百人一首いろいろ

水野琥珀



 恋、といえばすぐさま燃えるような、と形容されるものです。和歌の世界では秘めたる恋や忍ぶ恋が多く歌われますが、激しい恋がないわけではありません。
 恋した人の胸のときめきや心の揺らぎは、炎と言うものが最も相応しく表しうるのではないでしょうか。だからこそ千年もの昔から我々は恋を炎にたとえてきたのではないかな、と思います。



 みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ
 昼は消えつつ ものをこそ思へ



 詠み人は大中臣能宣。神職の家に生まれ和歌を能くし、梨壷の五人として「後撰集」の選定にかかわりました。
 どこかで聞いたような姓ですね。それももっとも。中臣鎌足の名は誰しも聞いたことがおありでしょう。後にその功を愛でられて藤原の姓を授けられました。
 が、鎌足の子の不比等の時代、鎌足の直系のみを藤原姓とし、あとは「神職としての勤めに戻るよう」と中臣姓に復することが定められました。
 その後の時代になってから大、の一字を加えてできたのが大中臣姓です。このことからもわかるよう、元々中臣と言う家は神職の家だったらしいのですね。天と地の間に立ってその間をつなぐ臣下、とでも言うところでしょうか。
 能宣もまたその家に生まれたものらしく、はじめは蔵人として宮中に仕え、受領となり、その後は着実に神祇官としての人生を歩んでいきます。
 現代の我々から見ると、そのような人がなぜこれほどの恋の歌を、と思いますが忘れてはいけません。能宣は神祇官である以前に、歌人でした。



 宮中の諸門を守る衛士たちが、夜な夜な火を焚く。選り抜きの彼らに、今夜も宮中は守護されているのだ。
 あれは宮中を守る警護の篝火。男たちの遠い声。火の匂い。跳ね上がる火の粉。夜空を焦がす赤い炎。その頼もしさ。
 あれは私の心。燃え上がった私の恋。炎のように揺らめく心。あなたの姿を、肌を、匂いを思い出しては燃え盛る私。身を焦がす。
 篝火が消える。朝の訪れ。あの頼もしかった炎が、ほんのひと時の間に消えてしまうその儚さよ。
 消えた炎のよう、私の心も沈み込み、消え入ってはあなたへの思いに絶えていく。あの炎のように。



 衛士の焚く火と言うのはどうも大変に印象的なものだったようです。文学作品にも多く取り扱われていますね。
 能宣の歌でよいな、と思うのは燃え上がった炎だけを歌っているわけではないところでしょうか。炎は燃えれば消えるものです。
 ここでは朝になって衛士が消していますが、燃え盛る炎と同時に、消されて儚くなったものにも自分をたとえる、と言うのはどんな気分なのでしょうか。
 これは完全に私自身の解釈ですが。あるいは能宣の恋は人に裂かれたものだったのかもしれません。恋した人も自分を思ってくれているのは知っている。でも揺れ動くのは先のない定めが見えてしまったいるから、かも知れません。衛士が消す火、と言うのがとても暗示的だと思います。
 能宣は自分で消したい恋ではなかったのでしょう。私には消えた篝火のよう、物思いに沈むと同時に、他人の手で消されていく恋を、彼の目は見ていたのではないか、そのように感じられます。
 さて、彼の父も歌を能くしましたが名高くなったのは子の能宣の時代になってからです。万葉集の訓読を命ぜられたり、先にも述べましたが「後撰集」の選者として梨壷の五人と称せられたりしたのは能宣です。
 その能宣の若かりし日の話です。ある年のこと、子の日のお祝いにある親王家に参って歌を献じた、と言うのです。子の日と言うのは若い松を引いたりして祝うもののようで、歌の題もそこに取られることが多いようです。

  ちとせまで限れる松も今日よりは
  君にひかれてよろづ世や経ん

 能宣はそう歌いました。人々もよい歌だ、と口々に褒めたのですが、その話を聞いた父親はしばしののち側にあった枕ではっしとばかり息子を打って叱りつけました。
 もしも思いがけずお主上の子の日にお召しを受けたとき、どのような歌を献じるのか、このような歌を親王に捧げてしまって、と言うのです。
 これには能宣、一言もなく父に服して逃げた、と言うことです。能宣の父もその歌の良さをわかっていたからこそ叱りつけたのでしょうね。



 現代の我々にとって、もっとも身近な火とはなんでしょうか。あまり思い出したくない類の火もありますから、親しみ易いほうにいたしましょうね。
 となると私に思いつくのはやはり、花火でしょうか。あれも大変に印象的ですし。初めて見た日はあまりの美しさに言葉もない、そこも同じだと思います。
 大きな打ち上げ花火、立派な仕掛け花火。いずれも心躍り楽しいものですが、どうでしょう、手持ちの花火もいいものではありませんか。
 夏の日の夕暮れ、家の前に家族で集まっては柔らかな火花の有様を眺めて笑う、とてもいいものだと思います。
「そう言えば、最近は花火などやっていないな」
 ぽつりと篠原が言いました。今は実家に帰った甥のことを思い出しているのでしょう、遠い目をしています。
 彼の甥がこの家にいたころには、よく三人で花火をしたものです。それはそれは大変でしたよ。小さな子供が火傷をしないよう目を配るのも、大きな大人が火傷をしないよう目を配るのも、みんな私の役目ですからね。それでも、楽しい思い出です。
 そんなことを思い出していたらいつの間にか篠原がいません。どこかに出かけたのだろう、思っていたら案の定、夕食時になって帰ってきました。
 他愛ないことなどを話しつ夕食を終えたあと、普段でしたらお互いもう少し仕事をしたりするのですが、今夜に限って篠原がふらふらと庭に降りていきます。庭先から振り返った篠原の手には、花火がありました。
「久しぶりにやらないか」
「大人二人で、ですか」
「別に大人がやって悪いものでもあるまい」
 ふっと顔をそむけて言う辺り、本人も照れてはいるようです。ここはお付き合いしないといけませんね。
 と言いつつ、私も何か楽しみになってきました。本当に、花火など久しぶりです。あの頃のよう、小さな子供の笑い声はありません。
 あるのは優しく弾ける花火の、小さな火花。暗がりの篠原の顔は定かには見えませんでしたけれど、少し微笑んでいる、そんな気がしました。




モドル