百人一首いろいろ

水野琥珀



 少し重たい歌が続きましたから、ここでちょっと軽いものに参りましょうか。中々一見してわかりにくい歌ですが、背景を知ると面白いと思いますよ。



 音に聞く 高師の浜の あだ波は
 かけじや袖の 濡れもこそすれ



 詠み人は祐子内親王家紀伊、紀伊は地名同様「き」と読みます。散位平経方の娘で紀伊守重経の妹になります。兄が紀伊守ですので、それを取って女房名を紀伊、と言います。
 後朱雀帝の中宮に仕えたことからはじめは中宮の紀伊と呼ばれましたが、後にその中宮の姫宮である祐子内親王に仕えました。祐子内親王が高倉邸にお住まいになっていたので、高倉一宮紀伊、とも呼ばれたそうです。
 かの道長の息子である藤原頼通、あの平等院鳳凰堂で有名ですね、彼が祐子内親王の後見を務めましたので、内親王家は大変に豊かであったそうです。
 豊かである、と言うことは金銭の面はもちろんのこと文化的にもそうでありました。ですから、紀伊のような才媛が集うことにもなったのでしょう。



 噂に名高い高師の浜のいたずらな波を私は被ったりいたしませんの。だって、袖が濡れてしまいますでしょう。
 お噂に名高いあなた、聞いておりますのよ、浮気な方だって。あなたと恋に落ちたりしたら、きっと私の袖は涙に濡れてしまいますもの。
 ですから、あなたのお言葉など、心にかけたりいたしますまい。



 「金葉集」の詞書によりますと、堀川院の頃、内裏で艶書合があったということです。「けそうぶみあわせ」と読みます。
 艶書合とは公卿や殿上人が恋歌を詠み、それを女房の元に贈ります。女房たちはそれに返歌をするのですね。そして二つを番えて様々なことを言いあう、という遊びです。
 紀伊の歌は中納言俊忠と番えられました。俊忠は例の俊成卿の父親です。

  人知れぬ 思ひありその 浦風に
  波のよるこそ 言はまほしけれ

 私は人に知れないような思いがあるのです。ひっそりとあなたを愛しく思っているのです。浦風に波が寄るよう夜になって、あなたに逢いたい

 と言うような意味の歌です。「ありそ」というのは「荒磯の浜」と言う歌枕と「思いが・ある」をかけています。
 ここで紀伊の歌を見返しますと、彼女の歌にも浜がありますね。「高師の浜」です。これがこの遊びの醍醐味なのでしょうが、ゆっくり見比べると綺麗に対応していてきれいなものです。
 俊忠の歌の「あり」や「よる」と言う二つの意味に取れる言葉に紀伊のほうは「高し」「かけ」と応じ、「浦」「波」「よる」といった縁語には「浜」「波」「ぬれ」と対応しています。
 相当に技巧的な歌ですが、それでいて洒脱で面白いですね。軽い詠み振りでいながらきっちりと男をはねつけ、そしてかつ男の誇りを叩き落しはしないあたりがさすが、と言えます。
 もっとも、艶書合の場合、当然のことに遊びですから男から誘われて女は「はい」とは言わないものらしいです。簡単になびくようでは女が廃る、と言うものでしょうか。
 微笑ましい話があります。実はこの艶書合のとき、俊忠は二十九歳、と言います。さて紀伊のほうはといえば幾つだったとお思いですか。
 ちょっと、想像できないと思いますよ。私もびっくりしてしまいました。このとき紀伊、なんと七十歳前後、と伝わっています。
 どうです、驚きませんか。この時代の七十歳と言ったらかなりの高齢です。それでいてこれほどまで見事に瑞々しくも女らしい歌を詠んでのけたのはやはり祐子内親王家の、と言われるだけはあると思います。
 当時は王朝も末期。後白河院の今様好きは有名ですし、院のお側近く仕えた清経など親の年ほどの白拍子に惚れ込んで共に住んでいた、と言いますから退廃的な匂いのようなものがあります。
 ですからこの二つの歌もあるいは、など想像してしまうのですが、家集にはただ「殿上の懸想文の歌」とあるだけですからやはり宮中の遊び、と考えるべきなのでしょうか。
 もしも俊忠が本当にまるで祖母の年のような紀伊を思っていたとしたらこれはこれで興味深くもありますが。
 いささか話題が下世話に流れました。
 紀伊と言う人、女性のことですからあまりたくさんのことがわかっていません。歌人として有名で、家集までも編み、そして「後拾遺集」にも三十首近くが採られています。それなのに彼女がどんな女性であったのかは、ほとんどわからないのですね。もっとも今に始まったことではありませんが、私としてもあまりに書くことがなくて困ってしまうくらい何もないのですよ。



 そんな風に頭を抱えていましたら、篠原がなにやら私の手許を覗き込んでいるではありませんか。こういうのを、格好のいけにえ、と言うのですね。
「篠原さん」
 呼びかけただけですよ、どうしてそうも腰が引けるのですか。まるで私が極悪非道のようではありませんか。ちょっと聞きたいことがあっただけですのにね。
「俊忠が仮に紀伊に惚れていたとして、そういう男の気持ちがわかるとしたらどんな場合ですか」
「ずいぶんめちゃくちゃな仮定だな」
「他に例をあげましょうか」
 なにやらぎょっとしましたので彼にも触れられたくない話題があるようです。
 しばしの間、考えているのだか居眠りをしているのだかわからない沈黙が続きましたが、どうやら本当に考えてくれていたようです。
「あるとしたら、そうだな……」
「なんです」
「俊忠はずっと年も下で、紀伊は名高い才媛だ、そうだな」
「そうですよ」
「だとしたら、私に考えられるのはひとつだけだな」
 言ってちらりと笑います。どうしてこう根性が悪いのでしょうか。私が聞きたがる、と知っていてじらすのですからね。せかす私をのらりくらりといなした挙句に結局、風呂上りの肩揉みの約束をさせられてしまいました。
「年が遥か上だろうが、その才能に惚れることはある。逆に年下であろうともな、違うかね、琥珀君」
 珍しくほくそ笑んで立ち上がった篠原に、私は一言もありませんでした。




モドル