百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回は、冬の物悲しさ、人気のないうら悲しさを詠んだ歌でした。一般的に冬よりは秋のほうが物思いをする季節に相応しいと言えるでしょう。ですから秋の歌を、と思ったのですが、せっかくですから美しい秋の歌にいたしましょう。



 むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に
 霧たちのぼる 秋の夕暮れ



 詠み人は寂蓮法師と言います。法師ですから出家したと、と言うことになりますが、では出家する以前はと言うと面白いことに定家の従兄弟に当たるのですよ。
 それもただの従兄弟ではなく、定家の父・俊成の弟の子なのですが、一時は俊成の養子になっています。その後、俊成に嫡子たる定家が生まれたので身を退いて仏門に入ったということのようですね。
 さすが俊成卿の一門と言うべきか、やはり素晴らしい歌才を持っています。現に彼は「新古今集」の選者に選ばれているのですよ。ただ、完成を見ることなく亡くなりましたが。



 はらはらと、村雨が通り過ぎて行った。もう秋が来て、冬へと季節は変わっていくのだな。ふと見れば、雨に濡れた槙の葉。
 見るうちに、その葉先から滴り落ちる雨の雫。雫の後先、まだ乾きもしない葉に漂い来るは霧の流れか。
 ほの白さ、濃くも薄くも槙の葉を、隠し表しどこからともなく立ち上り、いつしか木立を包み込む。
 淡く張った霧の帳の向こう側。色を失った秋の夕暮れの静寂よ。



 このような古来から名高い情景歌と言うものは翻訳のしにくいものですね。もっとも、私などどの歌を訳しても難しい、と思うものなのですが。
 この歌は昔からかるた取りをするときには子供の取り札、と決まっていました。覚えがありませんでしょうか。「むすめふさほせ」と暗記、いたしませんでしたか。
 百人一首の中で、「む」で始まる歌はこの一首だけですね。ですから上の句どころか、「む」と聞くだけで取れる、と言うわけです。
 ただ、子供の頃に理解できる情景ではないのではないか、と思うのですよ。
 秋の夕暮れ、とは言ってももうずいぶんと時間も遅いころでしょう。秋も深まった頃、と思います。そこに村雨と言うのですから、これははらりと降って上がってしまう雨ですね。
 この歌の中、色は一切消えてしまっています。わずかに槙の葉がありますが、これは大変に色の濃い葉をしていますから色彩としては無彩色と言っていいかと思います。
 余談かもしれませんが、私はこれを槙、としましたが槙の葉は「真木の葉」かもしれません。真木と言った場合、杉・檜・槙などの常緑樹全般を表します。
 私がなぜ槙、としたかはただ何となくそのほうが相応しいような気がしたからであって、杉でも檜でも一向にかまわないわけです。
 いずれにせよ、黒に近いような葉色です。それが雨に濡れていっそう色を増し、反って無彩色へとなって行きます。葉先から滴る雨もまた色はなく、た漂い流れてくる霧も同じ。
 まるで水墨画の景色ですね。それを見ている寂蓮法師自身、法師ですから墨染めの衣です。きっと彼ほどの歌人ならば、そこに配される自己と言うものの色までをも考えに入れていたことでしょう。
 どこまでも色を失った世界に動くものは霧のみ。幽玄な美しさと哀しさがある歌です。ただ、哀しみは深くはない。強いて言うならはせ、世界があること自体への物悲しさとでも言うべきでしょう。
 それはやはり子供の理解が及ぶものではありません。大人になり、それもある程度以上の経験を積み重ね始めてわかるものではないでしょうか。
 功なり遂げてとは言いませんが、来し方行く末を少しなりとも考える世代になって、己の過ぎこしてきた方を振り返ればどこか切ない。
 そこに現れた夕暮れの情景は、胸を打ちます。じっと見つめるうちに霧のようわきあがってくる寂寞。不思議とそれは哀しくはないものかもしれません。
 さて寂蓮法師のことですが。この人は和歌以外に業績の残っていない人でもありまして、中々に話題が少なくて困ります。
 仏門に入る以前は左中弁、中務少輔従五位といいますからようやく殿上人と呼ばれる身分であったというところでしょうか。
 ただ法師となって政治の世界から身を退いたことをあまり気にはしていなかったようですね。少なくとも彼には歌がありましたから。
 大変親しい友人がいて、日々和歌を論じては争ったと言います。それも世の名利を争うわけではありませんから、反って非常に清々しい争いであったと言います。
 では定家はどうでしょうか。寂蓮法師は定家のために仏門に入ったようなものですから、互いにあるいは隔意があったのでは、など俗物の私は思います。
 それがどうやらなかったようなのですね。定家の日記である「名月記」に寂蓮法師が亡くなったときのことが記されています。
 寂蓮法師逝去の報に、定家は宮中を退出します。そして喪服をまとうわけです。ただその喪の色は大変に軽いものなのです。親族とは言え従兄弟です。この時代、従兄弟と言うならばいくらでもいた時代ですから。
 そして自分の軽い色をした喪服を見て定家は嘆くのです。幼少の頃より慣れ親しみ、和歌の何たる歌を教えてくださったのはあの方だった。それなのに自分のまとう喪服の色の薄さは、と言って。あの方こそ誰も追随することができない素晴らしい才能を持った方だった。そう定家に言わしめた寂蓮法師でした。



 寂蓮法師が見た夕暮れは、どこの夕暮れだったのでしょうか。私は実景だったと思っているのですが。
 私もとても美しい夕暮れを見たことがあります。あれは旅先のことでした。
 もうずいぶん前になりますね。確か篠原の取材旅行に同行したときのことです。いまなお私はよく篠原の取材旅行に同行するのですがそれはひとえにあの男を一人で旅に出すと反って私の用事が増えるせいです。
 とは言え、旅は好きです。日ごろの雑務から解放され、と言えればよいのですが、旅先では旅先なりに面倒を持ち出すお人がいますからね。完全に解放されることはありえませんが、それでも空気が変わるのは良いものです。
 確かあの日は私の機嫌がとても悪かった覚えがあります。居候の分際で家主殿たいして不遜も甚だしいことですが、何と言っても長い付き合いですからそのような日もあるのです。不機嫌な私に篠原は夕食前の散歩に誘ってくれました。普段、出歩くことを忌避する彼には珍しいことです。
 ちょうど宿の裏手でしたでしょうか。海辺の宿でしたが、とてつもなく大きな太陽が海に没するのを見ました。眩しいほどでとても夕暮れとは思えません。そして残光が消えると夕闇が訪れました。
 あのような情景を篠原ならばなんと書くのでしょう。私にはただ瞼の裏に思い出すことしかできません。いまだ美しすぎて歌に詠むこともできずにいます。




モドル