百人一首いろいろ

水野琥珀



 和歌は無論、恋歌だけではありません。景色を歌う事もあればそれに思いを寄せることもありますね。そのようにして印象付けられた歌は私たちの心にいっそう深い感慨をもたらすように思います。
 人の目に映る景色とは、あるいは心情なのかもしれない、私はそのようにも思うのですよ。誰かの目を通して自然を眺めたとき、その人が表現するのは自分の心、そんな気がしませんか。



 淡路島 かよふ千鳥の なく声に
 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守



 源兼昌の歌です。「金葉集」の詞書に「関路の千鳥といへることを詠める」とありますから、これは題詠の歌ですね。
 兼昌の生涯はよくわかってはいません。十二世紀ごろの人で、何度か歌合に名を見ることができます。そのことで一つ、わかることがあります。
 彼の時代、須磨の関所はすでに存在しませんでした。



 海の向こう、かすんで見えるあれは淡路島か。ぽつりぽつりと小さな影もまた。あれは千鳥。
 波の上をはらはらと飛びつつ、友を慕い妻を恋して鳴き交わす。あの声のなんと心を打つこと。
 まるで我が心を鷲掴みにされるような声じゃないか。君はあれをなんと聞く、須磨の関守よ。聞こえるか、きっと聞いたはずのあの声が。
 君にもいただろう、友が妻が。千鳥の声に君は目覚めたか。何度となく、幾夜となく。そしてただじっと耳を傾けたのだろうか。
 私も千鳥の声に耳を傾けよう。今のもういない須磨の関守がしたごとく。去りし昔の人々が見た景色の中、私はただじっと。



 千鳥の声が物思いを誘う、と言うのはいわば和歌の約束事のひとつです。それを踏まえた作歌ながら兼昌の歌は人の心を打つものがあります。
 愛唱しやすい、と言うことが一つあるのでしょう。この歌は多くの人々に好まれてきました。ですが、それだけでしょうか。
 ただ口に上せやすい歌ならば他にもたくさんあります。華やかで楽しい歌も、ひょうきんな歌も。けれどこの歌は違いますね。
 とても、寂しげです。題詠である、と言うことを忘れてしまいそうなほど、胸に迫ります。あるいは兼昌は別のどこかでこのような思いをしたことがあるのかもしれません。
 それが須磨と言う舞台とあいまって、大変に物悲しく切なく響きます。
 須磨といえば、誰しも思い浮かべるのは源氏物語でしょう。光君が都落ちしていく場面、覚えていらっしゃいますか。
 光源氏は親しい人たちと別れ、従者も少なく彼の身分から考えたらこの世の果てとも思われる須磨、と言う僻地に去って行きます。それは春先のことでした。
 それから時は流れ、梅雨がすぎ夏を迎え、いつしか秋風が立ちます。ただでさえ寂しい僻所の秋。これが心細くないわけがありません。
 耳に覚えのない潮騒の響き。風が木々を揺らす様まで心を揺さぶったことでしょう。それでもまだ秋はいいのです。物のあわれを解するならば、耐えられます。
 須磨の冬。ただでさえ寂しかった隠遁の暮らしに、耐え難い季節です。光君は自分の意思で都を退去しましたから、流人とは言いがたいのですが、それでも事実上は流人同様。
 恐れもあったでしょう、この場所への。ですがそれ以上に光源氏の心を苛んだのは間違いなく都の人々に自分が忘れられていく、その思いであったに違いありません。
 彼は呟くよう、歌います。私にはそれは、光源氏の精一杯の虚勢のよう、聞こえます。

  友千鳥もろ声に鳴く暁は
  ひとり寝ざめの床もたのもし

 兼昌の頭には、当然のようこの場面が浮かんでいたことでしょう。当時の人たちはみな、源氏物語の須磨の巻を脳裏に思い浮かべつつ聞いたのでしょう。
 その中でいったいどれほどの人がこの歌の寂寥を心から理解することができたのか、私にはわかりません。
 あるいは、理解できない、そのことをほっと安堵していたのかもしれません。自分は遠く都を離れたことなどないのだから、と。
 なお、この歌の「寝ざめぬ」と言う言葉は文法的に間違っているようです。「寝ざめぬる」が正しい形であるとか、「寝ざめぬらむ」の「らむ」が省略された形であるとか、様々説はあります。ですが、そのようなことはこの歌の前でいかにもささやかなことのよう、私には思えます。



 いい加減、心細さ寂しさに目が覚めてしまう、という年でもないのですが、時折にはそのようなことあるにはあるのです。
 そのような時、ただじっとこの歌を思い浮かべてみたりします。
 寝苦しさならば、輾転反側するというのも手でしょう。そうしているうちに眠れることもありますし。ですが、物思いの厄介なところですね、ひたすらじっとしてしまうのは。
 もっとも、私は寝苦しくても身じろぎ一つできないのですけれど。篠原がね、目覚めてしまうのですよ。とにかく寝つきが悪い上に眠りの浅い人で。
 本当に、ちょっとの物音で目を覚まします。一度など、猫が文机の上から万年筆を落とした音で目を覚ましましたからね。
 この有様ですから、私などがごそごそしようものならば、篠原は間違いなく起きてしまいます。私一人ならばともかく、二人揃って寝不足など、どうにもぞっとしませんね。
 ましてあの、篠原ですから。睡眠不足が続いた日には、きっと体を壊すのですよ。寝付いた挙句、原稿を遅らせて方々に謝りに行くには誰でしょう。私ですね。
「別にやれとは言っていない」
「言われなくともするものです、そのくらいは」
「そうやってお前がするから『篠原さんは琥珀さんを書生扱いしている』など言われるんだ」
「おや不思議ですね、私はそのようなこと聞いたことはありませんが」
「陰口を面と向かって言う馬鹿がどこにいる」
 お説ごもっともです。ですからここに記しておこうかな、と思ってこんな話にしてみました。私が彼に代わって謝罪に行くのも、彼の原稿を届けに行くのも、みな自分が好きでしていることです。
「そんなことを書いても無駄だろうに」
「それもそうなんですけどね、篠原さん。業腹じゃありませんか」
「他人が言うことなんか、放っておけばいい」
 自分で持ち出したくせに、この言い様です。呆れた男もいたものですね。ですが、ほんの少し、嬉しかったのですよ。他人になにがわからなくとも、私たちがわかっていればそれでいい、そう言われた気がして。




モドル