百人一首いろいろ

水野琥珀



 ただそこに秋がある、というものもある時には新鮮な発見になるものです。そこに見つけたのは切なさでしょうか、それとも驚きでしょうか。この歌を鑑賞するとき、私はいつもその間で揺らめきます。



 八重むぐら しげれる宿の さびしきに
 人こそ見えね 秋は来にけり



 詠み人は恵慶法師といいます。十世紀後半の人、と言うだけで詳細はよくわかりません。ただ、名の知れた歌人たちと交流があったと言います。一説に、播磨国の国分寺の僧侶だったとも。もう本当にあまりにも何もわからないので、私など書くことがなくて困ってしまうほどです。
 後拾遺集や、続古今集に収められているこの人の歌も秋の歌がありますから、あるいは情景を歌うことを得手としていたのかな、と想像を巡らせるのが精々ですね。
 さて、歌意の解釈に参りましょうか。と言ってもこちらも解説の用がないほど平明な歌ではないかと思います。



 見る影もないつる草が、幾重にも屋敷の周りにはびこっているではないか。かつては豪奢の限りを尽くしたという屋敷。今はもう、荒れ果てて恐ろしいばかり。
 今のこの姿ゆえだろうか、それともかつての栄光ゆえだろうか。あまりにも寂しさが際立つせいで誰一人としてここを訪れるものもありはしない。
 人影はないけれど、今ここに秋が来た。秋だけはここに、やってきたのだな。



 「拾遺集」に収められている歌で、詞書に「河原院にて荒れたる宿に秋来といふ心を人びと詠み侍りけるに」とあります。ですから、無粋なことを言えばこの歌を詠んだとき、誰もその場にいなかったわけではないのですね。
 それはともかく。河原院です。河原院は「みちのくの しのぶもぢずり」の歌の源融が作り上げた屋敷です。ずいぶん前にご紹介しましたね。
 京都、六条にあったといいますから、当時としては高位の貴族の優雅な別荘、と言うところでしょうか。
 京の都も、二条、三条辺りが雅な貴族の屋敷が立ち並ぶ町並みで、五条辺りまで来ると庶民が住む界隈だったと言います。
 源氏物語にもありますね、光源氏が六条御息所の屋敷に通う途中、五条あたりの女に会う個所です。夕顔、と呼ばれた女との出会いでした。そのことからも六条と言う場所は都の喧騒から離れたいまで言う別荘地のような趣ではなかったでしょうか。
 ついで言うわけではありませんがもう一つ源氏物語から。夕顔の巻に「なにがしの院」と言う荒廃した屋敷が出てきますね。夕顔が命を失った屋敷です。あれはおそらくこの河原院を念頭に置いてのことと言うのが定説です。さすがに夕顔が亡くなる場面に使う屋敷ですから、臣籍に下ったとは言え高貴の貴族であった方の屋敷の実名を出すわけには行かなかったのでしょう。
 この河原院の豪奢は今なお伝えられています。往時はそれはそれは贅沢の限りを尽くしたことが行われていたのですよ。
 建物自体もそれは素晴らしいものだった、と言います。ですが真骨頂は庭でした。源融は考えました。日本で一番美しい景色とは、塩釜の景色である、と。無論、彼が目にした事はなかったでしょう。それゆえに憧れが募った、とも考えられますね。
 融は庭に塩釜の景色を作ってしまいました。もう、なんとも言葉がないほどですよ。塩釜は海のある景色ですから、池が要ります。もっとも、貴族の屋敷に池は付き物ですからそれは驚くには値しません。
 驚くのはここからです。池に魚を放した、と言うのですね。それは海の見立てでしょう。そして毎日毎日、尼崎から大量の海水を運ばせては塩焼きをさせその風情を楽しんだ、と言うのです。
 都に居ながらにして融の心はみちのく、塩釜へと遊びました。ここまで来ると呆れるよりもいっそその豪奢のあり方に感嘆の溜息が漏れ出ます。
 その屋敷に融は貴族たちを招き、あるいは菊を愛で桜を詠い、紅葉の宴を催したのでした。河原院の素晴らしさはこうして伝説的とも言えるようになっていきます。
 それが融の死後、一転して奇怪な噂が立つようになりました。融の息子は、この院を宇多院に献上したのですね。宇多院もお気に召してしばしばここに過ごされました。
 が、ある晩のこと。不思議な衣擦れの音がします。不意に心づいた院がご覧になるといつの間にか衣冠整えた公家が座っているではありませんか。
「何者か」
「この屋敷の主、融にございます。ここは我が家にございますのに院がおわしますのは恐縮ながら迷惑至極」
「不埒なことを言うものよ。私が人の家を奪うと言うのか。この屋敷はそなたの子が私に捧げたから住んでいるのだ。死したるとは言え、理非をわきまえよ」
 と院が一喝なされば、恐れ入るよう消えた、と言います。が、院が愛しく思われた御息所は度々この院で物の怪に襲われ、還御の後に祈祷しては息を吹き返した、とも言います。
 やがて宇多院も崩御され、そのころには屋敷はもう荒れていた、と言います。なにしろ広い屋敷ですから、住む者がいなくなればあっという間でしょうし、広いだけに生半な貴族では維持することができません。
 融の死後、おおよそ八十年がた経ったころでしょうか。一人の法師がここに住むようになりました。その頃には寺になっていたのですね。その法師は融の子孫にあたる男で、安法法師といいました。
 さすがに僧侶が住んでいると怪異は起きないもののようで、このころは荒れ果ててはいるもののそれが逆に風情となって愛でられてもいたようです。
 その安法法師の友であったのが恵慶法師、と言うことになります。ようやく名前が出てきましたね。
 恵慶法師の時代、それは河原院が建てられて百年ほどが経った時代でした。一つの屋敷が、これほどの豊かな物語を残した例はそうたくさんはないでしょう。そしてその物語に相応しく、河原院は火事にあい焼け落ちます。残った一部は別の場所に移されたとも言いますが、大半はそのままひっそりと原野に還りました。それもまた、美しい情景を醸し出します。



 河原院には及びもつきませんが、我が家もずいぶん長持ちをしている家です。もっとも私は正確なことを知らないので篠原に尋ねてみて知ったのですけれどね。
「篠原さん、ここはどれくらいになるんですか」
「さて。戦前からあることは確かだが」
「それはそうでしょうよ。いまどきこんなつくりは珍しいですからね」
「そうかな」
 と篠原は首をひねっていますが、昨今珍しい古風なつくりなのですよ。簡素なつくりの平屋ですが、それはそれで風情があります。庭木もよほどいいものを選んだのでしょう、今では風格さえ出てきています。梅の古木ははじめからある程度、年ふりた木を選んだものでしょうか。ぽつりぽつりと花開く様が私は好きです。
 ここまではそれほど珍しいことではありませんね。ですが、なぜかこの家は黒板塀に囲われているのですよ。まったくはじめて見たときには、私は何か色気のあるお人が住んでいるのではないかと思ったくらいですから。間違っても男の一人暮らしだとは思いもしませんでしたね。今ではなにをどう間違ったのか、すっかり男所帯になってしまった家ですが。
「大正の、中頃には建ってたのか……も知れない。私もよく知らんよ。父の友人の家さ」
 呟くよう言った篠原は、どこでもない場所を見て物思いに耽っています。何かいい案でも思いついたのでしょうか。いつか古い家の物語でも、書いてくれるかもしれませんね。




モドル