百人一首いろいろ

水野琥珀



 人が行き交う様、というものは現代に暮らす我々にとっても感慨深い何物かを思い起こさせるものではないでしょうか。
 そこに行くのは、赤の他人であるほうが望ましい。それを眺める自分と言うものすら、相対化して見てしまえるから。私などはそう思います。



 これやこの 行くも帰るも わかれては
 しるもしらぬも 逢坂の関



 「後撰集」に収められている歌で、逢坂に庵を作って住んでいるとき行き交う人を見て詠んだ、とあります。詠み人は蝉丸、と言います。
 実に不思議な名前ですね。かるたの絵をご覧になればわかるよう、この蝉丸、僧侶とも俗人ともわからない格好をしています。そのあたりもまた、不思議ですね。
 百人一首を編んだ定家の時代はどうだったのでしょう。もしかしたら彼の時代には実在が信じられていたのかもしれません。が、現代では蝉丸と言う名の誰かがいた、とは信じられていませんね。
 もっとも定家のことです。あるいは彼は蝉丸が伝承上の人物だと知った上で、あえてこの名でこの歌を入れた、とも考えられるのですが。
 定家が何を考え、何を思って「百人一首」という歌集を編んだかわからない以上、考えても詮無いことです。



 これがあの噂の逢坂の関所なのだね。
 ほら、旅立っていく人がいる。ご覧、帰ってくる人がいる。あの人は、知らないね、見たことのない顔だ。おや、あれは知った顔だよ。懐かしいね、どこに行くのだろう。声をかけることはしないけれど。
 こうやってね、見ていてご覧。知った人も知らない人も出会っては別れていく。それがここ、逢坂の関所なのだよ。



 これに限ったことではありませんし、いつも愚痴ばかり言っている気がしなくもないのですが、非常に翻訳の難しい歌です。
 訳をする手間もないようで、実際に訳してみると感じが違ってしまう、そんな歌です。難儀ですよ、こういう歌は。
 逢坂の関、と言うのは昔からの歌枕として知られています。実際に関所として機能していたのはずいぶん古い時代のことのようで、早くに廃止されてしまったらしいのです。
 それでも歌枕の地として、名は残りました。その地名のせいでしょうね。とても美しい名です。
 その歌枕に行く、帰る、知る、知らぬ、会う、別れる、と単純に連ねているだけのように見えてしまいます。
 それがあたかも冗談のようで、訳しにくい原因の一つになっています。
 けれど、声に出して読んでみてください。そこに情景を、自分の目で見ているかのように思い浮かべてください。
 どうでしょうか。人の流れが、見えたでしょうか。そのときこの歌は違った輝きを放つ、そんな風に私は思います。
 人の流れは冒頭で言いましたよう、感慨深いものです。この自分と言う生き物が、今ここに生きている奇跡のような一瞬。そして知った顔とめぐり合う。あるいは知らない人と知己になる。誰かがこの世に生きていて、そして出会うと言うのはなんととんでもないことなのでしょうか。
 そして出会った以上繰り返すのは別れです。疎遠になってしまう。喧嘩をしてしまう。もしくは死別。出会ったからこその、別れです。
 これを難しい言葉で言えば「会者定離」ですね。小難しく言われてしまえば心に響かない考えも、このような軽やかな詠み振りで歌われればすっと胸に染みこみます。
 最前言いましたよう、蝉丸と言う人はいなかった、と言うのが定説になっています。事の真実はわかりませんが、どうなのでしょうね。
 蝉丸にはこんな伝説が残っています。
 蝉丸は、ある親王の身分低い従者であった、と言うことです。その親王はたいそうな琵琶の上手で、長年お仕えした蝉丸は、いつしかその音を覚え、自分も琵琶の名手と呼ばれるようになったということです。
 老いた蝉丸は、逢坂の関に庵を結んで一人で暮らしていました。その彼の琵琶を聞きたい、と熱心に望んだのが源博雅です。この人は当時の著名な音楽家、と言っていいでしょうね。自分も楽器をよくしましたが、新しい曲を書いたりもしています。ですから音で読み位階をつけて「博雅三位」、はくがさんみ、と呼ばれます。
 博雅は琵琶の秘曲、流泉と啄木、と言う曲がどうしても聞きたくてたまりませんでした。この曲は秘められていただけあって、いまの世では蝉丸しかもう知っている人はいないというのです。
 ですから博雅は都においでになりませんか、と蝉丸を呼ぶのですね。ですが蝉丸、歌で婉曲に断ってきました。その詠み振りの奥床しさにいっそう博雅は熱を上げます。
 そこで三位の位のいただいたくらいですから元々家柄もよいはずの博雅がなにをしたかといえば、驚くことに逢坂まで自身で出向いてしまったのですね。都の、貴人がですよ。
 その上、名手と呼ばれた人ともなれば気分が乗らなければどれほど懇切に頼もうと決して弾いてはくれないだろう、渋々弾いてくれたとしてもよい響きではないはずだ、と毎夜毎夜、蝉丸自身が弾く気になるまでこっそりと通っては庵を伺い続けた、と言うのです。彼もまた音楽を心から愛する人なだけに蝉丸に無理強いをしたくはなかったのでしょうね。それにしてもすごいものです。
 そんな夜がなんと百夜も続いたといいますから、これも驚きですね。ついに百夜もふけ行く晩、それはなんとも趣き深い夜でした。こんな晩こそは蝉丸もあの秘曲を奏でるだろう、と博雅、実に楽しみに逢坂に向かいます。
 それは、あたりました。歌を詠み、蝉丸は琵琶をほろほろと鳴らし、一人ごちているではないですか。いまここにもののあわれを解する人がいたならば、そんな人と語り合うことができたならばどんなに、と。
 思わず博雅飛び出しました。名乗りを上げ、百夜の間通いつめたことを話せば蝉丸も以前、手紙をくれた都の貴人のことを覚えていたのでしょう、そして博雅という人物を知ったのでしょう。彼の乞いに応え、あの秘曲を奏でた、と言うことです。博雅はそれを聞いて習い、それはそれは喜んだ、と言います。
 これは「今昔物語」に載っている話ですが、異説もあり、博雅が琵琶を習ったのは別人だとも言います。そしてまた別の話では蝉丸自身が捨てられた皇子であったとも語られます。
 そんな様々な話が合わさって「蝉丸」と言う一人の歌人を生み出したのかもしれませんね。



 人の流れをぼんやり眺めるのが、嫌いではありません。私より、たぶん篠原のほうがずっと好んでいるかな、と思います。
 篠原と言う男はどうにもこうにも人混みが大嫌いときていまして、外出などもよほどの用事がない限りは避けたいほうです。それどころか編集者が自宅に来るのもいや、ときていますから、人嫌いもここにきわまれりといったところですね。
 そんな篠原が人の流れを見るのが好きだとはちょっと意外かもしれません。ですが、私などの憶測では間違っているかもしれませんけれど、彼はそうして人を見ることが好きだからこそ、文章を物することができるのかな、と思います。
 実は本人に聞いてみたいところではありますが、今日はその大嫌いな外出をしています。取材でしょうか。私には言っていきませんでしたからね、わかりません。
 言わなかった、と言うあたり、取材ではないのかしらとも思います。思えば私が篠原に拾われてこの家にやってきたのは、この原稿を書いている日です。思い返すにつけ、ずいぶん昔ですね。
 あのころはこんな風に一人で篠原の留守番をするとは思ってもいませんでした。それどころかこれほど長く篠原とともに過ごすとは少しも。人生とは、面白いものですね。




モドル