百人一首いろいろ水野琥珀極言すれば、恋をするということはすなわち生きるということかもしれません。人を思うとき、この身が心が生きている、そんな実感をするものです。たとえ思いが叶わなくとも。 口で言うのは易いものですね。ですが、誰しも覚えがありましょう。中々にこれはつらいものです。そんな時この歌を思い浮かべるのはいかがでしょうか。 思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり 詠み人は道因法師と言います。俗名を藤原敦頼といいましたが、生没年は不詳です。ただ、長生きはしたようですね。それについては後ほど。 この歌は「千載集」に収められた歌で、恋の部に題知らずとして出ています。現代の我々にとってはどうにもすっと入って来難い歌の一つではないでしょうか。 私見ですが、それにはこの歌の調べのよさがあるのでは、と思います。あまりにもなだらかですべすべとした感触が、一見して意味をわかりにくくしている、そんな気がしてなりません。 どうぞ何度か声に出して読んでみてください。つるりとしてつかみどころのない歌だと思いませんか。 涙、とあったり憂きと言ったりしているのですから、何かつらいことがあるのだ、とはわかるのです。ただそれがどうにもぴんとこない。それが妙な苛立ちを呼びます。あるいはそれがこの歌の味かもしれない、と思います。 思っても思っても決して振り返ってはくれないあなたを、だからと言って諦め切れなくては思い悩み、つれない人ゆえに苦しみ。 いっそ息絶えてしまいたい。そうまで思いつめたというのに、この私の体は今日も生きている。息をしている。 陽は昇り、月は翳り変わることなく過ぎていく日々。あなたがいなくてはすぐさま絶えてしまうと思っていたはずが、今日もまた。 淡々とすぎていく、現実感のない生。私の心はすでに耐えるということすら忘れてしまった。 ただ。耐え切れなかった涙ばかりが、私の心の代わりにほろほろと流れ落ちるのみ。 だいぶ現代よりに訳しましたが、大意は変えていません。この深い虚無は、まるで明治の文豪たちの小説のようだ、と私は思います。 「思ひわぶ」と言う単語は、恋歌に多く用いられる心の状態を表す言葉で、つれない相手ゆえに悩む心情を表しています。 私もその法則に則ってこれを恋歌として訳しましたが、あるいはこれは詠み人の人生観そのものであったかもしれないとも思います。 道因法師と言う人は逸話に事欠かないお人で、久しぶりにいったいどの話題をご紹介しようか、と迷うほどです。 なんといってもこの人は歌道を追求することに熱心で多少常軌を逸している、と思うほどの話も残っています。 熱心な人と言うのは多くいますが、道因法師の熱心さは並みではなかったようで、八十歳になっても「どうかいい歌を詠ませてください」と徒歩で住吉明神に詣でた、と言うのですからすごいものです。それも一度や二度ではないのですよ。なんと月詣でだというのですから、すさまじい熱心さ、いやいや、執念と申し上げてもいい。 そんな彼の歌が、あるとき歌合で負けてしまいました。そのときの判者は藤原清輔。道因法師、もう納得が行きません。わざわざ判者の元にまで押しかけて泣いて恨んだというのですから、清輔もたまったものではなかったでしょうね。他人事ですから笑っていられますが、後に清輔、あんなに参ったことはなかったと人に語っています。さもありなん。 歌にかける熱心さは、年を重ねても一向に衰えることなく、九十歳になって耳も遠くなったとなると、歌会では講師のそばににじり寄って耳をそばだてて聞いた、と言います。 その熱心さの甲斐でしょうか。「千載集に」道因法師の歌が収められることになりました。ですが、残念ながらこれは死後のこと。 ですが選者の俊成もまた、歌道に己を賭けた人です。道因法師が歌道に心を傾けつくした意を汲んで、十八首を収めること、としました。 すると驚くことが起きました。俊成の夢枕に道因法師が立ったのですね。もう大変に喜んで、涙を流して礼を言ったと言います。 俊成はこれに心を打たれ、哀れにも思いさらに二首を加えた、と伝わっています。 私も中々に人のことは言えませんが、ここまで熱意を露にされるとどうでしょうね。周りの人たちからは煙たがられたのでは、などと思ってしまいます。 もう一つ。付き合いにくかっただろうな、と思いますは道因法師。実は大変な吝嗇としても知られていたそうです。 自分の追い求めることにだけ心を砕き、他人のことなど知ったことではない。そう嘯く動因法師の声が聞こえるような気もします。 ですが私は思います。その心の中に彼は深い闇を抱えていた、と。心を滾らせる何かが必要だった。生きていくために。そう思えてなりません。この歌を知ってしまったからには。 私もいついかなるときでも歌のことばかりを考えて生きている、と篠原に言われてしまうような生き方をしています。 自分では案外そうでもない、と思っているのですが、他人はそうは思わないようですね。篠原ですらそう思っているのですから、彼より近しくお付き合いをしていない人にはいったいどう思われていることやら。多少は心配したほうがいいのでしょうか。 と言いつつ、あまり真剣になることができないのは、やはり私も歌に取り付かれた人間である、と言う証左かもしれません。 「篠原さん。もしも書くことができなくなったら、どうしますか」 ふと思いついて尋ねてしまってから、己の馬鹿さ加減を悟りました。まったく愚かなことを言ったものです。 「生きるために書いている。筆を折るときは死ぬときだな」 淡々と言われてしまいました。自分のことを考えればわかりそうなものです。私も篠原と同意見なのですから。 言うまでもない事ながら、生きるため。とは単に生活の手段としてという意味ではなく言葉通り「生きるため」です。 一生、無言で何も語らず何も思わず感じることすらなくて生きることができないように、私たちは文章を物し、歌を詠むことでしか生きることができません。 それを理解しあえる人と出会えた私は、ですから道因法師よりずっと幸せだと思うのです。 |