百人一首いろいろ水野琥珀出会いと別れ、そう一口に言いますが、出会った喜びよりもなお、別れの苦しさが胸に迫るのはなぜでしょう。 もしかしたら出会ったときには、その喜びが真のものとは感じられないせいかもしれませんね。徐々に育っていく喜び、とでも言うのでしょうか。 ですが別れは一瞬です。想像してもいなかったときに、あるいは覚悟の上で。それでも別れはいつも唐突にやってきます。 たれをかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに 詠み人は藤原興風といいます。九世紀後半から十世紀前半の人、紀貫之と同世代の歌人です。管弦の上手としても名を馳せた、といいますが、三十六歌仙の一人、といったほうがまだ通りがいいでしょうね。 生憎なことに興風に関してはそれ以上のことがよくわかりません。このような歌を詠んだのですから、それなりの年齢まで生きたのだろうな、と想像するのみです。 いったい誰と語り合おうか。ふと気づけば一人。心を許しあった友はみな、一人また一人と去っていってしまった。 櫛の歯が欠けるよう、私は一人残されてこうして生きている。いまはもう、あのころの友は一人もいない。私だけが、一人。 いったい誰を友としようか。思い出を語り合う人もいない。老いの身のつれづれを語り合う人もいない。 私ほどに長く生きてしまった人は、いずこに。長いと言うならば松の木か。長寿を寿がれるほどに長く生きてきた高砂の松ではあるけれど、松を友ともしようがない。 松は人ではないのだもの。語り合うことはできないのだもの。何より、あのころともに過ごしてきたかけがえのない友では、ないのだもの。 訳をしていて、心が痛くなりました。これは百人一首の翻訳なのですし、過去の歌人の思いをこそ語るべきだと、そうあれかしと願ってはいるのですけれども、どうしてもこの歌には私情が入ってしまいます。 私はあの大戦当時、戦場には行っていません。もう少し終戦が遅ければ、行っていたでしょう。実際、そのような話もあったのです。 ですが、私は戦地を踏まずに終戦を迎えました。今となっては大変にありがたいことです。こうして、生きていますから。 けれどともに学んだ友が、学校の先輩が、戦地に行って散ったのも事実です。いまなおやはり、生き残ってしまった、とは思います。 こんな私が自分を興風になぞらえて物を思うなど、不遜であるとは思うのですよ、やはり。 それでも同じ生き残ってしまったもの同士、などと考えてしまいます。 興風はいったい誰を失ったのでしょうね。この歌には語られてはいませんが、なぜとなく自分が最後の一人になってしまった、そんな感情が透けて見えるような気がします。 もう誰もいない。ただの一人も語り合うことのできる人がいない。 それはとても悲しいことだと思います。そんな言葉では、生ぬるいでしょうね。言葉では言い尽くせないからこそ、人は歌を詠むのだな、と改めて思います。 興風のこの歌は、そんなたった一人になってしまったあとの佇まいを描きます。強烈な孤独ではありますが、それでも興風は凛と立ちます。 寂しさに、くたくたと崩れ落ちてしまったほうが楽なときもありますね。むしろ誰かにすがって、誰もいなければ天を恨んで。 そうすれば人は楽になれるのではないかと思います。誰かのせいにしたほうが、何事も楽ですから。 ですが興風は自分にそれを許しませんでした。美意識、などと言うようなものではないでしょう。それが興風の生き方であった、そういうことかもしれません。 強いですね。その心が羨ましくもあります。自分はそうはなれないな、と心弱く思います。 松の木を持ってきたのも興風の強さのよう、思います。松の木は、逞しいではありませんか。強靭で、少々の風にはへこたれない。 何より一人すっくと立ち続ける松の木、と言うのは目に慣れた景色です。今でも海岸に行けばよく見ることができますね。 興風はその松の木を、単に松の木、とは言いませんでした。あえて高砂の松、と言います。 高砂の松は長寿の象徴です。古くから住吉の松とともに長寿を愛でられ、めでたいものとして詠まれています。 彼はなぜ、ここに高砂の松を持ってきたのか。それは興風の誇りではないかと私は思います。 悲しさ、孤独、寂しさ。そんなものに流されることなく立ち続ける自分自身を見据えている、そんな気がします。 それも声高に喚くのではなく、長寿の象徴を持ってくることで、ある種の諧謔ささえ感じさせながら。 つくづく、すごい男がいたものだと思います。 興風が知る人、と言ったのは単に知っている人、ではなく自分のことをよく理解してくれている人、と言う意味でしょうね。知音、と言う言葉もありますし。 そういう意味では、私にとって知音と言い得るのはいつものことながら、篠原です。この言葉の由来となった話では、琴をよくした男が、その友を失ったあとは決して琴を弾くことがなかった、と聞きます。琴の音を、自分自身を誰よりも理解してくれた友であったのでしょうね。 もしも篠原を失ったのならば。私は歌を詠むことをやめてしまうでしょうか。あるいは、とも思います。 実際、私が詠んだ歌の相当数が、誤解を受けて広まっています。詠んだ当人がいうのもおかしなものですが、それはそれでいいと思っています。詠んだ私と受け取った誰かが違うことを考えているのは、ある意味では当然ですから。 ですが篠原は実に不思議なことに一度として解釈違いをしたことがありません。その場にいて詠む姿を見ていたものならばまだしも、同席していないときも必ず、です。 正に、知音ですね。この人を失ったのならば、とついうっかり思ってしまったとしても責めれないのではないかな、と思います。 「縁起でもないことを言ってくれるな」 人の原稿を覗き込んで渋い顔をしてますよ、この男は。嫌な顔をするくらいならば見なければいいのに、と思います。 「そうやっていつも私が病弱で今にも死にそうな風に書くものだから、会う人会う人に体調を聞かれる。いったい誰のせいかね、琥珀君」 「実際また風邪をひいているじゃないですか」 「少し咳が出るだけだ」 「そうですね、ちょっと咳が出て、ちょっと熱があって、ちょっと体がだるくって、仕方ないから三日ばかり寝込んでいるんですよね、篠原さん」 「……頭に響く」 「ほら、やっぱり風邪じゃないですか」 こんな日常が、しみじみとかけがえのないものだと思う日がくるなど、あのころの私にはとても想像もつかないことでした。 |