水野がマンションの鍵を開けるのをぼんやりと見ていた。普通の仕種なのに、なぜか彼には似つかわしくないように思う。
「水野」
 さっさと部屋に入ってしまった水野は声に訝しげに振り返った。それから気づいたよう、どうぞとでも言いたげな手振りをする。
「いや、そうじゃなくて。急にきてご家族に迷惑じゃ、ないか?」
 高橋がそう言ったのはたぶん、人気のなさに驚いたせいだ。マンションのその部屋はがらんとしていて誰かがいまここにいる、そんな気配がまるでない。
「家族?」
 不思議そうに言い、それから水野はうなずいた。
「ここ、俺の家じゃないから」
 やっと説明していないことを思い出したのだろう、口調にはかすかな苦さがある。それはあえて説明しなければならない苦々しさ、なのかもしれなかったけれど高橋にはよくわからなかった。
「おい、水野」
「ここは俺の家じゃない。こっちのほうが学校から近いから」
「じゃあ、誰ん家なんだよ」
「カイル」
 それだけ言って水野はまるで自宅ででもあるような足取りでリビングへと歩いていった。呆気にとられてあとを追う。
「シュヴァルツェン先輩!? なんでお前が――」
「鍵持ってるか? カイルは俺がドアの前で待ってるのを嫌がる」
 それから振り返った水野はマグカップを掲げた。どうやらコーヒーでも飲むか、と言っているらしいことに見当をつけて高橋はうなずく。
「勝手に入って……」
 言いかけて意味のない言葉だと知る。改めて言葉を探して高橋は苦笑した。それをどう解釈したものか、水野は手振りでソファに座っていろ、と示す。ありがたく腰を下ろせばほっと息をつきたくなるほど心地良かった。
「勝手に人つれてきてよかったのか?」
「喜ぶよ。たぶん」
「なんで?」
 不思議なのか眉根を寄せた高橋に水野は答えない。ただ口許に淡い微笑が浮かんで消えた。それに思わず高橋はどきりとする。
 インスタントだろうコーヒーを入れる水野を黙って見ていた。ここからでも窺える長い睫毛や柔らかそうな髪、首や肩の辺りなどとても同級生とは思えないほど華奢だ。
 が、高橋はまるで感銘を受けなかった。確かに後輩どもも卒業した先輩方も、そろって騒ぎ立てるだけの綺麗な顔をしているとは思う。
 けれどそれだけだった。弾むような足取りもなにを言いたいのかわからない突拍子もない言葉も、彼にはない。
「高橋」
 目の前に差し出されたマグカップに、動揺したわけではなかった。自分が考えたことにこそ、動揺していた。
「あ……、ごめん。ありがと」
 素直に受け取れば、熱い。どうやらわざわざ湯を沸かして入れてくれたらしい。それでも一口すすれば紛れもないインスタントの味がした。
「カイルがいればちゃんとしたコーヒーが出てくるんだけど」
 正面に腰を下ろしつつ水野は言う。熱いカップを持っているのも熱そうな手つきだった。
「いや、いいよ。充分」
 そうか、とでも言いたげに水野が首をかしげる。いままでほとんど交流がなかったとは言え、ここまで口数が少ないとは思ってもみなかった。
 これでは相談ごと、と言うのも一方的に自分が喋って終わりになりそうだ、と高橋は少しばかりおかしくなってくる。
「それで?」
 しばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。水野は熱いのか、口をつけていない。それがようやく飲める程度の温度になったころ、水野はそう言って高橋を促した。
「そうだな……なんて言うのかな。相談って言うか、迷ってるって言うか」
「別にそのまま言えば? 高橋が喋ってほしいんじゃなかったら、俺は他言しない。それは信用してもらっていいよ」
 言われて高橋は驚く。まるきり考えていなかった。水野の口から漏れるかもしれないだとか、そもそも漏れては困る話なのだとか、欠片も浮かんでいなかった。
「混乱してる、高橋?」
 その表情を見て取った水野がどことなく面白そうな顔をした。気のせいかもしれない、と高橋は思う。感じるほど彼の表情は動いていなかった。
「たぶんね」
「それで?」
「……なぁ、水野。シュヴァルツェン先輩のこと、お前名前で呼んでるよな。先輩が在学中は、違っただろ?」
 突然問われて驚いたのだろうか。仮に驚いたのだとしても彼の顔色は変わらなかった。
「呼んでたよ、人目がないところでは。カイルにも立場があるから、人前では先輩って呼んでたから」
「なんで?」
「なにが?」
 問えば、畳み掛けるよう問い返された。思わず言葉につまり高橋はコーヒーを口にする。少しだけ落ち着いた気がした。
「先輩だろ? なんで、そんな、なんて言うか、親しげなんだよ」
「……あのな、高橋。先に言っとく。カイルと俺は友達。誤解の余地があることは認めるし、誤解を助長するような言動もしてる。それは俺も理解してる。でもただの友達。ただの、じゃないな。俺がなにも喋らなくってもあいつは俺がなに考えてるのかわかる。それくらい親しい友達。わかる?」
 なだれるように言われた。高橋にもわかることが一つだけあった。先輩との関係が、人には言えないようなものなのか、と暗に疑われて水野はいま怒っている。謝罪しても、怒りに油を注ぐだけだろう。高橋は黙ってカップを掲げた。
「わかってくれたなら、いいよ」
 詫びとも了解ともつかないものを水野は受け入れ、そんな自分に腹が立つのか苦笑して足を組む。
「それで? よもやと思うけど、俺にカイルとの仲立ちさせようってわけじゃないだろ?」
「なんで俺がシュヴァルツェン先輩に!」
「だから違うのはわかってる。なにが言いたいの、なにが聞きたいの。高橋がなに考えてるか、俺に察しろって言っても無駄だからな」
 もう一度畳み掛けられていまだ水野が苛ついているだろうことを、高橋こそ察した。もう一度コーヒーをすすり、上目遣いに水野を見やる。
「先輩と仲がいいって、どんな感じなんだよ」
「別に。普通。そもそも俺は向こうを先輩とは思ってないし、あいつも後輩だとは思ってない」
「断言するんだな」
「友達だからな。言っただろ――」
「お前のことがわかるなら、お前も先輩のことがわかる?」
「そう言うもんじゃないのか」
 そう、実に不思議そうに水野は言った。それがどれほど奇特でありがたい関係なのか彼は理解しているのだろうか。たぶん、わかっていない。わずかにシュヴァルツェンに同情し、同時に彼はそれをも受け入れて水野との関係を築いている、それを納得した。
「ちょっと、これ読んでもらえるか」
 唐突な高橋の要請に、水野は驚かない。少なくとも驚いた素振りはなかった。無言で渡された原稿を読んでいる。
「これってお前?」
 軽い音を立てて高橋の手に原稿が戻った。問われてみて原稿に視線を落とし、やっとのことで間違いに気づく。うっかり最初に笹嶋から手渡されたオリジナルを渡してしまっていた。
「……どうして、そう思う?」
「正直な感想として。あんまり巧い小説じゃない。他人の目から見たお前って感じ、それも感想文すれすれ。あくまで人の噂程度のことだけど、俺は高橋が子供んとき病気してたってのを聞いてる。それが女の子に見えたってのは、想像しがたいけど」
 言ってちらりと水野は笑った。高橋もつられて笑い、ようやくとんでもなく笑える勘違いだと思えるようになる。もっとも、書いた本人にしてみれば、笑うなどとんでもないことだとは、思うが。
「……俺だよ」
「やっぱりね。だったら書いたのはこの前合宿のとき見かけた、後輩?」
 さらりと言われてコーヒーを吹くところだった。視線を上げてまじまじと水野を見つめる。得意げな顔でもしているかと思いきや、真面目な顔をして水野は首をかしげていた。
「なんで……」
「わかるか? そうだな、なんて言ったらいいか。俺は人の感情に疎いし、たいていの場合ほとんど気づかない。……らしい」
 どうやら気づかないのにも気づいていないらしい。それならば指摘したのはシュヴァルツェンだろう、と高橋は思う。
「その俺でもあの後輩がお前を慕ってたのはわかった」
 言って、自分の言葉に納得するよう、水野はうなずく。それから視線を上げた。真正面から見られ高橋は落ち着かない気持ちになる。それほどきつい目をしているわけでもないというのに。
「それに、あの後輩はお前のことシュウって呼んでた。あまね、じゃなく。なんでか聞こうかと思ったらお前、止めたよな?」
 合宿の日の一場面が蘇る。高橋は無言で唇を引き締めた。やはり、知っていたのだと思った。花田は常々彼が名前を覚えないと言って嘆くけれど、覚えていないわけではなかった。
 知っていて、知らない顔をしているだけだった。わけがわからなくなった高橋の態度から皮肉が滴った。
「だから、これ書いたのがあいつだって?」
「ほとんど推論だけどな」
 なんでもないことのよう言い、水野はコーヒーを口にする。ほとんど冷め切ったといってもいいほどぬるいコーヒーを彼は熱そうに飲んだ。
「余計なことかもしれないけど。断るつもりだったらさっさと断ってやったほうが後輩のためじゃないのか」
「あのな! 断るもなにもあいつは後輩!」
「だから?」
 からかっているのかと思った。が、水野の目を見て思いは変わる。彼は真剣に言っていた。不思議に思っていた。後輩だからなんだというのか、と。
「高橋。後輩だから、なに? さっきカイルのこと聞いたよな? 俺たちはお互い年齢なんか気にしたことないよ」
「……ずれてるよ」
「わかってるよ」
「あのな、水野。そもそも笹嶋は後輩だけど、それ以前に問題があるだろうが。うちは男子校だぞ。後輩って言ったら自動的に全部野郎だろうが!」
「……まぁ、言われてみればそれもそうだよな」
「お前なぁ」
 呆れる高橋に水野はちらりと笑った。少なくとも高橋は笑ったような気がした。
「俺、その辺けっこうどうでもいいから」
「おい」
「年齢とか性別とか、好きだったら乗り越えちゃう気がする」
「水野!」
「勝手に押し付けられる感情は迷惑だけど、お互いがそれでいいって言うなら、あってもいいんじゃないの、そういうのって」
 彼の言葉を聞くにいたって、一番相談してはいけないところに相談を持ちかけてしまった気がした。が、もしかしたら、と高橋は思う。
 ただ背中を押されたかっただけなのかもしれない、と。




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