百人一首いろいろ水野琥珀前回は男性から女性への後朝の歌でしたから今回は逆の歌をご紹介することにいたしましょう。そもそもが後朝の歌というものは大変に艶めかしいものではありますが、この歌は何ともいえず、つい頬を赤らめてしまいたくなります。 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ 詠み人は待賢門院堀河といって、先に申しましたよう、女性です。厳めしい名前ですから何となく男性のようにも思えますが、これは候名といって、主に仕えるときの呼び名なのですね。女性です。この場合は待賢門院が主の、堀河が彼女の呼び名です。 待賢門院の名に覚えがありますでしょうか。「瀬をはやみ――」の崇徳院のお母上です。鳥羽天皇と白河上皇の間に愛憎をふりまいてしまった美貌の中宮でいらっしゃいました。堀河はこの方にお仕えした女房です。 候名は父兄の官職などからつけられることも多いので、そちらの方が一般的でしょうか。紫式部、の式部や、清小納言の小納言の部分がそうですね。 堀河は神祇伯の娘と言いますから、父の官職ではなさそうです。ですからあるいは住んでいた場所なのかな、とも思います。 「末永く変わらないとも」 「きっといつまでもあなたを離しはしない」 「いついつまでもあなたは私のものだ」 そうあなたは仰ったわ。昨日のことよ。とても嬉しかった。それも、本当なの。でも――。 怖いわ。不安なの。あなたのお言葉の真実を疑いたくなんてないのよ。信じたいの。それでも信じたいぶんだけ。怖い。 昨日の夜のあの熱に浮かされたような幸せな時。あの恋の時間にはあなたのなにもかもが信じられる気がしたわ。あなたのことを疑うなんて、思いもしなかった。 それが――。今朝になってこの乱れた黒髪を見ていたらふと。心まで、乱れてしまって。千々に乱れてもつれて、どうしようもなくなって。 私の心まで、黒髪のよう乱れもつれてしまったわ。 何とも言いがたく妖艶な歌です。長い黒髪の乱れた様には、我々男性ならずとも一種どきりとさせられるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。 この時代の女性は言うまでもなく長い黒髪を誇りにしています。女性の美しさの第一は、その黒髪だったのですね。ある意味では当然といいますか、当時の女性は姿を見せることはありません。顔かたちを男が知ることができるのは一夜を共にした後、なのですね。 普段かろうじて見ることが可能なのは御簾の下から覗く長い髪だけです。それとても深窓の姫君は窺うことすらできないのですけれどね。 その、もう男の目から見れば女性の生々しい肉体の一部でもあるような黒髪が乱れている、などと歌われてしまうと私などは軽い目眩すら感じます。 後朝の歌なのですからつい先ほどまで彼女は男と共にいたのです。恋の語らいもしたでしょう。王朝の時代にあって、逢うとはすなわち一夜を共にすることでもありますから、彼女も当然そうしたでしょう。 堀河の黒髪には、男の手の名残の感触があったでしょう。恋人の温もりや息づかいは彼女の記憶に新しいはずです。 それを堀河は歌ってみせる。これほどに生々しいものを下品にならずに歌いきると言うのは、大変なものです。さすが、としか言えませんね。 もっとも、実はこの歌は崇徳院が主催した「久安百首」での題詠です。男が寄越した後朝の歌に対する返歌、という趣向で詠まれている歌です。題詠でここまで真に迫った歌を詠めるというのも、すごいことですね。 ですから、私などは想像してしまうのですよ。もしかしたら彼女には、そのような思いをした経験があったのかな、と。 歌というものは、いえ、あらゆる創作物はどれもそうでしょうけれど、経験がなければ作れないというものでもありません。 作り手は、何かを想像し、それを自分という存在を通して表現する。 偉そうなことを言いましたが、これは篠原の言葉です。私も同感ですが、彼のような言葉を持ちません。彼にそう言われてみて、大変に納得いたしました。 ですが、作り手自身の心に強く残っていることはまた、別なのではないかとも思います。印象に強く残っていることこそ、創作物の糧になるのかな、と。だからといってあえてつらい経験をしたいとは思いませんが。 私は言葉の技の巧みな方ではありません。喋るほうも書くほうもてんで駄目なのです。本当に苦手で苦手で。篠原に言わせればそのぶん歌が詠めるのだからまだいい、ということでは、あるのですけれどね。 思えば篠原も喋るほうは大変に苦手ですね。彼の場合は話すのがどうのというよりはむしろ人様に会うのが苦手、なのでしょうけれど。 お互いにごく当たり前の人付き合いができていたならば、歌を詠んだり小説を物したりはしなかったのではないかと思います。そんなことを言っては篠原に叱られるかもしれませんが。 「お前は呼吸をするように歌を詠むのだからまだいいじゃないか」 「なにがです」 「私なんぞは原稿用紙の前で四苦八苦だ。締め切り前の苦しみといったら、言葉ではとうてい表現できない」 なんて言います。嘘ですよ、これは。確かに寝付くことの多い男ですから、締め切りに追われていることも多々あります。 でも、篠原こそ息するように文章を紡ぎます。それがあのような小説になるのですから、私などはもう羨ましいばかりで。 「いっそ書くように喋ったらいいじゃないですか」 「それができれば苦労はしない」 一刀両断ですね。ごもっとも、としか言い様はないのですけれど、不思議なものですよ、私にとっては。あれほど書くことができるのに、と。 「私の目は、狭義の意味で現実を見てはいない。そんな物を喋りだしたらただの変人だ」 そんなことを言って篠原は笑いました。なんとなく、その言葉には納得できます。なぜでしょうね。いつも篠原の言葉には納得してしまいます。 別に説得されているわけではないのですよ。先にも言いましたように篠原は喋るのは苦手ですから、言葉巧みに説得、というわけでは当然ないのです。 大変に危険な思考ではありますが、これが篠原を信じているということの証左なのかもしれません。こうして言葉にしてみると、なんだかとても気色悪いですけれどね。 |