百人一首いろいろ

水野琥珀



 ちょうど百人一首で隣に並んでいるせいでもありましょうが、前回の沖の石からこの歌を連想しました。切なく、胸苦しくなる詠嘆の歌です。



 世の中は 常にもがもな 渚こぐ
 あまの小舟の 綱手かなしも



 詠み人は鎌倉右大臣。百人一首に記されている名より源実朝、と言ったほうがずっとわかりいいですね。そうです、あの頼朝の次男にして鎌倉幕府の三代将軍です。
 幕府の将軍、という響きからこのような歌を詠む男と言うのは少し連想し難くもあります。多少、わかりにくい歌でもありますしね。
 わかりにくい歌、といえば私は業平を思いますが、彼の歌とはまた違う底深さを感じます。それは彼が生きた時代でしょうか。



 この世の中は縷々転変してとどまりなく変化を続けていく。それが無常と言うものだと、私はわかってはいるのだ。
 だからこそ私は願う。この世の中よ、変わってくれるな、と。
 あの渚に漕ぎ出だす海人の小舟が今日もまた引き綱に引かれていく。遠く霞む空と海のあわいにぼんやりと小さく浮かんだ悲しいほどに哀れな小舟。
 それでも彼は生きている。今日もまた、生を営んでいる。冷たい飛沫が頬を濡らすだろうか、潮が彼の手を傷めるだろうか。
 耳に届くは海人の掛け声。この世に生きる人々の生の声。
 変わってくれるな。美しくも哀しいこの世界。その中で生きる人間のその哀しさ愛おしさ。それが私の心を振るわせる。



 どうでしょうか。やはり将軍と呼ばれた人の歌だとは思えないのではありませんか。痛切で、そして妙に現代的な歌です。
 それは彼が京都に暮らさなかったから、と言えるでしょう。彼は鎌倉の地にあり、そしてそれは当時の辺境でした。
 それが反って良かったのでしょうね。王朝の退廃とは縁のない歌を彼は詠むことができました。
 ちなみに「かなしも」とは悲しいことではありません。心を揺り動かされることを差し、稀に「愛しい」とも漢字では書きます。そのようなどうしようもない心の動き、と捉えるべきでしょう。
 実朝は頼朝の次男として、荒れ狂った鎌倉の地で将軍として侍に号令を下す生しか確かに選択の余地がありませんでした。本人は京都に憧れ、歌と文学に生きるのを望んでいたというのに。
 それもまた運命と言うものでしょうか。実朝は定家に師事します。とはいえ遠く離れた地で易々と言葉をかわすことができようはずもありません。どれほど実朝は定家からの便りを心待ちにしたことでしょう。
 定家からは作歌作法を習ったり、万葉集を習ったりしたと言います。はじめは、ですからそのようなものに基づいた模倣ばかりだったのです。
 けれど彼には素質がありました。天与の歌才がありました。己の心を歌い上げ、自らも他者の心をも振るわせる、そんな才能がありました。
 想像ですが、きっとそれは京から隔絶され、そして周囲にいるのは粗野な武人ばかり、そんな状況が彼の歌に光を与えたのではないか、私はそう思うのですよ。
 憧れから、いつの間にか彼は自分の周りへと視線を移します。そして見つけたのは美しい鎌倉の地でした。そしてそこに生きる人々。彼は一気に歌人としての才を花開かせました。

  大海の 磯もとどろに 寄する波
  われてくだけて 裂けて散るかも

 断崖に一人で立つ青年の姿を垣間見る思いがします。彼は何を思うのでしょうか。散る波を彼はどう思ったのでしょうか。まるで自分のようだと、思ったのではないか。私はそう思ってしまいます。
 抗うことのできない運命に翻弄され、自分では巧くできると思ってもいない将軍職に就かされ辛苦する日々。
 彼にとっての救いはただ、詠うことであったのかもしれません。
 これは後世の、歴史を知っているからこその戯言です。私は思います。彼は自分の命の短さを知っていたのではないか、と。だからこそこのような歌を詠うことができた。人間に対する愛おしさ。将軍と言う、自分では好きでもない職ではあれ、民から見れば高貴の人。それでありながら彼は人間を詠いました。
 この世の美しさ、人間の愛しさ。苦しみばかりが多い世の中だからこそ、彼はそれが愛おしくてならなかったのではないか、そのように思うのです。
 それは承久元年でした。鶴岡八幡宮に参拝した実朝を甥の公暁が襲撃します。あの急な階段の横手にある銀杏の木に、公暁は隠れたと言われています。源氏にとって、大切な神社である八幡宮の階段を血に染めて実朝は倒れました。享年二十八歳。あまりにも早い死でした。
 京都でその報に接した定家はどれほど嘆いたでしょう。しかし打倒鎌倉幕府を念願にする後鳥羽院にとって、それは好機でした。
 定家は何を思ったでしょうか。後鳥羽院と定家は疎遠になってしまったとはいえ、一時は心を深く傾けあった歌人同士です。おそらく院をお慕いする心は生涯変わらなかったでしょう。その院が、自分の愛弟子とも言える実朝の死に乗じようとしている。胸が痛むなどと言うものではなかったはずです。
 実朝は歌いました。

  山はさけ 海はあせなむ 世なりとも
  君にふた心 わがあらめやも

 どのようなことが起ころうとも、決してあなたを裏切ったりはいたしません、実朝が誓いのよう歌った相手は、後鳥羽院でした。



 心のままに生きることなど中々できようはずもありませんが、やはり気が滅入ってしまいますね、こういう話を書くと。
 私など、恵まれているのだと思います。好きなことを職業にして生きていられるのですから。
 歌を詠むというのはどこか孤独な作業です。他者に対して心を震わせ、自然を見ては誰かを思う。それでいて、歌を詠むときには独りなのですよ。
「そんなものは私も同様だがね」
 篠原の皮肉な声が聞こえます。言われてみればその通り。彼もまた黙々と原稿用紙の升目を埋めることを選んだ人でした。
 ですが、我々はやはり幸福です。この世の中にたった一人、自分しかいないのではないか。そんな孤独に怯えるとき、それがわかる、と言ってくれる理解者がいるのですから。
「褒めてもなにも出んぞ」
 別にそのようなつもりではないのですけどね。ただ、私としては先日、鎌倉時代の講義料に散財させられたついで、とばかりにもう一度彼の知恵を借りた埋め合わせをしているだけなのですよ、篠原さん。




モドル