百人一首いろいろ

水野琥珀



 この月は、いつの月だったのでしょうか。史実に照らし合わせて考えれば、春から初夏にかけてのことではないか、と思うのですが、その歌の佇まいからして秋の月を瞼の裏に思い浮かべていたとしてもよいかな、とも思います。



 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
 三笠の山に 出でし月かも



 安部仲麿の歌です。久しぶりにどこの誰だかはっきりしている人の歌ですね。「古今集」の詞書には中国で月を見て詠んだ、とあっさりあるだけですが、さすがに「古今集」の編者もそれだけでは何がなにだかわからない、と思ったのでしょう。長い註を加えています。
 簡単にご説明いたしますと、仲麿は中国に留学していたのですね。長い年月を中国で過ごしましたが、今度の遣唐使船を逃すといつ帰ってこられるかわからない、と言うことになります。そこで仲麿は帰る決心をするのですね。明州、と言うところで中国で知り合った友人たちが、帰国にあたって送別の宴を開いてくれました。夜になって月が趣きある様で上ったのを見て詠んだ、と伝わっているということです。



 夜空を、振り仰いで見る。遥か遠く、どこまでも広がっていくこの空は、わが祖国と友のいるこの地と同じ空。それなのにこの地の空はどうしてこうも広く感じられるのだろう。
 あの月も、同じ月なのだな。遠い故国でいま、残してきた人たちも見ているのだろうか。彼らに会うことができるのだろうか。
 思い出す。三笠山の月。遣唐使船に乗る前に、旅の無事を祈って詣でた春日神社の上にも、月が出ていたな。
 これはあの時の月と、若かりしころ私が見た月と、同じものなのだ……。



 仲麿は、あの時代の高名な詩人、王維や李白とも親交がありました。現代でも名高い詩人たちです。その彼らと親交があった、と言うだけで仲麿がいかにすばらしい詩情を持った人かがわかるというものではないでしょうか。
 明州で送別の宴を張ったのはその王維たちだった、と言います。当然ですが、中国人です。日本語に通じていたわけではありません。
 当時の中国は大国です。日本など、文化を習いに行っていたのですから、日本人が中国語を解すのが当たり前と言うか、礼儀だったのでしょう。ですから仲麿の友人たちは日本語を知りません。
 その中であえて仲麿は、日本語で、日本の歌を詠むのです。漢詩が作れなかったわけはありません。そうでしたら、詩人たちは交流はなかったでしょうから。漢詩を作ることができる、と言うのは一人前の男性の教養でもありますしね。
 ですから仲麿はわざと、和歌を詠んだのだと、私は思います。無論、友人たちは誰一人意味を取ることができません。中国語に翻訳をしてみせればようやく感嘆した、と言うことです。
 仲麿はなぜ、日本語で詠ったのでしょうか。もうすぐ船出、と言うときです。仲麿はかの国で大変に高い評価を受けていました。友も大勢いました。
 遣唐使船に乗った中国に着いたとき、仲麿は十七歳、と言われています。今でも日本にいる友よりも中国にいる友のほうが多いくらいでしょう。
 あれから三十有余年。咄嗟に口をつくのは日本語よりもむしろ、中国語になっていたかもしれません。それなのに仲麿は和歌を詠みました。
 想像です。私は言葉も通じない友にそうして詠ってみせたのは、決別ではなかったか、と思います。自分は日本に帰る、そうした決心ではなかったかと。
 帰らなくともよかったはずです。仲麿自身一人だけのことならば、中国にいたほうがずっとよい暮らしができたことでしょう。
 それでも彼は帰国を決めました。なぜでしょうか。今まで自分が学んできた知識が、明日の日本のためになると思えばこそです。そのための、留学生でした。
 不安だったはずですよ。自分のことを覚えているものがはたして生きているだろうか。留学生・仲麿を覚えているものはいるでしょう。ですが彼の友はいるのでしょうか。
 仲麿は、中国で詩才にあふれた友人をえました。友との語らいを知りました。それは故国にもあるものなのでしょうか。
 遣唐使船に乗るときは、青春の熱情に浮かされるよう弾んだ気持ちだったはずです。確かに危険はあります。生きて辿り着けるかどうかも定かではない。それでも心弾ませ目を輝かせていたはずです。それが、若さというものでしょう。
 同じよう、いま遣唐使船に乗ります。今度は反対に日本に帰っていく船です。中国で得たものすべてを捨てて仲麿は船に乗るのです。
 それは大変な決心が必要だったこと、と私は思います。
 運命と言うものは、不思議なものですね。そうして乗船した仲麿を待っていたのは難破でした。暴風にあい、すでに仲麿は死した、と伝え聞かされた李白は哀切な詩を詠んでその死を悼んでいます。
 が、仲麿は生きていたのですね。なんとか命ばかりは助かった仲麿は、いたし方ありません唐朝に戻ります。その仲麿に、皇帝は元のごとく官位を授け次第次第に官位を進め、七十歳ほどで亡くなった、と言うことです。
 私など、俗物ですからさぞほっとしただろうな、と思ってしまうのですよ。長く離れていた故郷に帰る義務よりも、素晴らしい友に囲まれ過ごす異国のほうが、ずっと居心地が良かっただろうな、と思います。



 気のあう友、というものは得がたいものです。ただの話し相手ではいけませんよ。遊び相手でもありません。
 後事を託せる、とでも言いましょうか、全幅の信頼を置ける人。なおかつ、その人に寄りかかるだけではなく、対等にありたい。対等なだけではなく、友に自分を誇って欲しいがためにより高みを目指したい。
 そして双方が互いにそれを望むとき、人は真の友を得るのではないか、と思います。
 私は一時、歌を捨てました。戦争がありましたからね。捨てざるを得なかった、と言うところはあるのですが、所詮は言い訳かもしれません。
 私が再び歌を詠む気になったのは、理解者を得たからでしょう。それは、間違いのないことです。もしも彼に出会うことがなかったならば、私はどこぞで朽ち果てていたことでしょうね。
 今こうして文章を四苦八苦しながらでも書いているのは、やはり彼に認められたいからではないか、と思うことがあります。
「なにを子供のようなことを」
 魂が、口から飛び出てそのままどこかに行くかと思いました。篠原です。また人の手元を覗いていたのですね。
「だって、そうは仰いますが――」
 私にとって篠原は、いつまで経っても目標なのです。お互い表現する世界は違いますが、それでも私にとって彼は、高みにいるのですよ。
「水野琥珀にそこまで買われているとなると、少しは働かないといけないような気がしてくるな」
 そう篠原は言います。思えばここ数日、原稿用紙が埋まっているのを見た例がありません。こんなとき、少しは篠原も人間なのだな、とほっとするのです。




モドル