百人一首いろいろ

水野琥珀



 同じ雪に題を取った歌でも、こちらはまた清々しく美しい歌となります。思わず息を飲むほどの雪、というものを一度見てみたいものですね。そのとき目に飛び込んでくる雪は、いったい私たちになにを感じさせてくれるのでしょうか。



 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに
 吉野の里に ふれる白雪



 非常に明朗、なだらかで口にしたとき感触のよい歌ではないかと思います。難しい言葉もなくすとんと理解ができる歌ですね。とても気持ちのよいものです。
 詠み人は坂上是則という下級官吏から受領程度の人です。よって、詳しい生涯はいつものことですがわかっていません。
 が、彼は古今集の時代を代表する歌人として名高くあります。紀貫之らと親しく、三十六歌仙に選ばれてもいます。そちらのほうがきっと彼には大事だったでしょう。
 そうそう、前々回にご紹介した「み吉野の」の歌の本歌となっている歌を詠んだのが、この歌人でした。あのときご紹介した本歌もどうでしょう、平明で優しい歌だとはお思いになりませんか。
 古今集の歌、と言うとどうしても難解、と言いますか、変に言葉をこねくり回したものと思っておいでの方も多いように思います。
 ですがこのような歌もあるのですよ。言葉に対する感覚の差ではないか、と私などは思います。ごく少ない言葉でいかに多くのことをほのめかすか、そこに和歌の真髄があるのではないか、と思いますがそれに走りすぎては面白くありません。
 わかりやすく口にのぼせやすく、そして美しく意味の深い歌、それを詠むことができるこの歌人を私は素晴らしいと思います。
 とはいえ、それでけではないのがこの人の凄いところなのですが。実際に現代語訳をしてみることにいたしましょうか。



 夜明けに、仄かに東の空が明るくなってきた。
 そう思うほどに空が明るい。あるいはそれは有明の月。白々とした月明かりが降り注いでいるのかと惑うほど。
 いいや、違うのだ。あれは月明かりなどではなく――。見ればやはり、空に月はない。もう、私にはわかっていた。あれは。
 雪だ。月明かりに紛うほど一面に雪が積もっては、辺りを照らしている。
 なんという雪。ここは吉野。あの古の離宮。名高い過去の歌人たちが歌ったあの古里。霊水が湧き鳥が歌い、宮廷人たちがこぞって集った地。
 なんと感慨深いものか。いまは彼の人たちはなく、吉野の里に降る雪ばかりが同じかと思えば。
 吉野よ吉野。この里に降る雪よ。お前は覚えているか。天武帝が潜み時機を窺い、持統女帝が遊んだあのときを。
 時は移り、都も遷った。いまは人気の絶えた吉野よ。この雪を愛でた人たちはもういない。だが我等このときを生きる歌人はみな心にその景色を持っている。
 吉野の雪よ。お前こそが我が心の古里――。



 かなり恣意的な解釈をいたしましたが、とんでもなく外れているわけではないのではないかな、と期待しています。
 かほどに吉野の地は心を騒がせるものなのでしょう。私たちにとって吉野といえば桜か花見ですが、王朝の人々にとっては違います。
 いえ、確かに花は意識したようなのですが、おそらくそれ以上に吉野といえば雪、と答えが返ってくるのではないかと思います。
 吉野の桜が人々の意識に上りだしたのはずっと遅くになってからです。それ以前の吉野はとにかく雪深い人跡未踏の地、とでも言いますか、容易に人が入り込んではならない霊山であったのでしょう。
 そこに降りかかる雪の美しさはいかばかりであったでしょうか。懐古すればするだけ美しさというものはいっそう強さを増します。
 雪と月、というものはよく対比にも比喩にも使われますね。この時代に一斉を風靡したといってよいほど、使われるようになった表現でもあります。
 月の光を雪や霜に見立てる表現が、一般的で漢詩からの影響ではないかと思います。この歌では逆に、それを踏まえてもう一度ひねっているのですね。
 ですから、月の光に見紛うような雪明り、と言うことになります。
 月はその名だけが歌に出てきていて、実際には空にありません。それがいっそう雪明りに照らされた吉野の風景を鮮烈に切り取っている気がします。
 この歌を耳にしたとき、当時の人々は吉野の景色とその歴史を思い、霊山に遊ぶ鳥の声を聞き、目には深い雪を見ていたのではないかと思います。
 それがこの歌の難しさではないかと私は思うのですよ。現代において、この歌はなだらかで優しい歌です。
 ですが当時にあってはどうだったでしょうか。私たちが同じ感慨を抱くことはできなくなっている、そのようにも思います。
 ですが、それもまた一興。歌の楽しみ方のひとつに違いはありません。現代の我々が、同じ歌に同じ感想を持つ必要がないのと同じこと。それでよいのではないかな、とも思います。
 坂上是則と言う歌人について最後にひとつ。面白い話が伝わっていますよ。
 彼は歌の名手であるだけではなく、蹴鞠の上手でもありました。ある時、殿上人や上手と名高い人たちを集めて蹴鞠をさせたことがあったらしいのですね。
 仁寿殿で行った、と言いますからあるいは天覧ででもあったのでしょうか。是則ももちろんこの中にありました。
 彼は二百六回も続けて蹴っては落とさずにいた、と言います。これを時の帝はたいそう愛でて絹を賜った、と言いますよ。



 なんだか清々しい雪を見たくなって近所の公園に行ってみました。前回もお話したあの、公園です。よく晴れていて富士山がたいそう綺麗でしたよ。
 遠くから見る富士山は、しっとりと雪化粧をしてなんと美しいのでしょう。つくづく心が震えます。
「そういうことを言うのは登りたくないからか」
 相変わらずの篠原です。機嫌が悪いのはきっと、無理に誘って外に出したせいでしょう。あまり篭りきりなのも体によくない、と私は思うのですけれどね。
「違いますよ、遠くから見るのが綺麗だ、とそれだけのことです」
「どこが違う」
「ちっとも同じじゃないでしょうに」
 言っても篠原は不満そうな顔を崩そうとはしません。困ったものですね。そう呆れていたのですが、ふと気づきました。篠原の頬が少しばかり赤くなっています。
 どうやら体調がよくなかったらしいのです。私としたことが迂闊でした。熱気のある男を外に誘ってしまったとは。早々に家に連れ戻して甘酒でも作ってやることにいたしましょうか。




モドル