百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回は実朝の歌をご紹介いたしましたから、その縁でこんな歌はどうでしょうか。この歌もまた、華やかでありながらも寂しい歌です。



 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
 ふりゆくものは わが身なりけり



 入道前太政大臣、藤原公経の歌です。「新勅撰集」の収められている歌で、詞書には落花を詠みはべりける、とあります。
 この歌集は定家が後堀川天皇の仰せで編んだもので定家と公経は同時代の人になります。むしろ、親しい関係であった、と言ったほうがよいでしょう。公経の姉妹が定家の妻だった、と言われています。
 妻、と言えば。公経の妻は源頼朝の妹婿、一条能保の娘であったそうです。そのような縁で鎌倉方とも関係は深く、よって当時の朝廷では、と言うよりむしろ後鳥羽院からはたいそう疎まれました。なにが良いものかわかりませんね。その縁で後鳥羽院が起こした承久の乱が失敗した後、公経は権勢を振るうことになります。



 風が誘っている。桜の花に、共に来よと誘っている。吹き抜ける風が花を散らし、庭はまるで嵐。はらはらと降りしきるは雪に紛う。
 花が逝き、雪が降り。そして古りゆくものはこの我が身。
 雪にも似た逝く花の白さ。思えばこの髪も白いものが増えた。あと幾度、花を見られるものか。古りゆく、この身は。



 私の訳は元々がかなりの意訳ですが、この歌に関してはまったく歌人が言っていないこともつい、書いてしまいました。
 私だけでしょうか。桜が散るのを見るたびに思います。あと幾度、この花を見ることが出来るだろう、と。
 いいえ、きっと皆そうでしょうね。あれが桜であったかは失念しましたが、中国の詩人も歌っているではありませんか。花は毎年咲けども、それを見る人の顔ぶれが来年も同じとは限らない、と。
 少し話がそれてしまいました。公経の話です。彼は鎌倉の動乱期に生きた最期の王朝人、と言っていいでしょう。
 そうは言っても当時の貴族は武士の援助がなければ何一つできない有様です。そして優雅な、貴族らしい暮らしが成り立てば立つほど、鎌倉方を憎む貴族から疎まれ、いっそう鎌倉方に寄り、さらに憎まれと言う連鎖に陥るのです。
 貴族だけではなく、武士だけでもなく。血に飢えた時代でした。
 公経は鎌倉幕府とごく親しい関係にありましたから、そのせいでしょう。北山に西園寺を建立することが出来ました。彼もまた、そこに起居します。お聞き覚えがおありですね。公共から、名門・西園寺家ははじまります。
 元は田畑であった所をすべて掘り起こし、きちんと整えて庭園とし、木々も静かに池も柔らかに水を湛え流れの響きには思わず涙しそうなほどであった、と「増鏡」に言います。
 どうやら道長が建てた法成寺よりも優雅で素晴らしかったようです。その褒め言葉にどれほどのものであったか想像できる、と言うものですね。
 彼自身は太政大臣の位に上り、娘婿は関白、孫娘は後堀川天皇の中宮に、孫の一人は後に鎌倉の将軍へとなります。
 正に位人身を極めた、と言えるでしょう。ですが、彼の身に輝けるものは、道長のよう「欠けることのない望月のような権勢」ではなく鎌倉の後援があってこそでした。
 彼こそが王朝の終焉、最後の平安貴族であったかもしれません。これ以後、京都の貴族と天皇は単なる象徴へと成り下がります。もっとも、だからこそ滅ぼされることなく残ったのでしょうけれど。いいえ、天皇しかり、貴族しかり。元々彼らは象徴でしたね。古来、皇位をうかがうなどした者は片手で数えてまだ余りますし。権力者ではなく、そもそもが権威の象徴だったのでしょう。それが鎌倉時代以降、顕著になっただけのことです。
 また話がそれてしまいました。公経と定家は義理の兄弟です。その縁で定家は実朝の歌の師となることができました。そしてやはり、後鳥羽院に疎まれます。
 公経と同じ道をたどり、定家もまた、承久の乱以後は威勢を盛り返します。後鳥羽院と言う後ろ盾を失いましたが、定家には西園寺家、という時の権力者が後見にいました。優れた歌人です、定家は。ですからきっと思うところもあったでしょうね。
 さて、その西園寺ですが。現在の場所にあるのは公経が建てたものではありません。本来は衣笠山のふもとにあったと言いますが、西園寺家の権勢が弱まっていくに従ってそこを維持することができず、市中に移転したと言います。
 衣笠山のほうはどうなったのでしょうか。実はその跡地を譲り受けたのは足利義満なんですね。と言うと、もうおわかりでしょう。そうです、鹿苑寺が今もありますね。金閣、と言ったほうが通りがいいでしょうか。
 この世の栄華を見にまとった公経は、それで満足したでしょうか。周りを見渡せば、すべてが変わってしまっています。何もかも、古の朝廷とは姿を変えました。そしてそれをしたのは自分でもあるのです。
 花を見、そしてそれを散らす風の音を聞き。彼は何を思ったでしょう。私は落花の元に立ち尽くす、深い疲労に肩を落とした老人の姿を思います。



 我々の世代ですと、桜の花と言うものは胸苦しいような切ないような悲哀をもって目に映ります。思い出したくもない当時のことを思い出してしまうせいでしょう。
 私など、桜の時期は篠原が気に病むほど家にこもりきりになります。それでも彼の甥が同居していた頃はまだ良かったのですけれどね。
 なんと言っても幼い者です。私の憂いにつき合わせて飢えさせるわけにもいきません。そんなとき、思ったものですよ。
 あぁ、こうして人は生きていくのだな、と。結婚すらしていない私のことですから、子供などまだ当然いるはずもありませんが、篠原の小さな甥御は私に生きる希望を与えてくれました。
 小さな手が私の手の中に滑り込んできたときの感動を今も決して忘れません。薄く柔らかい頬を真っ赤にして泣いた日のことも。母恋し、父恋しと泣いたのです。まだ幼い子供ですから、頭でわかっていても大人の男二人と暮らさざるを得ないのはたいそう心細かったことでしょう。
 ある日ついに頑張っていたものが切れてしまったのでしょう。私は子供の扱いなど知りませんし、篠原など言うにも及びません。
 ただすがりついてくる手に知りました。黙って抱きしめればいいのだなと。そして子供の熱い体温に、私も生きることを知りました。
 きっと怒るでしょうね、彼は。篠原の甥御が、大人になったあとでこの文章を読まないことを切に祈ります。嫌われたくはないですから。




モドル