文化祭は幸い盛況だった。部誌にもきちんと笹嶋の小説が載った。長年文芸部に籍を置いているくせ、初めての彼の作品だった。
 高橋は暮れていく校庭でもう何度読み返したかわからないそれを読んでいた。こうして印刷されてみると、また新たな感慨がある。自分の作品を読むよりずっと楽しかった。
 文化祭二日目も無事に、終わった。高橋たち三年生が参加する最後の文化祭。後輩たちは揃って気合を入れたのだろう、部誌も華やかだ。
「覚えがあるよな……」
 一人、花壇に腰掛けて高橋は苦笑する。自分たちも先輩を送り出すときはそうだった。
 遠く、歓声が聞こえる。校庭の中央では部外者を排した生徒と教師だけのお祭り騒ぎ、後夜祭の準備をしているのだろう、文化祭役員たちがキャンプファイヤーを組んでいる。
「なに読んでるんだ?」
 背後から覗き込まれてぎょっとした。慌てて振り返ってまた驚く。
「水野……」
 彼から話しかけられるとは、思っていなかった。あれ以来、シュヴァルツェンの部屋で二人で話したことなどなかったかのよう、相変わらず彼はそっけない。夢でも見たのではないかと思いたくなってくるほどだった。
「お前から声かけてくるなんて、珍しいな」
「そうか?」
 言いつつ、目が少しだけ笑っていた。その視線が部誌に落とされる。
「それ、載ったの」
「笹嶋?」
「そう」
「載ったよ。ちゃんと。でもお前が知らないほう」
「知らない? 読ませろよ」
「買え」
「じゃあ、いらない」
 他愛ないやり取り。それをこんな風に彼とするとは思っていなかった。それに水野も気づいたのだろう、わずかに微笑む。
「あぁ……きた。じゃあな、高橋」
 ちらりと水野が振り返って言う。どうやら自分は暇つぶしの相手にされたらしい、と気づいても高橋は腹立たしくは思わなかった。軽く片手を上げて、気づく。
 歩き去っていく水野の夏服のシャツ。その襟に飾られていたラペルピン。
 卒業生、と言うことで特別に参加を認められたのだろう、シュヴァルツェンの姿が薄闇に見えた。そちらに向かう水野とともに。
「壁にされたか?」
 普段の水野は夏服には、つけていない。それでも今日つけている、と言うことは彼にそれを贈った相手がいる、と知っていてなお果敢に挑戦しようとする何者かがいる、と言うことかもしれない。
 だから水野はシュヴァルツェンから贈られたラペルピンをつけている。高橋はそれを贈ったのがかの先輩だと噂で聞いていた。
 いつの頃からか、この紅葉坂学園にある習慣だった。当初は普段口にしがたい感謝を表現するため、と言うことだったらしい。
 が、いつしか思いを寄せる相手に贈る、受け取ってもらえたら思いも受け取られたことになる、などと言う噴飯ものの習慣になっている。
「男子校なんだけどなぁ、うち」
 高橋は一人笑って呟く。それからもう一度、部誌に目を落とした。もう暗くなってしまって字は読めない。
「ぬかったかな」
 せっかくの文化祭。それなのに、自分は何も用意をしていない。正直に言えば、いまの今までラペルピンのことなど忘れていた。
 本心を言えば、いまだ笹嶋のことはふわふわとした夢の中のことのようだった。
 日々が照れくさいほど嬉しくて、楽しい。それは事実だ。それでも、なんとなく現実感がない。それだけ幸せだ、と言うことかもしれない、と高橋はこっそり笑う。
 そのあまりの現実感のなさに、笹嶋に贈ろうと思えば贈れたものを用意していなかった。がっかりするだろうと思えば、胸が痛む。
 静かに胸に手を置けば、不安そうな顔をして彼がここに触れたことを思い出す。途端に一人きりだというのに、赤面したくなった。
「なに高橋、一人?」
 声をかけてから、花田が姿を現した。そのあたりの気遣いが、嬉しい。
「まぁ、なんとなくな」
「ササと待ち合わせか?」
「そう言うわけじゃ……って、頼むからやめて」
「別にいいじゃん。誰も聞いてないし」
「そう言う問題じゃない」
 ややこしい騒ぎに巻き込んでしまってのを悪く思っていた。笹嶋のせいで部誌の編集作業は極端に遅れたのだ。それはすべて、部長たる花田の肩に乗った。
 だから、だろうか。あるいは決着がついたらやはり、花田が友達だと思ったせいだろうか。高橋はある程度のことを彼には話した。
「やっぱりね、煽った責任ってやつ? ちょっと感じてたから良かったよ」
 そう言って花田はなんでもないことのよう、笑った。相手が後輩だとか、男だとか考えてさんざん悩んだ自分はなんだったのだろうかと高橋はつくづく思う。
 もっとも、そちらのほうが一般的に正しい、と言うのはわかっていた。正しい、と言うのとは違うかもしれない。大多数だ、と言うだけで。それでも今は今しかない。それならば、自分に嘘はつきたくない。
「高橋さ、開き直ったよな。なんか明るくなった」
「前は暗かったか?」
「つーか、ちょっと人を避けてた感じ。巧く言えないよ」
「そうか……」
「いまのほうがいいな。少なくとも、俺は」
「花田。惚れた?」
 照れ隠しににっと笑って見せる。花田がやはり、照れ隠しなのだろう、両手で頬を覆って可愛らしくうん、とうなずく。
「冗談。俺には……」
 笹嶋がいる。言いたかったはずの言葉が、照れて言えなくなってしまった。それに花田が大きく声を上げて笑い出す。
「シュウせんぱーい」
 遠くから、笹嶋が手を振って駆けてきた。花田と二人顔を見合わせて笑う。それに首をひねったものの、笹嶋は息を弾ませて駆け寄るだけ。
「どうした、ササ。高橋盗ったりしないぞー?」
「んなこと心配してません!」
 明るく断言した笹嶋の頭に拳を見舞って、高橋はそっぽを向く。痛いと喚く笹嶋の声を聞いているのが、嬉しかった。
 もう一度、この声を聞くことができた。そそっかしく飛び跳ねる小動物のような笹嶋。もう会えないと思っていた彼に会えた。
 あれ以来、何度となく二人きりになったし、休日には二人で出かけもした。デートだと嬉しげに言う笹嶋に照れもした。
 だがこの瞬間、ようやく笹嶋が自分の手に入ったと高橋は知った。
 思わず口許がほころぶ。目敏く見つけた笹嶋が嬉しそうに笑った。
「シュウ先輩」
「なに」
「これ、もらってください!」
 まずい、と思った。やはり笹嶋は用意をしていた。小さな箱は、開けないでも中身がわかる。
「じゃな」
 やり取りに、気を利かせた花田が手を振って行ってしまった。呼び止める隙もない。呼び止めたかったのかも、わからない。
「シュウ先輩――」
 戸惑った顔の高橋に、笹嶋は表情を曇らせていた。あるいは、嫌な思いをさせてしまったのだろうか。笹嶋の思いをよそに、高橋はゆっくりと包みを開いた。
「いいな」
 簡素な作りのラペルピンだった。先ほど見た水野のもののよう、凝ってはいない。そのぶん実用性がある。
「来年は、大学だし。そういうのだったら、就職してからも使えるかなって。俺――」
 笹嶋の呟きめいた声に驚いていた。そんな先のことまで考えていたのか、彼は。
 ゆっくりとラペルピンを摘み上げれば、いつの間にか点火されたキャンプファイヤーの火明かりに柔らかく煌く。
「笹嶋」
「ういっす」
「……ありがとな」
 どこでもないどこかを見たまま言う高橋に、笹嶋が微笑む。これ以上の言葉はなかった。笹嶋はそう思っていたはずなのに、高橋が。
 無言でラペルピンを制服の胸元に飾った。大人になっても使えるように、と笹嶋が選んだそれはあまりにもちゃんとしたラペルピンで、夏服の襟には止められない。それが少し、残念だった。
「……周さん」
 誰もいないのを見定めて、呼ぶ。高橋は答えない。かすかにうなずいた、そんな気がした。それで、充分だった。
「笹嶋、あのな」
「うい」
「ごめんな」
 びくりとする。今の幸せな気持ちが一気に吹き飛ぶような、高橋の声だった。
「……シュウ先輩」
 途端に捨てられた子犬のような声を出した笹嶋に、高橋は慌てて彼を見る。何か誤解させてしまったらしい笹嶋の手をとれば、ほっと息をつく気配。
 眼差しを交し合って、まだ互いのことがよくわからない、と苦笑する。それもまた、楽しかった。それから手を離し、高橋は自分の校章を外した。
「俺な……」
 なんと言ったらいいのだろう。忘れていた、でも考えていなかった、でも笹嶋を悲しませるだろう。
 掌で校章をもてあそぶ。ころころと小さな金属が手の中で転がった。
「周さん。気にしないでくれたほうが嬉いっす」
「笹嶋?」
「俺があげたかったから、持ってきただけっすよ。もらってくれれば、それで充分です」
 その笑みに、胸を突かれた。あまりにも、大人の顔だった。はじめて知らない男を目にした気分。さっと頬に血が上るのを感じていた。
「周さんが、好きです。あまねちゃんだったときから、ずっと」
 最後は少し茶化して言った。それに高橋はこくりとうなずくことしかできなかった。言葉など、見つからない。
 きゅっと校章を握り込めば、掌にわずかな痛み。自分の緊張を高橋は感じる。先ほど、笹嶋はどんな気持ちでラペルピンを渡してくれたのだろう。きっと今の自分と同じに違いなかった。
「笹嶋」
「うい」
「これ、やる」
 ちゃんと渡そう、と思っていたのに、放り投げてしまった。それを器用に笹嶋が受け取って、にやりと笑う。
「あざっす。大事にします!」
 まるきり体育会系な答えを返し、笹嶋は満面の笑みを見せた。一度手の中に握り締め、それからうつむく。顔を上げたとき、笹嶋の制服には校章が、二つ。
「行きましょう、シュウ先輩!」
「どこに?」
「後夜祭っすよ。最後だもん、楽しまなきゃ損っす!」
 まるで校章を見せびらかそうとしてでもいるよう、胸を張って歩き出す笹嶋に、手を引かれていた。ふっと笑って高橋は黙ってうなずいた。振り返った彼が笑みを見せる。それから二人、キャンプファイヤーに向かって歩いていった。火明かりが、互いの頬を赤く染めている。火の赤さだけではない、と知っているのも、互いだけだった。




モドル   オワリ   トップ