新学期が始まって、花田が頭を抱えていた。あの合宿の残り期間にも抱えていた頭だから、今ではきっと酷い頭痛がしていることだろう、と高橋は他人事のように思う。
「おい。これ、どーすんだよ」
 花田が手に持っているのは文化祭用の原稿だった。普段あまり活動らしい活動をしていない文芸部も、文化祭に合わせて部誌を出す。
「なにがだよ?」
 肝試しの翌朝、強いて言えば買い物から手ぶらで帰ってきて以来、高橋の機嫌がずっと悪い。気づかない花田ではなかったけれど、おおよそ原因の見当がついているだけにやりにくいことこの上ない。
「ササの原稿。読んだ?」
「わけないだろ、お前んとこに提出したんだろ、笹嶋」
「んだよな」
 言って虚ろに笑う。どうやら先に読んでいる、と思い込んでいたらしい。
「読んでみ」
「いまかよ」
「さらっと流し読みでいいから」
「面倒くさいなぁ……」
 言いつつ高橋は印刷されたそれを読む。花田が窺っている視線を感じていた。
 花田にはああ言ったものの、本当は事前に読んでいた。あれ以来、極端に口数が少なくなって高橋を避けるようになった笹嶋が持ってきた一本の原稿。確かあれは図書室だった、と高橋は思い出す。
「先輩。これ読んでもらえませんか」
 シュウ先輩、とは呼ばなくなった。ちらりと見ても強張った表情のままきつく唇を噛みしめている。
「俺が?」
「はい。お願いします。じゃ」
 言いたいことだけ言って原稿を押し付けていなくなった笹嶋の後姿。高橋は気づけばそれを目で追っていた。
 ぱらぱらと図書室の隅で原稿を繰る。眩暈と頭痛がしそうだった。理性はそう感じるのに、けれど胸が温まる。知らずうち、胸を押さえていた。
「どーよ?」
 花田の声に現実に戻る。はっとし顔を上げれば思案げな顔。困った、と言いつつ花田は喜んでいるらしい。それがなぜかわからなかった。
「どうって……」
「あのな、高橋。ササが物凄く珍しいことしたの、おわかり?」
「え、なにが?」
「お前なぁ――!」
 声を荒らげられて高橋はきょとんとする。本気で彼がなにを言っているのか理解できなかった。それを見て取ったのだろう、あからさまに花田は肩を落として見せ、上目遣いにじろりと睨みあげる。
「ササ、はじめて完結させたの。いっつもちゃんと書き上げないササが、とりあえず書き上げたの。喜ぶべき?」
「……べき、かな?」
「これでかよ!」
 憤然と高橋の手にある原稿を取り戻し、机に叩きつける。散らばるそれを思わず高橋は集めていた。
「あのなぁ。なにはともあれ大事にしてやれよ。せっかく書いたのに」
「お前ね、わかってる?」
「……わかってるよ」
「これ、部誌に乗っけていいの?」
「それを俺に聞く?」
「誰に聞けって?」
 皮肉に言った花田に言葉が返せなかった。高橋はもう一度原稿に目を落とす。
 これならば、問題はないような気がする。少なくとも事前に自分が読んだものではなかった。
「花田」
「なに」
「こっちなら、問題は……」
「ちょい待て。こっち?」
 言ってしまってから失言したのだと高橋は唇を噛んだ。自分にだけ見せたのだろう笹嶋の感情を踏みにじることになるかもしれない。けれどどうしていいかわからなかった。
「ごめん、俺ほんとは読んでたんだわ」
「いいよ、ササから聞いてる」
「……おい。まぁ、話が早くて助かるけどな」
 一瞬でも悩まされたのが馬鹿みたいに思え高橋は大きく長い溜息をついた。
「俺が読んだのは、少女じゃなかったよ」
 笹嶋の原稿は文芸部の部員ならば誰もが知っている彼の話、あまねちゃんがモデルになっているに違いない少女が登場していた。主人公が語る思い出の少女との再会。虚弱な少女はある日、健康で美しい年上の女として主人公の前に現れる。ずっと年下だと思い込んでいた彼女との再会に混乱したところで、小説は終わっていた。
「……てことは、ササ。気づいたわけ?」
「俺が気づかせた」
「なるほどね、それであいつ機嫌悪いんだ?」
「……機嫌?」
 尋ねれば、気づいていなかったのか、と視線で非難された。思わず目を伏せ、高橋は思う。自分だとてそれどころではなかったのだ、と。
 思ったところで動揺した。笹嶋があまりにもあまねちゃんのことばかり話す、それが癇に障った。それは一面の事実だ。
 だがそのあまねちゃんとは自分のことではないか。なぜ気づかない。気づいてくれない。思えば思うだけ、自分がなにを考えているのかわからなくなる。
「あのね、俺はね、高橋。これ、話が終わってるとは思えねーわけ」
「どこが?」
「別に書き手がこれでおしまいだって言えばそれはそれでいいけどさ。でもササの話は終わってるとは思えない。なんか急に書くことがなくなっちまった、そんな感じで終わってるよな?」
 それはそうだろう。笹嶋のこの小説は、小説と言うよりは単なる事実だ。さすがに人目に触れることを考えて、少女にしてあったけれど、笹嶋の中ではこれが事実であったのだろうし、ある意味では願望でもあったはずだ。
 それを粉々に壊してしまったのは自分だ、と高橋は感じる。夢ばかり見ていないで、現実を見て欲しかった。
「……ここに、いるのに」
 あれほど笹嶋が捜し求めたあまねちゃんはここにいる。大好きなシュウ先輩、とまで言ったくせになぜ気づかない。
「高橋、なんか言った?」
 独り言を口にしていたことに高橋は慌てて顔を上げた。そして自分がなにを言ったのか気づいては赤面する。
「まぁ、お前のその態度見りゃ続きはあるんだろうなぁと思うわけよ、俺としては」
「ちょっと待て、花田!」
「なによ」
「続いちゃ……まずいだろうが」
「なんで?」
「俺は後輩とって言うか、男とどうこうする趣味はない!」
「別に趣味の問題じゃないと思うけどなー。好きになっちゃったら仕方ないってやつ? ま、俺は他人事だし。後はササと話して」
「待てって!」
「とりあえず三日だけ待つ。三日後までに原稿の残りが上がらないようだったら、部誌から落とす。それだけササに言っといて」
 ひらり、手を振って高橋がなにを言うより先に行ってしまった。あとに残されて高橋は一人呆然とする。
 漫然と、もう一度笹嶋の原稿を読んでいた。はじめてタイトルが目に入る。あのとき図書室で渡されたそれには、タイトルなどついていただろうか。
「……勘違いの夏、か」
 正にそのとおり。いったい幾つの勘違いを彼はしたのだろう。思い込みの激しさに苦笑いをしたくなる。が、嫌悪は伴わなかった。
「まいった」
 呟いて、原稿を束ねる。ようやくこれが、笹嶋が始めて書き上げた小説なのだとの実感がわいてくる。もっと喜んでいいはずだった、先輩としては。
「嬉しくない」
 こんな半端なものを読まされて、とは思わなかった。笹嶋が語るあまねちゃんと思しき少女への淡くまっすぐな慕情。
「俺――」
 嫉妬しているのだ、とやっとわかった。あのときあまねちゃんが自分だと言ったのも、間違いなくその思いが言わせた言葉だった。
 高橋は誰も見ていないというのに口許を覆う。どうしていいか、わからなかった。突拍子もない行動をとる純な後輩。それだけだと思っていたはずなのに。
 ふらり、と部室を出てから改めて振り返る。無意識のうちに原稿は鞄に収めていたらしい。その鞄に目を向けることができない。笹嶋がそこにいるような気がしてならなかった。
 どこへ、との目的もなく校内を歩いていた。部活中だろう生徒の上げる喧騒がどこからともなく聞こえてくる。
 静けさが、欲しかった。だったら部室を出るのではなかった。思っても、あの部屋は笹嶋の気配が濃厚すぎた。
 結局、辿り着いたのは図書室だった。あの日の情景がまざまざと蘇って、やはりいたたまれない。溜息をついて戻ろう、と思ったとき視線が窓際に向いた。
「水野?」
 一人きり、静かに本を読むでも外を眺めるでもなく水野がいた。誰一人側に寄らないのは、彼が無言で拒絶しているせいだろう。
 呼び声に、彼が振り返る。水野の拒絶を無視して高橋は彼が座る机へと歩み寄る。
「ちょっと、いいか」
 なぜ、そのようなことを言う気になったのだろう。我ながら不思議だった。が、もっと不思議なことに水野はうなずいていた。
「いいけど。花田じゃないのか」
「花田?」
「相談事があるって顔してる。だったら花田だろ」
 意外とよく見ているものだな、とこんなときにもかかわらず高橋は苦笑を隠しきれない。それをどう解釈したものか水野はまたうなずいた。
「そうか。花田じゃないほうが言いやすいってことか」
「まぁね」
「いいよ。暇だし付き合う」
「助かる」
「……高橋」
 一瞬、言いよどむ。どうやら名前があっているか確信が持てなかったらしい。そんな態度に好感を持った。
 持った途端、否定した。合宿のとき、水野は笹嶋の勘違いをすぐさま見抜いた。高橋の名前がシュウではなくあまねと読むと、と知っていたらしい。あの時の何食わぬ顔も、いまの覚束ない態度も、だから彼の本心ではない。好感が、たちまち不快に変わった。
 それでも、いまはそんな水野が気楽だった。友達にはこんなこと、とても相談できない。だからこそ、花田にはあれ以上、悩みに付き合ってもらうことができなかった、と今更高橋は気づいた。
「寮? 自宅?」
 酷いことを考えている高橋の耳に入ってくる問。動揺に気づかれたくなくて咳き込むように自宅通学だ、と答えれば納得したよう水野がうなずいた。




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