百人一首いろいろ

水野琥珀



 出会いと別れは世の常、と言いますが、それならば恋の成就の後は決まってそれを失うものなのでしょうか。
 人は度々そんなことを繰り返すのかもれませんね。誰しもが経験し、乗り越えていくことでありながら、当人にはこれ以上ない大問題です。
 時には「こんなことには耐えられない」と思うこともあるでしょう。そんなときはこの歌を呟いてみるのがいいかもしません。決して自分だけではない、そう思えるでしょうから。



 あはれとも いふべき人は 思ほえで
 身のいたづらに なりぬべきかな



 詠み人は謙徳公といいます。元の名前を藤原伊尹、一条摂政、と言ったほうが通りがいいかもしれませんね。
 権勢を一手に握った彼がその若い日に歌ったものです。「拾遺集」の詞書には、言い寄っていた相手の女が次第に冷たくなってついには会ってもくれなくなったときの歌、とあります。
 それだけを聞くと妙に女々しいと言いましょうか、あの一条摂政が、と首をひねりたくなる気もするのですが、忘れてはいけません。これは彼の若き日の歌、なのです。あるいはその心の奥にずっとこのような思いを持っていたのかもしれませんが、それはわからないことですね。



 なんてことだろう。一時は快く振り向いてくれたあなたなのに。なぜこんなことになってしまったのだろう。
 今となっては私の死を聞いても心を動かしてくれる人がどこかにいるとは思えないんだ。
 あなたに見捨てられた私はこうして虚しく身を焦がし、焦がれ死にして、それも無駄死になのだな。私にはなす術もなく、ただそうやって。
 私たちはそういう運命だったんだろうか。



 今に始まったことではありませんが、実に訳しにくい歌です。「あはれともいふべき人」とは感動してくれる人、とでも言うのでしょうか。私はあえて訳の中に「あはれ」を透かせましたが、どうでしょう。正しいかと言われれば首をかしげないわけでもないのですが、後に述べるよう歌の名手であった彼ならばこれくらいの技巧は当然、と言う気もして解釈を捨て切れませんでした。
 わかりにくいのは「思ほえで」ですね。「思ゆ」の未然形で思われる、思い浮かぶの意味です。それを「で」で打ち消しているわけです。
 「いたずら」ももちろん現代の「悪戯」の意味ではありません。無駄や果敢ないの意味ですが、「身の」とついた場合は身が無駄になること、すなわち死を暗示します。これも単なる死ではなく、報われることのない無駄死にの印象が強くなります。
 「なりぬべきかな」も少し訳しにくいですね。完了形の「ぬ」は「ぬべし」とあるときには意を強める意味合いが強くなりますので、この場合は「なるに決まっているのだろう」とでも言うべきでしょうか。
 つまるところは「君が会ってくれなくなって恋わずらいに死んでしまいそうだ」と言うだけのことなのですが、それを言ってははじまりません。
 失恋の痛手の癒し方として、こういう方法もあるのだな、と感嘆します。私見ですが、伊尹はあえて面倒な語を選んだような気がします。我々が現代に生きているからわかりにくいとは一概に言えない気がします。
 伊尹は意図的に一見して意味のとりにくい語を選んだ。なぜでしょう。私はこう思うのです。歌を作っている間だけは、平静だった、と。
 痛みを忘れるためには別のことに没頭するのも一つの方法です。伊尹はそうしたのではないかな、と思うのです。
 さて、王朝の歌と言うものは概して調べなだらかでたおやかなものですが、殊にこの歌はそうですね。男の癖に、と言う声が聞こえてきそうなほど、嫋々としています。
 さすがだな、と思うのですよ。思い出してください。自分が若かったとき、これほど率直に弱みをさらけ出すことができたでしょうか。
 そういう時代であった、と言う以上のものを私は感じます。懐の大きさ深さ、と言えばいいでしょうか。
 だからこそ彼はのちに一条摂政とまで言われるようになるのではないかな、と思うのです。
 伊尹は正に名門、としいか言いようのない家の生まれです。父も大臣となり、誰もが振り返る貴族の跡取りとして順調に出世をしていきます。
 その上彼は、才知にあふれ、容貌は麗しく、しかも和歌の上手だった、と言うのですから、恵まれた人がいるものですね。
 歌人として有名であった彼は大きな仕事をすることになります。「万葉集」の訓点を定め「後撰集」を編集した、あの梨壷の五人を主宰したのが伊尹です。
 今回の歌のようななよなよとしたものを歌ったのと同一人物とは信じがたいほど、派手で豪奢を好みました。もっともその派手さの裏側にははっきりとした美意識があったようで、ただ金を使うと言うものでもなかったようです。
 大臣として公卿や殿上人を自分の邸で饗応することとなったときのことです。ふと寝殿の庇を見上げた彼は気づきます。裏板や壁が少しばかり黒ずんでいることに。
 伊尹はどうしたでしょう。ぱっと思いついて一面に陸奥紙を張らせたといいます。白く清らかに見えたのがたいそうな好評で、こんなことは誰も思いつかなかった、と人々は感嘆したといいます。が、ずいぶんと散財をしたのではないかと他人事ながら気にかかります。
 このような感覚的なものは遺伝するものでもないと思うのですが、孫の一人は花山天皇です。なでしこを築地に咲かせたり、桜を門の外側に植えさせたり、大変に優れた美意識を持った方です。また他の孫に行成がいます。この人はすばらしい書家として知られていますね。
 このようになんでも持っているような伊尹でしたが、ただ一つ足りないものがありました。寿命です。摂政となって三年、正にこれからと言うときに亡くなりました。



 あえて無理な比較をしましょうか。もしも私が長寿と才能をはかりにかけ、どちらかを選ぶよう言われたとしましょう。同じことを篠原に問うてみましょう。
「――と言うわけで、どちらがいいですか、篠原さん」
「無茶を言う」
「おや、あなただったら健康な体、と即答するかと思いましたのに」
「それを物書きに言うか」
 あっさりと渋い顔をされてしまいました。どことなく最初からわかっていてした問いではあったのですけどね。
 ただ、若いころから書生のようにして同居している身としますとね、もう少し体に気を配っていただきたいな、と思うのです。私がぐずぐずと言うものですから篠原は大変な虚弱体質のよう思っている方も多いのですが、そうでもないのです。篠原の場合、確かに元が蒲柳の質ではあります。が、体調を崩すときには決まって自業自得なのですよ。若くもないのです。自分の体を労わってあげてほしいのです。
「そう言いながら、お前はどちらを選ぶ」
 笑いながら問われてしまいました。答えは決まっています。確かにこれは何かを作り出そうとする人間の性なのかもしれません。




モドル