百人一首いろいろ

水野琥珀



 当然、と言いましょうか。百人一首には恋の歌が多いですね。それも成就した、と言うものではなく中々逢うことができない恋であったり、引き裂かれた恋であったり。今回から数回、去っていった恋人への歌をご紹介いたしましょう。



 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ



 詠み人は相模。女性です。したがって、本名はわかりません。父は源頼光といわれ夫である相模守・大江公資の役職から彼女の女房名を相模、と言います。後朱雀帝の皇女、祐子内親王家に仕えたとも、一条帝の皇女、修子内親王家に仕えたとも言われています。
 ですから時代としては清少納言や紫式部より少しあとになりますね。彼女たちが出仕していたころ、相模はまだ幼い子供、と言うところでしょうか。



 あなたのつれなさを、恨んで恨んで、恨み尽くして。私、もう疲れてしまったわ。あなたを恨むだけの気力ももう残っていないの。
 見て、この袖を。あなたへの思いで涙に暮れて濡れて乾く間もないのよ。まるで朽ちてしまいそう。
 それなのに、なんてことなの。袖さえ朽ちてしまいそうな上に私の名まで、朽ちてしまうのね。
 あなたとの恋に、見よあれが恋の愚か者よと後ろ指指される私の名。それが何より悔しいわ。



 なんとも情感あふれる歌ですが、実は題詠です。永承六年内裏歌合に、と「後拾遺集」の詞書にあります。
 題詠なのに、どこか妙に生々しいですね。あるいは彼女の実感だったのかもしれないな、そんなことを思います。
 この歌合は、久しぶりに開かれた大々的な歌合で、人々が「まるであの天暦の御時の歌合を見るようだ」と言うほどの盛儀だったようです。
 さてここでまた面倒な話をいたしましょう。この歌は例によって例のごとく、取り方が違うと意味が変わってしまう歌です。
 問題は「袖だにあるものを」の部分です。これが、困ったことにどちらで切るのか私にも判然としません。「だにあり」でよいのか、それとも「だに」「あり」なのか。
 「だに」で切れば袖さえもが朽ちていく。私の名はまして、と言うことになりましょう。
 「だにあり」とすれば涙に濡れた袖が悔しいものだ、とでもなりますか。
 私としても前者のほうが美しいと思いますので今回はそのように訳しました。お好きな説を採るのがよいと思います。
 後述しますが、相模と言う女性は大変に感性の豊かな女性だったようです。だからこそ、浮名を流すのが惜しい悔しいと身を振り絞る、そんな気がしてならないのですよ。
 相模の父・頼光はたいそうな富豪であったらしいのです。なんと言っても凄いのが、あの道長が土御門の屋敷を新築する、という時のこと。
 彼は屋敷内の一切の家具を献上し、しかもそれがたいそう美しかったので道長さえもが驚いたというのです。
 それほどの家に育った相模ですから、階級は受領のものであっても豊かな教育を与えられていたことは疑いないでしょう。
 もっとも、高位の貴族より受領のほうがよほど金満家が多いというのはこの時代だと良くある話かもしれませんね。
 何不自由なく育った相模は後に内親王家に宮仕えします。その頃から歌詠みとして名高かった、と言うのですから大変なものです。
 そして同じく歌人である大江公資と結婚し、夫の任地である相模へと下っていくわけですが。さてここで、疑問です。結婚する前、彼女はいったいなんと呼ばれていたのでしょうね。
 父親の官職がわからないのでなんとも言いようがありませんが、ある説では乙侍従と呼ばれていた、とあります。それが正解なのでしょうか。なんだかそんなことを考えるのも楽しいですね。
 話を元に戻します。夫と相模は互いに歌詠みですから、仲が良かった、と言います。これはどうして幸運なことですよ。
 同じものに執着する二人が、夫婦である、と言うのは難しいものではないでしょうか。共に過ごす時間が長ければ長いほど、遠慮会釈がなくなりますしね。
 二人は幸いにして人に知られるほど仲のよい夫婦だったそうです。ですが、それが困ったことの原因にもなりました。
 夫が、かねてから望んでいた地位があったのですよ。大外記と言う官職で、位は物の本によれば正七位。五位から上を殿上人、と言ったことを考え合わせるとたいした役、とも言えませんね。
 ですがこの役はいわば中央官庁の役職なのですよ。受領といえば地方官ですから、やはり都の内には憧れがあるもの、と言うことでしょうか。
 願い出たこの官職を、諸卿の会議ではよろしいだろう、との方向で固まっていたのです。ですがここに困ったお人がいたのですね。
 右大臣をしていた実資と言う高位の貴族なのですが、この人がちくり、と言うのですよ。
「あの男は歌人だからな、同じ歌人の妻を抱いて歌の思案をしてるんだろうからちょっと公務に支障をきたすだろうねぇ」
 と。一座の人々はそれに大笑い、と言うのですからなんとなく仲のよさがずいぶんと噂になっていたものかな、とも思います。そして笑ったついでとばかり、大外記の件は沙汰止みになってしまったというのです。
 これはどうやら政治が関わっていることらしくて実資は道長が大嫌いなのですね。彼は小野宮右大臣とも呼ばれましたからその日記は「小右記」といいます。その中で道長のことを痛烈に書いていますから、道長派と思われていた男を父に持つ相模と言う女性を妻にした――ややこしいですね――男、と言うことで退けられたのかな、など思ってしまいます。
 それが原因かどうかは知りませんが、相模は後に夫と別れ中納言である男や様々な男と恋をしました。再び内親王家に仕え、たくさんの歌が勅撰集に採られるまでになりました。
 恋を出来る人間と言うものは心が豊かだ、と私は思います。ですから相模もきっと、とても素敵な人だったのだろうな、と。



 私は自分で言うのもなんですが、一途な方でして。あまりたくさんの恋をしたことはありません。篠原はどうなんでしょうね。
 しまった、ほんのちょっと視線を向けただけですのに、物の見事に逃げられましたよ。
 どこかに行く気配がしましたから、また甘い物でも食べてきて私を悩ませるのでしょう。いい年をした男がひとりで団子など、目も当てられないと思うのですが、こればかりは治りません。
 そうは言っても、実は逃げられてほんの少しほっとしてはいます。なんと言いましょうか、気まずいのですよ。やはり男同士でこういう話しは照れるものなのです。
 私は書くことに困っていますから、なんのかのと篠原を引き出してしまいますが、もしかしたら嫌がられているのかもしれませんね。
 そんなことを思っていたら、ぶっきらぼうに黙ったまま、ぬるい茶が出てきました。私は篠原のそういうところが、本当にとても好きですよ。




モドル