百人一首いろいろ

水野琥珀



 前回は、寂しげな冬に向かいつつある歌をご紹介いたしましたから、今回は明るい冬の歌にいたしましょうか。
 冬は決して寂しいだけのものではない、そのような気持ちにさせてくれる歌です。ことに正月のころに詠むと味わいが深い、と思うのはそれだけ鮮烈だからではないかと私は思います。



 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
 富士の高嶺に 雪は降りつつ



 言うまでもなく有名な歌ですね。詠み人は山部赤人、「万葉集」の時代の代表的な歌人です。柿本人麻呂に比べて一段落ちる、などとも言われますが興趣が違う、それだけのことではないでしょうか。
 ですがここに一つ問題があります。この歌、実は赤人が詠んだものではないのですね。違う、と言ってしまうのも問題なのですが、少なくともこの歌、ではないようです。
 赤人が詠んだ歌は「万葉集」に収められています。歌集中、この歌は「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」となっています。
 どうでしょう。ずいぶんと感じが違うとは思いませんか。ひとまず、「百人一首」に準じて現代語訳をすることにしましょうか。



 田子の浦にふと、出てみる気になった。佇んで遠くを見やれば澄み切った空。かすかな潮騒の音も聞こえるだろうか。
 眼差しを投げれば遥か遠くに富士の峰。なんと大きく、なんと美しい。
 あの純白の富士に今しも雪は降り積もりつつあるのだな。



 多少、そっけない訳ですがこれはもうどうしようもありませんね。この歌は感情よりも視覚に訴える歌で、音を聞き目で愛でる歌、と言ったほうがいいでしょう。
 言ってみれば耳で聞く絵画です。この歌を朗唱したとき、人はそこに白い富士山を見ます。ただひたすらにあるのは富士山のみ。背景の青い空も映ってはいないかもしれません。
 本人はどこにいるのでしょうか。いない、と私は思います。歌人の気配どころか、この歌には近景すら描かれていません。
 感じるのは、あるいは歌人その人が純白の富士に感じた畏敬だけ、と言ってもいいでしょう。画家であったならば、そこに描き出すのは美しい山の姿でしょうね。
 ですが赤人は歌人でした。ですから歌の姿をとった絵画、なのではないかな、と私は思います。まるで一幅の掛け軸のようだとは、思いませんか。
 元の歌は前記のとおりですが、こちらはよりいっそう力強い山の姿を現しています。違いを上げるとすれば田子の浦に出たのではなく、通りがかりであったこと、勿体つけた言い回しではなく素直に伸びやかに美しさを歌っていること、くらいでしょう。
 元の歌で赤人はその場に立っています。通りがかりに突如として富士山が目に入ったのですね。その高嶺に降っている雪が山を真っ白に染めている感動を彼は歌います。
 好みで言えば私は元の歌のほうが好きです。ただ、朗誦するとなると手の加えられた歌も悪くはない、と思います。
 この歌は昔から評判が良くないですね。歌そのものに対してではなく、「新古今集」に転載されたときの改悪が甚だしい、と言うのです。
 私と同世代の方々には覚えのあることでしょうが、戦時中は「万葉集」全盛でしたね。「古今・新古今」は柔弱で日本文化を貶めるものだ、とまで言われたものです。
 この赤人の歌など、槍玉に上げられていました。「古今・新古今」時代の歌人たちがいかに歌を蔑ろにして駄目なものにしてしまったか、それは激しく罵られたものですよ。
 私は、和歌が好きです。時には「万葉集」こそが素晴らしい、とも思いまた別の日には「古今・新古今」はなんと素敵なのかと感じ入る。
 歌、とはそのようなものではないか、と思います。確かに「万葉集」は大らかで素直、どちらかといえば男性的ですが、優しい恋歌がないわけではない。「古今・新古今」はなよやかで優しい調べが重んぜられ女性的といわれますが、かといって恋歌ばかりではありません。
 当たり前だ、と思いますよ。歌は人が詠むものです。人は女性的なだけでも男性的なだけでもありません。一人の男性のうち、優しい女性のような心遣いがあることもあれば、風にも耐えぬげな女性が男よりもなお逞しく生きることもままあるものです。
 人とは、そのような存在だと思います。
 時代性、というものも忘れてはいけませんね。歌に限らず歴史を語るときでもそうですが、あまりにも現代に近づけて考えすぎてはなりません。
 そのとき、その時代の考え方と言うものが必ずあるものです。私たちも経験しましたね。戦時中は鬼畜米英などと言ったものですが、米兵は鬼でも蛇でもありません。人でした。それを知って私たちは教えられてきたこととずいぶん違う、と戸惑いもしたでしょう。
 いま、私たちは米国人を無闇に恐れるでしょうか。過去の私たちを愚かだと嗤うでしょか。歌も、同じことです。
 どちらが優れているでもなく、どちらが劣っているわけでもない。「万葉集」も「古今集・新古今集」も我々の歴史に燦然と輝く歌集です。
 私はとても嬉しいのですよ。こうして現代に生まれることができて。いままで編まれた素晴らしい歌集に接することができる。それはとても幸福なことです。



 ずいぶんと堅い話になってしまいましたね。山部赤人は来歴の知れない人なので、別の話しをしようと思ったらこのようなことになってしまいました。
 気分を変えて富士山の話をしましょうか。我が家の側に大きな公園があるのですが、そこからよく見えるのですよ、富士山が。
 不思議なものでわざわざ公園になど行かなくとも見える富士山を、時折のんびり眺めたくなって散歩に行きます。
 そのようにして暮らしているせいでしょうか。旅先から帰ったときなど、妙に富士山を見てはほっとするのですよ。
「根っからの関東の人間だな」
 そんな私を篠原は笑います。でも、なんとなく気持ちはわかっていただけるんじゃないでしょうか、故郷の山を見たときのあの気持ち。
「そばつゆが甘いのからいの、文句を言うんだからたまったものじゃない」
「文句は言っていませんよ」
「嘘をつけ。歌に優劣はないなんて言いながら、そばつゆには優劣をつける」
「食べ慣れた味が懐かしい、それだけのことです」
 言えば篠原はにやにやとしています。どうやら私は言い負かされたようですね。でも、思うのですよ。いい年をして編集者が側にいるのは気に入らないから、と言ってわざわざ旅先に私を呼びつけるような男が物の優劣を語っていいのでしょうか、とね。




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