫌麗しくないのですね。
 ですが、長年居候させていただいている私でも、時々は、はっとするほど美しい男ですから機嫌の悪ささえも、なにやら良いもののように思えてしまいます。とは言え、中身が中身ですからね、それも所詮幻想に過ぎないのですけれど、とにかく「見た目ばかりは」男にして置くのが惜しいような美貌です。世の中には意味もなく美しい男と言うものがいるのだな、としみじみ思いますね。
 それにしても不思議です。確かに篠原は人嫌いで鳴っていますが、なぜ皆さん私に篠原のことをお聞きになるのでしょう。もっとも身近にいるのは私ですが、そうは言っても知らないことなどいくらでもあるものですよ。
 よくお尋ねを頂く件に関してあまり何度もお答えするのが面倒なので、紙面を借りて申し上げておきましょう。
 私は篠原の女の趣味など、存じませんよ、と。




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