百人一首いろいろ

水野琥珀



 人の身に、残された命が少なくなることが老いの悲しさならば、仕組みが衰えていくことはなんと呼ぶのでしょう。
 始まれば終わるのはこの世の道理です。それでも人は永続を願います。いつまでもこのままであれ、と。そしてそれが衰えてしまったとき、やはり嘆くのです。
 洋の東西を問わず、何度となく繰り返されてきたことなのに、それれでも私たちは何度となく繰り返すのでしょうね。



 ももしきや 古き軒端の しのぶにも
 なほまりある 昔なりけり



 順徳院のお歌です。院は後鳥羽上皇の第三皇子としてお生まれになりました。時の東宮は第一皇子ですが、この方と院は母君が違います。当時としては珍しいことでもないですね。
 東宮が即位して、土御門天皇となります。この方は温厚な方として知られていたようですよ。父院とは、少し違いますね。
 順徳院はどうでしょうか。才気煥発で朗らかな明るいご性格だったようです。そのあたりを後鳥羽院は愛されたのでしょう。
 ご寵愛の第三皇子を至高の御位におつけになりたくおぼした院は、なんの失策もない土御門天皇を譲位させてしまいます。
 土御門天皇も、ご自身の子であるのに、です。ですが土御門天皇、今は院となられた順徳院の兄君は心の内ではなにを思ったかはしれませんが、感情はいっさい顔にお出しにならなかった、と言います。
 活発で、文武に長けた弟が、どれほど父君に愛されているかを、知っていた悲哀のように思えてしまいます。知っていたからこそ、黙って引いたのでしょうね。それが何とも悲しく思えます。
 後鳥羽院、と言えばすぐさま浮かぶ単語は倒幕、ですね。その際、もっとも協力なさったのが天位についた順徳天皇です。
 あるいは、幕府を倒すことを考えておいでだったからこそ、穏和な兄皇子を物足りなくおぼしめしていたのかもしれませんね、後鳥羽院は。
 お二人の計画がどうなったかは、明らかです。ですからここは先に歌の訳にいくことにしましょうか。



 宮中の軒端は古び、そこに茂る忍草を見るにつけ思い出すのは古き世のこと。
 しのんでもしのんでも、それでもまだ足りないほど慕わしく懐かしい遙かなる思い出。
 あのころは。忍草など生えてはいなかった。この草は、あれ果てた屋敷に生えるのだもの。宮居になど、決して生えるはずがないのだもの。
 忍草が生い茂るほど、帝の権威は衰えてしまったのか。それにすら、ただ溜息ばかり。どうしようもない、この時の流れ。
 ただこう言おう。
 帝が光輝いていた時代の、その栄華の思い出の懐かしさ、と。



 訳の中にも記しましたよう、忍草というのは荒れ果てた家の軒端に茂るものの象徴です。考えてもみてください。皇居に、そのようなものが茂っているところを。ちょっと、想像がしにくいですね。
 当時と現代では全く状況が違いますが、やはり驚くべき有様ではなかったか、と思います。
 このころ、すでに政治の実権は幕府に移っています。鎌倉幕府がうんと言わなければなにもできない、と言うのが当時の宮廷であったのですね。
 貴族にも、不平不満はあったでしょう。ですが、最も高い位置にいるべきである、と当然のよう考えていた天皇にとって、それはどれほど苦々しい思いであったことでしょう。
 誤解を招きそうなので、私の意見を表明しておきますと、私は天皇を至高と考えているわけではありませんよ。かといって貶めるつもりもありませんが。
 権力争いの結果、その座から滑り落ちていったものの悲哀を思うのみです。ですから幕府側、天皇側、どちらを善悪と定めることはしません。
 どちらにも言い分があり、どちらにも正当性がある。戦いとはおそらくそういうものだと思います。このようなことが言えるようになったのですから、戦後というのはいいですね。
 話を戻しまして、順徳院です。鎌倉幕府との戦いは、みなさんも知るように天皇側の敗北です。結果、後鳥羽院と順徳院はそれぞれ隠岐と佐渡へ島流しとなりました。
 この時、順徳院はまだ二十五歳のお若さ。あまりのことに母君は髪を落として尼になってしまわれました。
 順徳院の兄君、あのお優しい土帝院はどうなさったか、と言うと父君と弟が島流しになったというのに、一人都で安穏としてられようか、と自ら望んで土佐に行きます。その後は阿波へと移られました。ご自身は全く乱に関わりがなく、幕府からの咎めもなかったというのに、です。
 もし土帝院があのまま天皇位にあったならば、詮無いことですが、考えてしまいますね。権威は落ちるでしょうけれど、戦いは起きなかったでしょう。あるいは、それでも乱は起きたでしょうか。時代の流れを思います。
 順徳院はその後亡くなるまで佐渡で過ごします。幕府は決して院のご帰還を認めませんでした。
 幕府は知ってしまったのですね。自分の権威が、都より増したと言うことを。だからこその果断な処置です。後鳥羽院も当然、配流先から都に戻られることはありませんでした。
 もしかしたら戦った双方ともに思ってもみなかったことかもしれません。後鳥羽院側のあっけない敗北で、時代は新しい幕を開きました。
 このような話を知るとかえってこの歌は佐渡に流された後、鬱々としたお心で詠まれたものかな、などとつい考えてしまいます。
 ですがこの歌、実は倒幕に燃えていた当時のものだと言うことです。それを聞くとちょっと意外ですね。この歌にある憂愁は、本物です。
 それを思いながら、熱い戦いに身を投じていったのでしょうか。それとも後鳥羽院の皇子らしく、歌は歌として、追求なさったのでしょうか。興味深いところです。
 私見ではありますが、この歌からは素晴らしい過去を自らの手で戦ってでも取り戻そう、と言う強い意志を感じません。
 むしろ、懐かしんでも、手を伸ばしても届かない美しい思い出を遠くから眺めている、そんな気がします。聞こえるのは、儚い溜息でしょうか。
 院はこの歌から五年後、乱に破れて佐渡へと流されることになります。佐渡ではなにを思われたのでしょう。仏道修行に明け暮れた、と言います。



 慕わしい過去、などというものがあるとかえって囚われるものかな、などと思います。私にも確かに懐かしい子供時代はありますが、ただ懐かしいだけで、特になにを思うこともありません。
 懐かしいとも違うような気がします。特にあのころに戻りたいだとか、当時の誰かにあいたいだとか、考えたこともないですし。
 なぜだろう、と考えるにつけ、私の場合思いつくことは一つしかありませんでした。
「また私がいるからだとか、誤解を招くことを書くんだろう」
 人が書かないうちに、ご本人から申告がありましたよ。ですから、遠慮なくそう書かせていただくことにしましょうか。
「だから、よせと言っているだろうに」
 先に言ったのは、そちらですもの。私のせいではありませんね。
 冗談はともかく。実際問題として、確かに篠原がいてくれるからこそ、私は現在に満足しています。充分以上に満ち足りているからこそ、過去のどの時点にも戻りたいとは思いません。
 それこそ誤解を招くのを承知の上でこう言います。私は今とても幸せです、と。
「よさないか、琥珀」
 ほらね。怒られました。ですが、私は篠原がなにを考えているか、知っています。そもそも、気にすることもないと思うのですよ。それとも、気にした方がいいのでしょうか。わからなくなってきました。




モドル