百人一首いろいろ水野琥珀前回は晴朗な海の歌をご紹介いたしましたね。今回は背景を知るとたまらなく切ない、そんな川の歌にいたしましょう。 筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる 陽成院のお歌です。「後撰集」恋の部に収められている歌で詞書には、釣殿のみこにつかはしける、とあります。 釣殿院と言うのは光考天皇の御殿の名です。後に 皇女の一人、綏子内親王にお譲りになられたので、この内親王のことを釣殿のみこ、と申し上げます。 ですから、この歌は綏子内親王に差し上げた歌、と言うことになりますね。それを言ってしまっては当時の貴族はすべて親戚、と言うことになってしまいますが、綏子内親王は陽成院の父・清和天皇の従姉妹に当たります。あるいは陽成院にとっては年上の女性であったやもしれません。 万葉集の昔から歌に詠まれている筑波嶺。春秋には男も女も集まって、神を言祝ぎ歌いあう、そんな山をあなた、知っていますか。山頂は男体山と女体山に分かれているなんて、暗示的ですね。 その高い山から滔々と落ちる川、その名もみなの川。男女川、と書くんですって。山の頂から、落ちる水の流れのその速さ、ほとばしる滾り。 あなた、見えませんか。わかりませんか。あれは私の心そのもの。流れも恋も、積もり積もってついには、ほら。淵に、なってしまった。 技巧的ですが、中々わかりやすい歌ではないでしょうか。こう言ってはなんですが、あまり院、と言うお立場の方が詠んだ歌らしくはありませんね。どちらかと言えばもっと長閑で牧歌的な歌と言う印象を受けます。 このような歌を詠まれたお方なのに、陽成院と言う方は大変に悲劇的な人生を送られました。 父・清和天皇の在位中のことです。大極殿が火事に見まわれるという事件がありました。たくさんの建物を焼き尽くし、その火は数日を経てようやく消火した、と言います。 そしてその年、更なる事件が清和天皇に苦悩をもたらします。飢饉の到来でした。これによって天皇は帝位を去り、御位を日嗣の皇子にお譲りになる決心をされました。 このとき皇太子はわずかに十歳たらず。御母の兄、藤原基経が幼い天皇を補佐して政を取ることになりました。これが陽成天皇です。 陽成天皇は非常に馬を愛されたとのことです。それはかまわないのですが、多少、と言うにはいささか過ぎるほどに偏愛されたのでした。馬の飼育の上手な者が寵愛を得、そして宮中で大きな顔をするに至って、関白基経公は奸臣どもを退け追い払いました。 それがおそらく、良くなかったのでしょう。陽成天皇は御脳を病まれました。物狂わしい振る舞いが多くなられ、残虐ななさりようも多々あった、と言うことです。 これではいけない、と関白は御譲位のことを考え始めます。とするといつの世でも我こそは、と思い出す者がいるということですね。親王たちは早くから言ってみれば猟官運動を始めました。 結局、老親王であった方の一人が温厚篤実だということで御位につくことになります。それも騙されるようにして。 くらべ馬など、そう言って御幸にだされた天皇はそのまま陽成院という御殿に幽閉され、太政天皇の尊号こそ奉られましたが、事実上は帝位を追われたのでした。 残酷なことをしたのですから、無理からぬこととは言え、もう少しやりようもあったろうに、と思わずにはいられません。そして帝位についたのが光考天皇です。 なにか、因縁めいたものを感じますね。ご退位されたとき、陽成院はまだ十七歳。それを考えると、物狂わしい振る舞い、と言うのも関白に大きな顔をされるのが堪らなかった、そんな若さではないかとも思えるのです。 そして綏子内親王はその陽成院の后となったお方です。きっと院はこの歌を贈られたときにはこんな将来を予想だにしていなかったに違いないでしょう。 私はきっと年上の女性ではないかな、と思うのですが、はっきりしたことはわかりません。少年の日に仄かな恋心を抱いた女性。おずおずと、若い歌を贈った人。 その人がついには自分の后になります。けれど彼女の父は自分を帝位から追った人物でもあるのです。あるいは初恋の人でもあったかもしれません。その恋は叶ったはずなのに、苦いものになってしまったかもしれません。 そう考えると、いたたまれないような気持ちになるのです。当時は藤原氏の全盛期ですから歴史と言うものも藤原氏に都合のいいように書かれていますね。ですから私は陽成院のお振る舞い、と言うものもどこまで真実か判らない、そんなことまで思ってしまうのです。 政治の渦中の放り込まれてしまった若い皇子。出生ゆえに避けて通ることもできず、逃げることもできず。そんな皇子がした、ただひとつの真実の恋であったのかもしれない。そんなことを思います。 初恋、と言うのはどこか甘酸っぱい気持ちになる言葉ですね。それは男女を問わないような気がします。以前、篠原に初恋はいつだったか、と尋ねて大変嫌な顔をされたことを思い出してつい、思い出し笑いをしてしまいました。そのせいでしょう、怪訝な顔をしてこちらを見ているのは。 「何を、にたにたしている」 篠原さん、腰が引けていますよ。からかいたくなるのをぐっとこらえてのんびり茶でも淹れてみました。おやおや、なにやら落ち着かない素振りですね。 「言いたいことがあれば、言ったらいい」 「別にありませんよ」 「どうもそういう顔には見えないが」 「おや、そうですか。不思議ですねぇ」 いたずらが過ぎるかな、とも思いましたがあえてゆっくり茶をすすってみれば見事。掛かりましたよ。まぁ、ある事ない事ぺらぺらと喋ること。とてもあの寡黙な篠原とは思えません。 「篠原さん、あんまり言い訳すると、なんだか妙ですよ」 「なにがだ。いや、どこが言い訳だ。私はだいたい……」 「それが言い訳だ、と言っているんです」 「だから、どこがだ」 まったく、埒があきませんね。それになんだか、恥ずかしくなってきましたよ。つい、顔を伏せて笑ってしまったのがまた、良くなかったのでしょうねぇ。 「はっきり言え」 ついに、怒らせてしまいました。でも、とても言えませんよ。初恋の話題を思い出し笑いして、挙句に口喧嘩だなんて、なんだか目を覆いたくなるような有様ではありませんか。 |