百人一首いろいろ水野琥珀さて、ここ数回にわたって一連の恋の歌をご紹介してきました。今回までの歌に共通する点があるのですが、何かおわかりになりますでしょうか。ちょっと考えてみてください。では、参りましょう。 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず 詠み人は殷富門院大輔、殷富門院にお仕えした大輔と言う女房です。殷富門院というのは後白河天皇の皇女・亮子内親王のことで式子内親王の姉宮に当たります。伊勢の斎宮にもなり、安徳帝・後鳥羽院、二代の准母として門院号を宣下され、また順徳院のご養女ともなられました。 その殷富門院に仕えたのが大輔です。父は藤原信成と言われ、姉があり、共に殷富門院に仕えたといいます。大輔、は「たいふ」と読みます。 見せたいの。あなたに、この色が変わってしまった私の袖を。 松島の雄島の漁師の袖は若布を刈り、塩を汲み、いつもぐっしょりと濡れているのですってね。漁師の袖は濡れることはあっても、色が変わりはしないでしょう。 あなたの袖は、その漁師の袖のように濡れたと言うけれど、私の袖はどう。ご覧なさいな、これを。あなたは心破れてなど、いないのよ。 この袖は涙に濡れるばかりか血の涙に色さえ変わってしまったわ。 この歌は源重之の歌を本歌取りしています。「後拾遺集」に収められている歌で 松島や 雄島の磯に あさりせし 海士の袖こそ かくはぬれしか 「松島の雄島の漁師の袖は涙に濡れた私の袖のように濡れている」と言う歌意です。 大輔の歌は「千載集」に収められていて、その詞書には歌合せの際に恋の歌として詠んだ、とあります。ですからこの歌も題詠です。重之の歌に応じる返歌のような形で詠まれていますが、これは当時の流行と言いますが、このような形の本歌取りもあった、と言うことのようです。 ちなみに「あま」を漁師と訳しましたが、あまは重之の歌にあるよう、海士の字を当てることもあります。今は海女のほうが一般的でしょうか。元々は男女どちらでも使う言葉です。 一見してわかりにくいですが、涙に袖の染め色が変わったのではなく、血の涙に染まってしまった、と取るべきでしょう。 紀貫之の歌にもあります。 白玉に 見えし涙も 年経れば からくれなゐに 移ろいにけり と言うものです。ここでは中国の故事を指しています。血涙、と言うのは元々中国の故事で、周易や韓非子から来ているようです。 大輔の歌はそれを踏まえているので、恋に破れた自分の涙は血の色をしている、だからそれに染まった袖は色が変わったのだ、と解釈します。 さて、いつものことですが、大輔の生涯はほぼ何もわかりません。どうやら七十歳くらいまでは生きたらしいですが、これと言って話題が残っていないのですよ。無論のこと、本名などわかるはずもありません。 そんな大輔ですが、歌は素晴らしいものをたくさん残しました。家集もありますが、何と言っても勅撰集に六十首近く採られているというのは大変なものです。 特に素晴らしいのが恋歌ではないか、と私は思います。この百人一首に採られている歌もそうですね。 見せたいものよ、と高らかに詠い出すところから始まって、男をなじりつつも悲しく、だからこそ美しい女の情愛を歌っています。 気性激しく、誇り高い、そんな女性だったのかと想像します。あるいはいつか悲しい恋をしたのかな、とも。 それほど彼女の恋歌には胸に迫る実感があるのですよ。切なくて苦しくて、こんな歌を贈られたら男はきっと彼女を放ってはおかなかったのではないかな、など思います。 そうは思うのですが、人の心と言うものは一度離れるともう元には戻らないものでもあります。もしかしたら男は彼女の元には戻らなかったのかもしれません。 そして最後に彼女は血涙を振り絞り、男と決別することになったのではないでしょうか。強い決意と滲み出る苦悩、それでいて決して彼女は懇願したりはしないのですよ、この歌で。 こんな女性をそれこそ袖にした男はよほど見る目がなかった、としか言えませんね。 ところで、冒頭の質問ですがおわかりになりましたでしょうか。それでは正解を申し上げましょう。 この四回にわたってご紹介した恋の歌は、すべて袖を濡らしている歌、を選びました。どうでした、あたりましたか。 すべて袖を濡らしつつも、歌枕を変え、色を変え、様々な形で詠っています。ある意味で「袖を濡らす」と言うのは類型的な表現ですから、歌の上手と言われる人ほど心を砕いて形にした、と言うことではないでしょうか。 どれもこれも味わいがあって素敵な歌だと思います。もっとも、私は恋歌が好きなだけかもしれませんが。 よく「琥珀は恋歌しか詠まない」と言われますが、本人としてはこっそり「意外とそうでもないのだけれど」と思ってはいるのですね。 旅をすればその景色を詠みますし、庭に花が咲くのを詠みもします。不本意、とは言いませんが、恋歌しか、と言われるのはどうでしょう、ちょっと違うな、など思うのですよ。 「どこがだ」 そういうのは篠原です。また人の手許を覗いていたのですね。困った男です。本職の文筆家にこのようなまとまりのない文章を読まれるのはいやなのですよ、私は。恥ずかしいではないですか。 「なにがですか」 それはそうとして、彼の言葉の意図を尋ねてみました。 「恋歌ばかり、詠んでるだろう」 「そうでもないですよ」 言いつつ、最前のようなことを言った、と思ってください。そうしたら篠原はにたり、と笑うではありませんか。 「花を詠もうが景色を詠もうが、いつも誰かを思う歌になっているとは、気づいてないのかね、琥珀君」 気づいてきますよ、それくらいは。歌に関しては私が本職です。文筆家に言われる筋合いではありません。でも、私はそれを恋歌とは言いたくない、それだけのことです。 |