百人一首いろいろ

水野琥珀



 同じような情景なのに、ぐっと雰囲気の違う歌というものを以前にもご紹介しました。今回もそんな歌を見ていくことにしましょう。



 山川に 風のかけたる しがらみは
 流れもあへぬ 紅葉なりけり



 春道列樹と言う人が詠んだ歌です。「古今集」秋下の詞書には志賀の山越えの時の歌、として載っています。
 志賀の山越え、とは京都から山を越えて大津に至る道で都人たちが志賀寺参りによく利用したということです。
 私はその道がどんな道なのか知りませんが、あるいは山の中の道を抜けると、突然はっとするほどに近江の湖が見えた、そんな道なのかもしれない。そう思うのです。なんだか、とても美しい気がして。



 深い山中、道を行く。あれに見えるは谷川か。川を渡る風の音が聞こえてくる。
 それほど強い風ではないようだ。と、目を落とせば飛び込んでくる紅葉の色。
 はらはらと、あたかも紅葉が自らの意思によって水を慕って落ちるよう、谷川に流れていく。
 そして散り落ちた紅葉は流れ流れて行き去り、あるいは留まり。
 あれは風がかけたしがらみか。紅葉はしきりに降り注ぎ、更なるしがらみとなっては流れを堰き止め。
 あれは風が作ったしがらみ。秋風の、風雅ないたずらか。



 前回の、業平の題詠とはずいぶん違うでしょう。列樹の歌はどうでしょう、私には実見したもののように思われます。
 もう秋も遅い時期でしょうね。風が吹かなくとも、赤く燃え盛るようだった紅葉は、散り注いだことでしょう。冷たく澄んだ谷川に、紅葉がわだかまる情景はいかばかりか。想像するだけで心騒ぎます。
 この歌の「山川」はやまがわ、と濁って読みます。谷川、の意です。やまかわ、と澄んで読むと山と川、の意味になります。
 しがらみ、と言うのは川の中に作る柵のことです。流れを堰き止めるために水中に杭を打って、竹などを結んだものを言います。
 そのしがらみを風がかけた、と言うのですからこれは擬人化ですね。わざとらしい詠い振りが古今調、と言うものでしょう。ただ嫌味ではないあたりがさすがです。
 志賀の山越えのこの道は、ずいぶん人通りが多かったらしいと言われています。とすると、もしかしたらこの川の流れを見ていた人もたくさんいるかもしれませんね。
 想像ですが。寺参り、と言うことでしたら女性もいたことでしょう。寺へ行くところか、それとも帰るところか。次々と華やかな色合いの女たちが通る。それが木々の間に間に見える様は突然に春が来たようだったかも、いえ、そんなことはありませんね。当時の衣装の色合いは季節に厳重に縛られていましたから秋の花がいっせいに咲き誇ったようにも見えた、そう言うほうが正しいかもしれません。
 男たちはそんな女たちを通すため、脇によけるのですよ。しっかりと、外出用の衣装に守られているとは言え、直接に異性を目にする機会の少ない時代のことですから、どちらも一瞬のときめきを感じた、そんなことを思います。
 あるいは列樹はそんな女たちにさらりと歌いかけた、のかもしれません。まったく想像から出ることはできませんけれどね。
 さて、この春道列樹と言う人物ですが、困ったことにほとんど何もわかりません。歌自体も五首伝わっているだけ、と言います。
 父は主税頭であった、新名と言う人であった、いやいや、雅楽頭の親名である。など定かではありません。本人はと言うとどうやら文章生から文章博士まで昇り、壱岐や出雲の守に任ぜられた、とありますから受領階級の男であった、と考えてよいのでしょう。
 春道、と言うのは変わった姓ですね。貞観六年に物部門起という人物に春道宿禰という姓を与えた、と「三代実録」に見えるそうです。他に大和国と言いますからいまの奈良辺りですね、そこに春道の森や春道の社などという地名が残っていると言いますから、あるいはその辺りの人であったのかもしれません。
 この時代の性格、と言ってしまえばそれまでなのですが、列樹の歌には技巧が施されていてすっと馴染みにくい歌もあります。

  梓弓 ひけばもとすゑ 我がかたに
  よるこそまされ 恋の心は

 例えばこの歌など、言いたいことはおぼろげにわかるのだけれど説明が欲しい、そんな歌ではありませんか。
 弓を引けは本と末、上端と下端が自分のほうに寄ってくる。そのよる、ではないけれど自分の心も夜になると募って仕方ない。
 そんな意味なのでしょう。弓は用意に月を想像させますしそこから夜も引き出しています。おそらく自分が寄り添いたいほど恋人は寄ってはくれないのでしょうね。そんな嘆きの歌です。ただ、意味がわかってみると実感として迫ってくる、そんな歌だと私は思います。



 秋の歌に恋の歌。立て続けに記したせいでしょうか。どことなく物寂しくてなりません。
 秋と言うものは古の歌人も言っているよう、物思いをする季節なのでしょうね。不思議です。悩みにしろ思いにしろ、いつもそこにあるはずなのに、どうして人は秋の夜長に一人考えをもてあそびたくなるのでしょう。
「それは充実しているからだな」
 そういうのは悩みの欠片さえなさそうな篠原です。本当に憎らしいほどですよ。
「どういう意味ですか」
「秋は食べ物がうまい。よく眠れる。夏の疲れもほどほどに取れて体力の充実する」
「ですから」
「そうすると、人間と言う生き物はろくなことを考えないものだ」
「そうでしょうか」
「余計なことをぐだぐだと考えて悩んでみる。暇だから好きでやっているとしか私には思えんね」
 冷たい言い方ですが、これでも篠原は私の身を案じているのですよ。私はどうも物事をあまり前向きに考えられない性格のようです。一度それに囚われてしまうと篠原まで被害を被りますしね。とは言え、あまり冷たいものですから、つい。言い返してしまったのが運の尽き。
「そういう言い方はないでしょう」
「どこがだ」
「だいたいあなたは――」
 ここまでにしておきましょう。人様にお聞かせできるような上品な会話であった、とはとても言いかねますからね。




モドル