百人一首いろいろ

水野琥珀



 同じ水を詠んだ物でもこれほど長閑なのか、同じ海を詠んでも朗らかに明るいのか、そう疑問に思うほど情景の違う歌というものもあります。今回はそんな歌をご紹介いたしましょう。



 わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの
 雲居にまがふ 沖つ白波



 詠み人は法性寺入道前関白太政大臣。まったくどこで切ったものか一瞬、迷うようですね。名前を藤原忠通と言います。政治家でありながらも温和でなだらかな性格であった、と言います。
 「詞花集」の詞書では新院が御位にあったとき、海上遠望と言う題を与えられて詠んだ、と言うことになっています。この新院、と言うのは前回の崇徳院のことです。崇徳院が催した内裏歌合での歌なのですね。



 大海原、遥かに漕ぎ出していく舟。見れば周り中みな青い。
 空の青、海の青。どちらがどちらか、境はどこか。沖に立つ白波よ、あれは波かそれとも雲か。
 なんと言う絶景。長閑な眺めよ。雲の上から眺め下ろすかに私は立つ。



 題詠ですから、実際の情景ではないはずです。ですが、この歌は私たちが海に出たとき、うっとりと呟くに相応しいとは思いませんか。
 まるで目の前に茫洋たる春の海が広がっているように私は感じます。昔の歌人と言うのは大変なものですね。
 ですが、どうやらこの歌は篁の歌、前々回ご紹介したものです、あの歌を念頭に置いているようなのですよ。とするとやはり感じが違ってきます。
 すでに遠い過去のことでしょうからそれも当然なのですが、流されていく篁の乗った小舟を夢想しながら、忠通の歌はどこまでも長閑です。
 自らの身に引き替えて歌うことは彼にはできなかったでしょう。藤原氏の頂点に立つ人物ですから。そのせいで流されていく篁の姿が晴朗なのだとすれば、どこか哀れを催します。
 もっとも、歌会の場と言ういわば公式行事ですからこのような詠いぶりこそ相応しいのかもしれません。この時代には珍しい、おっとりとした万葉調の歌が彼自身を表しているようにも感じます。
 崇徳院の御前で、と言いましたが、正にこの時代は動乱の前夜と言うべき時代でした。そのような時代に万葉調の歌を詠む歌人がいた、と言うことが不思議でもありもっもらしくもあり、なにかしらの感慨がありますね。
 前回ご紹介しましたように、崇徳院は父帝とどうしようもない確執を抱えておいででした。それが時代性と言うものでしょうか。藤原氏も同じ悩みを抱えていたのです
 忠道は父とそして弟と対立していました。父・忠実は才気あふれんばかりの弟・頼長を偏愛しました。親子以上に年の離れた弟を、一時は養子に迎えた忠通でしたが、父の死後その関係も破綻に終わります。
 当時の藤原氏は関白家ですから、廟堂の頂点と言うことになりますね。政治の最上に位置するものと、権威の最高点、天皇家が共に抱えた確執。それらはその時代すべてを巻き込むことになります。
 武士たち、源氏も平家もが自分たちの都合の良いほうへと味方し、あるいは反し同族の間ですら争いました。
 近衛天皇が若くして崩御された後、後白河天皇が立ちます。位を降ろされご自分の皇子が皇太子に立つこともなくなった崇徳院の憤激やいかに。そこに忠道と頼長の抗争が、そして武士たちの争いが絡まりもつれ、そして鳥羽院崩御をきっかけにして勃発したのが保元の乱でした。
 あまりにも複雑で、私もいま資料を見ながら書いているのですがどうも混乱していけませんね。誰が誰の味方でどうなったかなど、渦中にいた人はわかったのでしょうか。その不安があるいは争いを激しくしてしまったのかもしれません。
 さて結果ですが、崇徳院に味方したのが頼長、後白河天皇味方したのが忠通でした。崇徳院はご存知のよう敗れました。頼長は戦に果てました。それを知って父は隠棲した、と言うことです。
 忠通は元のよう、関白の座に着きました。どのような気持ちだったのでしょうね。勝った、と思ったのでしょうか。崇徳院の御前で詠んだ歌を思い出すことがあったでしょうか。
 生涯を政争に明け暮れた人ではありましたが、私にはあまり生臭い人物とは思えません。生き残るためにやむなくそうした、そんな気がするのですよ。
 ですから、一人きりの時にはひっそりと、かつての帝、崇徳院の在りし日のお姿を思い出すことがあったかもしれません。歌会のとき、忠通は四十歳近く、崇徳院はまだ十七歳であった、と言います。それから二十年後、血で血を洗うような抗争の只中に叩き込まれ敵味方にわかれるとは思いもしなかったことでしょう。
 忠通は文化人であったとも言います。能書家で法性寺流、と言う書の一派を成しました。肉太の字は丸みがあって力強い、と言います。手蹟で判断するわけではありませんが、やはりこの人はおおらかな人物であった、と思うのですよ。
 余談ですが、弟の頼長も大した人物です。和漢の学問に通じ、誰もが認める学識を持ちながら意外と和歌漢詩の類は苦手であった、と言うどこか可愛げのある男です。ただ、他者を許容することを知らない男であったようで性格的にかなりの難があったことは確かです。彼の残した「台記」は当時の風俗を知ることができる絶好の史料となっています。



 私は肉親との縁が薄いものですから、どうにも近親ゆえの憎悪と言うことが身を持ってわかりません。どこぞからはわかる必要などない、と聞こえてくる気がしますが、愛憎半ばする、そのようなものなのでしょうか。
 血が近いからこそ、許せない。そんなものもあるのだろうなとは思うのですよ。ただやはり切ないものです。私は母を早くに亡くしましたし、父は知らないうちに空襲で亡くなりました。親戚と言えるほど近い親族はおらず、血縁的にはいわば天涯孤独と言っていいかもしれませんね。
 今では家主殿や彼の甥御などから家族同然に扱っていただいていますが、もし血の繋がりがないから憎むことがなくて良い、そう安心されることがあるとしたら。考えただけでぞっとしますね。
「それならば馬鹿なことは言わぬがよい」
 おっと、不機嫌な声が聞こえてきました。どうも私は独り言を言う癖があるようなのですよ。聞かれては困るようなことを言ってしまうのですから我ながら始末に悪いものです。
 ですが少し、ほっとしました。篠原が不機嫌な声を出すということはかなり本気なのですよ。自分の感情を良くも悪くも取り繕うということのできない男なので普段は面倒な、と思うのですがこんな時には嬉しいものです。斜めの機嫌が縦になってしまわぬうちに、彼好みのぬるい茶でも淹れることにいたしましょう。




モドル