百人一首いろいろ

水野琥珀



 せっかく桜の歌をご紹介したのですから、今回はぐっと色っぽい春の歌にいたしましょうか。
 春、と言えばそれだけで色めいた心持ちになるもので、春の恋歌はなんともいえず艶やかなものでもあります。そのあたりが同じ恋の歌でも秋とは違うところですね。



 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
 かひなく立たむ 名こそ惜しけれ



 詠み人は周防内侍、父が周防守だったのでそう呼ばれるのではないか、とのこと。実際はどのような素性の女性かはわかっていないようです。
 後冷泉天皇から四代の天皇に仕え、多数の歌会に参加した当時の名高い歌人の一人です。
 この歌はそれだけを耳にしても趣のあるものですが、詞書を知ったほうがずっと楽しく鑑賞できるのではないか、と思います。
 「千載集」巻十六、雑に収められている歌で、その詞書にはこうあります。
 陰暦二月、と言いますからいまの三月ごろ、すっかり春ですね。そのころに二条院に人々が集まっては夜通し物語などをしていた、と言うのですよ。
 春の夜の、少しばかりむっとしたような匂い。煌びやかな貴公子に才を誇る女房たち。そんな人たちが集まっていた、と思ってください。
 そこに周防もいました。物語に疲れたのでしょうか、物によりかかって体を休め、彼女はふと呟きます。
「枕が欲しいわ」
 と。それを耳にした大納言忠家卿。すかさず御簾の下から自らの腕を差し入れます。
「どうぞ、これを枕に」
 なんとも大胆な振る舞いに、現代女性ならばどのように対応するのでしょうか。少しばかり興味がありますが、ここは周防内侍に戻りましょう。
 彼女は慌てず騒がずご紹介の歌を詠んだのですよ。ここでも現代語訳に参りましょう。



 春の夜は、短く明けやすいもの。夜の夢はたちまちに覚めてしまうもの。
 いまのあなたのお言葉は、そんな儚いお戯れ。あなたの手枕をお借りしたりしては、つまらない浮名が立ってしまいます。
 そんな口惜しいこと、とてもできませんわ。



 「かひな」に「甲斐なく」と「腕」をかけているのですね。技巧的でありながら軽妙。するりとした詠みぶりは、決して相手を悪く思っている風ではなく、むしろ忠家卿とは仲がよかったのではないかな、とも思わせます。
 無論、ここは断るのが筋、というものです。ここでその気になってしまっては女が廃るというもの。男のほうもわかっていてのことですから、はねつけられてへこみはしません。

  契りありて 春の夜ふかき 手枕を
  いかがかひなき 夢になすべき

 そう、返歌をしてのけます。もっともこちらも返歌ができなければ大変な恥ですから、して当然ではあるのです。それくらいの機知がなければ、戯れかかったりしなければよいことです。いわば大人の遊び、ですね。
 忠家卿の歌の大意は「前世の約束で出会った私たちなのですから、なんで一夜の夢ごときで終わらせたりするものですか。私は真面目ですよ、いやいや本当に」といったあたりでしょう。こちらも軽やかに歌って、やはり大人の余裕を感じさせます。ただ、和歌としてみたとき、周防内侍の歌の出来のほうがよいように、私は思いますね。ここでも忠家卿は負けたようです。
 さすが、王朝末期の才媛といったところでしょうか。遊びの風情もどこか退廃を帯びていて、王朝文化の爛熟を感じさせます。
 ちなみにこの忠家卿、あの俊成卿の父親です。以前ご紹介した「世の中よ」の歌の、俊成です。親子というものは、わからないものですね。あのような儚い無常観に彩られた歌を詠む俊成の父親が、この忠家だというのですから。
 時代の差、でしょうか。父が生きた時代は、末期とは言え王朝文化の真っ只中にありました。末期末期と繰り返していますが、当時の人々にとっては今こそが時代の華であったでしょう。
 転じて息子は平家が都落ちしていく様をまざまざと見る、正に時代の転換点に立ち会った人でした。
 その辺りが歌の詠みぶり、態度にも現れているのかな、などと私は思います。とは言え、似ていない親子などどこにでもいるものですから、単なる想像に過ぎません。



 親子、といえば、きっと私の父も草葉の陰で泣いているのではないかな、などと思うことがあります。
 何しろ謹厳実直を絵に描いたような人で、息子が柔らかいことをするのが大の嫌いときていましたからね。
 このようなことでもなければ思い出すこともない薄情な息子なのですが、和歌の道を志したときにも、決してよい顔はしない父でした。
 むしろ応援してくれたのは母でしたね。父に隠れてこっそりと歌集を買ってくれたりしましたよ。その道も戦争で一度は途切れてしまったのですが。
 あまり公にはしてこなかったことですが、以前の私の名は「沈香」と言いました。本名の姓にその名をつけて名乗っていたのですね。沈香は、母が好んだ香りでした。
 再出発にあたって、今更いうのも面倒なほどですが、力を尽くしてくれたのが篠原です。彼がいなければ、いまの私はありません。いや、いまの私どころか、私は生きていたかすら怪しいものです。
 普段、言葉の限りに篠原を悪く言うものですから識者の方々にはお叱りを受けることも多々あるのですが、感謝していないわけでは無論ないのですよ。むしろ、面と向かって礼を言うなど照れくさいほど、ありがたく思っています。
 このようなことを言えば、別種の誤解を受けるのではないかとの危惧がないわけではないのですが、別に隠していることでもありませんしね。いまの私の名は、篠原がつけたものです。
 どうやら私の目は一般的な日本人より少し色が淡くもあるのでしょうか。自分ではさほどでもないと思っているのですが。篠原はそれを評して「琥珀の色だ」と言いました。気に入ったのでしょう。
 文筆家の感性とは面白いものですね。男の私に仮にも宝石の名を与えてどうしようと言うのか確かめたいところですが、なんだか恐ろしいのでやめておきます。
 篠原は、きっととんでもない浪漫家なんですよ。人嫌いで、不機嫌でむっつりして愛想の悪い男ですが、もしかしたらそれはうっとりと優しい気質を隠すための仮面なのかもしれませんね。と、そのようなことを言って茶化すから、また私は各方面からお叱りを受けるのです。いいのですよ、それでも。篠原は怒りませんから。



 追記・掲載後、ある方より「忠家卿は俊成の祖父ではないか」とのご指摘をいただきました。仰せのとおり、私の誤りです。訂正してお詫びいたします。
 浅葱・註 参考にしている「百人一首一夕話」の記述を追跡することなく書いてしまいました。俊成の欄には間違いなく「忠家は祖父」とあります。僕のミスでした、ごめんなさい。




モドル