百人一首いろいろ

水野琥珀



 つらいものを見続けた人はどうしようもない無力感に囚われてしまうだけでしょうか。えてして、そのようなものだとは思います。
 自分の力だけではどうにもならないことが多いですね、この世の中は。ですが、だからこそ信じたい、伝えたい思いもあるものかと思います。
 そしてそれこそが人が人を信じる力、明日への希望なのではないかな、と私などは思うのですよ。



 おほけなく 憂き世の民に おほふかな
 わがたつ杣に すみぞめの袖



 これだけでは少しわかりにくく、かつ用語も馴染みのない歌ですが、それは後にしましょうか。まず詠み人を。
 この歌を詠んだのは前大僧正慈円と言う人です。その名からして明らかなよう、お坊さんですね。四度にわたって天台座主となった名僧です。
 慈円もまた、戦乱の世に生きた僧侶でした。前回ご紹介した藤原実定より少し若いくらいでしょう。ほとんど物心ついたときには乱世であった、と言う感じかもしれませんね。
 彼は藤原忠通の晩年の子です。十歳ごろ父が亡くなり、その後すぐに仏門に入っています。僧籍に入った彼の幼い目には、この世がどのように見えていたのでしょう。
 関白の家柄に生まれながら、いえ、だからこそ戦乱と政争に巻き込まれていく彼のいまだ若々しい気概をこの歌に見る思いがします。



 恐れ多くも身の程をわきまえず私は願うのだ。決心したのだ。
 この自分の墨染めの衣の袖を、御仏の功徳を、人々にもたらし、彼らを救い、安らかな日々を送ることができるよう祈ると。
 浮き世に暮らす人々を憂いに沈ませてはならないと、私は誓うのだ。
 すべての人にあまねく御仏のご加護あれかしと、いまだこの杣に住みはじめたばかりの私ではあるけれど。


 ちょうど三十代ごろの歌でしょうか。青年僧の熱い思いを感じます。
 この歌には本歌があって、それは伝教大師最澄が比叡山延暦寺の根本中堂建立の際、詠んだと伝えられているものです。

 あのくたら さんみゃくさんぼだいの仏たち
 わが立つ杣に 冥加あらせたまえ

 というのがそれです。ここでは可読性を重んじてひらがなにしましたが、「――さんぼだい」までは本当は漢字表記です。ご興味のある方はご自身で調べてみてください。
 その部分についてですが、ここは梵語なのですね。最高の真理、最高の知恵、というような意味だと言います。
 最澄は中堂を建立する木を切るときこの歌を詠み、仏の加護を祈ったといいます。ここから自分の学んだ仏教が興っていくぞ、と言う情熱の歌ですね。
 慈円はそれを踏まえています。最澄の情熱を、人々を救うという新しい情熱への転換としているよう思います。
 あるいは。それほど酷い世の中であった、と言うことかもしれません。天台宗開祖の思いを借りて我が身を奮い立たせなくてはならないほどに。
 先に四度にわたって天台座主の座に着いたと言いましたが、これも政争がかかわっています。僧籍にある人にそれを問うのは愚問かとも思うのですが、慈円の実家と言うべき藤原家、わかりやすく九条家と言いますが、この家は鎌倉幕府に親しい家柄なのです。
 時の権力者は後鳥羽院。言うまでもなく鎌倉幕府を倒したくて倒したくてたまらない方です。当然、九条家の当主は失脚しました。
 いわば慈円はそれに巻き込まれた形なのですね。ですが、後鳥羽院と言う方は面白い方で、政治に関わる部分はそれはそれとして、慈円の歌やその人柄はたいそう愛されたそうです。
 慈円もまた、政治的立場を横において院に至誠を捧げました。ですから余計に院の無茶無謀の謗りを免れない倒幕計画には心を痛めていたことでしょう。どれほどお諌めしたかったかわかりませんね。
 さてここで、戦中時代には決して口にできなかった、知らされなかったことがあります。慈円と言う僧侶、彼は「愚管抄」の作者です。
 「愚管抄」は時代の流れから行く末を見据え、そこから皇室のあり方を説いていく作です。これからはこれこれこのような時代になっていくのだから、どうぞ院よ、無謀な計画はお捨てくださいませ、そんな慈円の声が聞こえてくるようです。
 そのような著作ですから、これは当然のように戦争中の我々が知ることはできない本です。後鳥羽院の統幕の志を誉めそやし祭り上げることこそ至上であって、それを止める慈円など不義不忠の国賊、と言うわけですね。
 戦争が終わり、現代の我々が「愚管抄」を読むことができる。こんなにありがたく嬉しいことはないと私は思います。
 誤解しないでいただきたいのですが、慈円の思想がどうの、と言っているのではありませんよ。あらゆる著作を禁じられることなく出版し、読むことができる。そのありがたさです。著作に触れるということは、すなわち様々な考えを自ら持つことができる、と言うことですからね。
 ほんの少し前までのこの国は、それを禁じられていたのだということを忘れないでいただきたいと思います。
 話が少し堅くなってしまいました。最後に慈円の楽しい逸話をご紹介しましょうか。この歌が残っているところを見てもわかるよう、慈円は歌が好きです。好き、と言うにはいささか熱中しすぎるほどでした。それを少しばかり咎められたことがあるのですね。そのとき慈円はこう詠みました。

 みな人の 一つは癖の あるぞとよ
 我には許せ 敷島の道

 どうです、この飄々とした詠みぶり。はじめて目にしたとき私などは手を叩いて笑ってしまいました。そうですね。誰にも癖があるものですもの。癖について何かを言われたら、この歌を言ってやればいいな、などと思います。


 癖、と言われても中々自分ではわからないもので、私も何かあるかな、と考えはしても首をひねってしまいます。
「家の中を片付ける。洗濯物を洗う、干す、畳む。食事の支度。時には子供の世話」
「篠原さん。それは癖ではなく、家事です」
「趣味でやっているのかと思ったが」
「趣味ですけれど。ですけど、趣味は癖ですか」
「似たようなものだろう」
 実に偉そうに嘯きます。まったく違うものですよね。仮にも文章を物して口に糊している男が言う言葉でしょうか。
「と言うことは篠原さん。あなたの癖は寝込むことですか。それとも原稿を落とすことですか」
「落としたことはないぞ」
「かなり頻繁落としそうにはなっていますよ。それは癖ですか、趣味ですか」
 言い放ってから、ずいぶんと偉そうな書生もいたものだと自分で自分を笑ってしまいました。言葉は悪いですが、このような私を見逃すことこそ、篠原の悪い癖のような気がします。




モドル