百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回、ちらりと忍ぶ恋の話題を出しましたから、今回はそんな歌にいたしましょうか。ただ、少し印象は違うと思いますよ。軽やかな、忍ぶ恋の歌です。



 名にし負はば 逢坂山の さねかづら
 人に知られで くるよしもがな



 「後撰集」の詞書に「女のもとにつかはしける」として出ている歌です。ですから題詠、と言うわけではないのですよ、今回は実景です。
 詠み手は三条右大臣。名を藤原定方と言います。実は前回の朝忠の父親になります。それを考えると中々に面白いのですよ。
 前回、少しばかり強調の「し」の話をいたしましたね。どうでしょう、定方の歌をご覧になって。ちょっと面白いと思いませんか。
 定方の歌にも強調の「し」が入っていますね。「名にし負はば」のところです。親子だから詠み方が似るのか、それとも単純に偶然なのか、考えると興味深いものです。



 ご高名なさねかずらさんよ、さぁ寝ようって名前なんだからさ、それも逢坂山のなんだからさ、逢うんだろ。逢って寝る。なんだか暗示的な名前だよな、さねかずらって。お前さんを手に入れたら僕の望みも叶うかな。
 ねぇ、君。かずらなんだから、蔓がくるくる、くるくる。くるくると蔓を手繰り寄せるみたいに僕が君のところに来る方法はないものかね。
 ほら、だって僕の心は君んところにあるだろ。だから「来る」さ。



 こういう歌は訳したくないですね。非常に面倒です。いえ、言葉が悪いですね、なんといますか、こういう歌は現代訳をしてしまうと味が失われてしまうのですよ。
 あるいは篠原のような文筆家だったならば、上手に訳すような気もするのですが。いかんせん私は文筆に関しては素人ですからね。
 話がそれました。
 訳しにくい理由はなにをおいてもこの歌が技巧的なせいです。掛詞と縁語だけで出来上がっているような歌ですから。
 逢坂山、はもちろん逢う、の掛詞ですね。さねかづら、現代仮名遣いではかずら、となりますが、これはさね、から「さ寝」の掛詞となります。その上で逢うの縁語です。次はくるよしもがな、くるは「来る」と「繰る」がかかっていますからこれも掛詞。ついでに「繰る」は手繰り寄せる、の意味でさねかずらの縁語です。
 もう、どうでしょう。物の見事に技巧的と言いましょうか。現代人としては呆れてしまう気がしなくもないのですが、当時は大変に喜ばれた歌ではないかと思います。
 技巧的かつ、機知に富んだ歌で、しかも非常に調べなだからで美しい。最初に名にし負幅、と持ってくる辺りなど、私は大変好ましく思います。なんとなく、若い情熱とそれを気恥ずかしく思う気持ちがあるような気がして。
 余談ですが、この時代は男が女のところに通うものです。ですから、くるを女が来ると訳すのは多少問題があるように思います。
 くる、と言う語には自分が相手のいる場所に向かう、と言う意味と相手のいる場所を本来のものと考えて元々自分はそちらにいる「はず」なのだから、向かうことをも意味することがあります。
 この場合、贈られたのが女ですから詠み手は男です。ですから、後者の立場を取って「くる」を訳さねばならないでしょう。
 物は考えようで、あるいは女をさらって連れ出す、一緒にどこかへ行ってしまう、共に「来る」と訳すのも悪くはないでしょうけれどね。ここは伝統的な後者を取ることにします。
 詠み手の定方自身にはさして面白い話もないようなのですが、父親が本当に珍しい体験をしました。ここではそれをご紹介しましょう。
 定方の父は高藤と言いました。母は身分低い女で、それにまつわる話です。
 高藤はある日、鷹狩りに出かけました。ところがある山の中で雷雨にあってしまうのですよ。困ったことだ、と悩んでいると屋敷が見えました。これ幸いに高藤は雨宿りをさせてもらうことにしました。そしてその屋敷に娘が一人いたのですね、一目で恋に落ちた二人は一夜を共にします。
 雷雨が去った後、高藤は未練を残しつつも屋敷を去り、気にかかりながらも女を訪れることができずにいました。
 ようやく屋敷を訪れたのは数年の後のこと。女の横には可愛らしい娘がいるではありませんか。あの一夜で授かった高藤の娘だったのですね。
 こんなことがあったので高藤は大変に喜んで女と娘を自身の屋敷に引き取ることにしました。恋は本物だったようです。高藤は他に妻を持たず、雨宿りの女を生涯大切にした、と言います。
 これだけだったら「まぁ、珍しい男もいたものだね」で済む話なのですが、面白いのはここからです。
 雨宿りのときに儲けた娘がいよいよ美しく年頃になりました。娘は源定省という官吏と結婚します。源性が示すよう、元をただせば皇室の出ですね。実は臣籍に降下した光考天皇の息子です。娘夫婦は仲睦まじく過ごし、早々に男の子が誕生しました。
 さてここで大事件が起こります。光考天皇が崩御なさったのですよ。辺りを見回せば東宮がいません。位を継ぐべき皇子も。
 定省は皇籍に復帰しました。そして宇多天皇となったのです。雨宿りの娘は女御となり、その息子は東宮となりました。
 あっという間の大転換です。高藤は昇進し、宇多天皇の跡を継いだ醍醐天皇、あの孫息子ですね、が帝位につくと内大臣にまで位を進めます。二人の息子、一方が前回の朝忠ですが、彼ら兄弟もまた順調に出世を遂げ醍醐天皇の治めた延喜の御世を飾りました。
 醍醐天皇は母君からご自身の生まれたいきさつなどをお聞きになったことがあったのでしょうか。雨宿り屋敷があった辺りに陵を作るように、と御遺勅があったということです。
 なんともまぁ、物語のような話だとお思いになりませんか。王朝の恋物語そのままのような恋人同士がいたもの、と嬉しくなってしまいます。そのまま添い遂げた、などと言うのもいいですね。


 添い遂げる、で思い出しました。先日のこと、ある雑誌社の偉い方がなぜか私に話しを持ってくるのですよ。
「篠原先生に、こんなお嬢さんが相応しいんじゃないかと思いましてね」
 と言ってね。いったい何を考えているのでしょうか。たしかに篠原本人に話を持って行ってもまず無駄だということはよくわかります。
 ですが、なぜ、私なのでしょうか。まったくもって理解に苦しみます。私は篠原の父親でも兄弟でも、まして母親でもありません。縁談はご家族の元に持って行っていただきたい。
 そもそも、篠原と一緒になれなど、そんな非道なことはとてもとても私の口からは言えませんとも。篠原は、立派な小説家です。彼の書く小説の一番の愛好家は私であると自負しています。
 ただ、それと一般社会人としての篠原を同一視してはなりません、決して。本当によくぞあれほどのろくでなし、と思いますから。
 どんなお嬢さんであったとしても、篠原と添い遂げようなど無謀の極みだからおやめなさい、と私としては忠告する次第です。




モドル