百人一首いろいろ水野琥珀秋と言うものは、物思わしい季節です。それをどう表現するかが、表現者の個性とも言えますが、この歌は割と素直に切なさを詠っていてそのぶん胸に染み入ります。 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき 心にすっと入ってくるような歌ではないでしょうか。詠み人は猿丸太夫と、百人一首ではなっています。婉曲な物言いをせざるを得ないのは、例によってこの人の出自由来がさっぱりわからないからなのですね。それどころかこの人の場合、実在すら疑われています。 名前が出ているのも「古今集」の真名序の一箇所だけだそうです。「猿丸太夫集」と伝わっている歌集にしても、古来詠み人知らずとしてさまざまな歌集に載ってきた歌を彼の歌、としたものばかりだということ。いったい誰が何の目的があってそのようなことをしたのかも、わかりませんね。 一説に、猿丸太夫は元明天皇のころの人ではないか、と言います。「続日本紀」に「柿本朝臣佐留、卒す」と言う記述があるそうなんですね。太夫というのは官人のことを指しますから、それでその人物こそ猿丸太夫ではないか、と言うことになったようです。 いずれにせよ、すでに「古今集」の時代から猿丸太夫は伝説の人物とされていたようです。 そして「古今集」から百年ほども経った時代、藤原公任の時代ですね。歌人であり著名な歌論者でもあった彼は三十六歌仙を選びました。その中に猿丸太夫も入っています。 ですから定家はそれによってこの歌を詠んだのは猿丸太夫、としたのでしょう。が、前回の歌もそうですが、嘘と知りつつ平然と、あるいは何かの意図を持って歌を選んでいる定家のことですから、あるいはこの歌も猿丸太夫の歌ではない、実在すら疑われていると言うことは、念頭にあったのかもしれません。 人里離れた奥山は全山、燃えるような紅葉の盛りだ。ぞっとするほど美しく、そしてすぐに色褪せてしまう紅葉。 今頃は風に吹かれた紅葉が、一面に散り敷いていることだろう。そこから見上げたならば、大地も空もこの目に映るすべてが、赤い。 ふと、音がするように思う。よくよく耳を済ませばかすかな鳴き声。そして紅葉の鳴る音。 鹿だ。鹿が紅葉を踏みわけ鳴いているのだ。あれは妻を呼ぶ夫の声だろうか。 鹿とてもも獣とてもこの哀れを知るか。かの鳴き声を聞くときこそ、深まる秋の悲しみを知る。 若干、解釈に悩むところではありますが、私は紅葉を踏んでいるのは鹿である、と捉えることにしました。それを詠み手が人里で想像している、としたほうが古今調ではないかな、と思ったので。 「古今集」の詞書には「是貞親王の家の歌合の歌」とありますから、少なくともそのときにはこの歌を誰かが詠んだはずです。 この歌合は、九世紀末のことでした。と言うことはその当時にしてすでに秋は物悲しい季節だと思われていたと言うことになりますね。 そのような考えは、労働に勤しむ農民の考えではありません。農業をするものにとって、秋は豊かな実りの季節、祝い寿ぐべき季節でしょう。 ですから秋が哀しいというのは、都の上流階級、と言うべきでしょうか。貴族の考え方ではなかったか、と私は思います、 貴族たちは、言ってみればたいしてすることもないですしね。夏の暑さが不意に緩んだ、と思うばふと肌に感じる秋風の涼しさ。朝夕など、気づけば肌寒いほどで何か一枚上に着るものが欲しいような気がする。 そのようなことはつい先日まで考えもしなかったのですよ。それがいまはそう考える。ねっとりとした夏の空とは違い、見上げた夜空は高く澄んで月も冴え冴えとしています。 それが夏から秋への変化、ではないでしょうか。景色を見、恋を詠い、昇進を願うのが男性貴族のあり方です。姫たちと言えばさらにすることはなく、日がな一日暇を楽しめなくてはとても務まりはしないでしょう。 ですから余計、収穫の歓びとは別のところで、季節を感じたのだろうな、と私は思うのです。 なにやら物悲しいような気がする秋。それはひいては我が身に繋がっていくことでしょう。大地の巡りである季節を、我が身と捉え、秋を人生の衰えてきた時代ととる。 人と言うものの儚さ切なさをそうして知ったことでしょう。自らに季節を重ねたとき、だからこそ物思いをする胸苦しいような哀しさ、と言う感情が生まれるのではないかと思います。 それにしても鹿の鳴き声、とはどのようなものなのでしょうね。古くから鹿の鳴き声は趣きあるもの、といわれているようですが、私は聞いたことがないのですよ。 日本では「万葉集」のころから雄鹿が雌鹿を呼ぶ声、と言うのは詠まれています。中国はもっと古いですね。「詩経」と言う大変に古い詩集があるのですが、それなどは「万葉集」よりおおよそ千年程度は古いのではないか、といわれています。その中にも鹿の鳴く様が詠われていますよ。 獣のことですから、本当のところはどうなのかは知れません。ですがなんだかやはり、互いを求めて鳴く鹿と言うのは素敵ですね。どのような気持ちなのだろうな、と考えてしまいます。 「篠原さん、いったいどんな気持ちで鹿が鳴くんだと思いますか」 この原稿を書きながら、ついそう聞いてしまったのですよ。私の過ちでした。無言で原稿用紙に向かっていたと思ったら、突然顔を上げてそのようなことを尋ねるんですからね。篠原に怪訝な顔をされてしまいました。 「……熱でもあるか」 ご丁寧に側に寄ってきて額に手まであててくださいましたよ。まったく。 「そうじゃないですよ、鹿です、鹿」 言ってとりあえず下書きの原稿を見せました。本当は見せたくないのですよ。何しろあちらは文章に関しては本職ですから。恥ずかしいのです。 そんな私の気持ちなど知ってか知らずか意外と真剣に読んでくださるんですけどね。 「なるほどな、こういうことか」 「それで聞いてるわけですよ」 「よくわかった」 「それで、篠原さん」 尋ねる私にのらりくらりとして返答をしません。ここは買収に出るべきでしょうか。いやいや、ここ最近は少し甘やかしすぎです。昨日もつい、篠原好みだなと思っては菓子など買ってしまいましたし。 私に甘やかす気がない、と悟ったのでしょうか。篠原は渋々といった体で、それでもにやりとして言いました。 「琥珀君よ、いったいどんな気持ちで恋歌を詠うのか、私にとくと説明してくれたら答えてあげよう」 私もずいぶん強くなったものだな、と思うのはこんなときですね。篠原のところに居候するようになった当初は、とても口答えなどできなかったものですが。 「なるほど、では篠原さん」 「……なにかね」 「あなたがどんな気持ちで小説を書くのか、教えてくれたら私も教えて差し上げますよ」 なぜか篠原ぐうの音も出ず。不思議なものですね、彼の書く小説は恋愛小説ばかりでもないのに。そこで言葉に詰まると、まるで私の歌のすべてが恋歌であると言われるよう、彼の小説のすべてがなにやら裏側に別の思いがあるようにも、見えてしまいそうです。無論、それは私の戯言ですよ、本気になさいませんように。 |