「記念館に行かないか」
 ある日、唐突にかかってきた電話は、『先生』からのものだった。
「いいですね」
 一度のんびり行ってみたい、『先生』の口から話を聞いてもみたい、そう思っていたカイルはそう、快諾したのだった。
 もちろん
「叔父貴から? めずらしい。俺も行く」
 と、夏樹もともに。



 野毛山公園の一角にひっそりと小さな記念館が建っている。
「篠原記念館」
 とだけの愛想のない名前。
 しかし実際は名前とは違い、篠原忍・水野琥珀のふたりの記念館だった。
 篠原の遺族が建てたもの、そういう建前があるので、そんな名前になっている、というだけのこと。
 いずれもう少し艶のある名にしよう、とも言われていたが結局
「わかりやすくていい」
 と、いまに至っている。
 その記念館の前にふたりの男が立っていた。
「早かった……待たせちゃった?」
 笑ながら夏樹が近づいていくのは高遠翡翠の姿。
「早く来すぎちゃっただけだよ」
 元気そうだね、そう翡翠も笑う。
 隣の男は言うまでもない、夏樹の叔父・春真だった。
 そちらへは軽く手を上げて見せただけでそっけない事この上ない。
 応える春真もやはり同じように手を上げただけだった。
 感情表現の苦手な叔父甥だから仕方ないのかもしれない。
「お久しぶりです」
「コンラートも元気そうだな」
 ようやく自分のほうを向いた春真はそう口を聞く。
 他人相手ならばいくらでも愛想よくなれる、というのも彼等の似たところだった。
 それだけではなく並べて見るとはっきりする。
 背格好も顔かたちも驚くほどよく似ていた。
 幾分、夏樹のほうがほっそりとしている、そんなところか。
 実の父親と春真が双子だから似ていて当たり前かもしれない。夏樹は父親似なのだから。
「行こう?」
 翡翠の声をかけられ一行は記念館の入り口へ、と。
「はい」
 翡翠が手早く買ってきた二枚のチケット。財布を出そうとした手をはたかれた。
「気にするんじゃない」
 言ったのは春真だった。
 ふたりにはいつまで経っても小さな甥とかつての教え子・後輩なのだろう。
「遠慮なく」
 夏樹が笑う。
「今度、酒の一本でも担いでかなきゃな、カイル?」
 機嫌よさそうにそう笑っているから、たぶんそれでいいのだろう、そう思うことにしてカイルもまた笑って頭を下げる。
 渡されたチケットにはあっさりとした墨絵が描いてある。それとともに一首の和歌も。
「これって?」
 手元を覗き込んだ夏樹が問うたのはどちらだったか。少なくとも自分ではないな、そう思いふたりの答えを待ってみる。
「それは……」
「あぁ……」
 口を開いたのはどちらも、だった。
 春真は記念館に関して知らない事などあるわけもなく、翡翠は琥珀研究を専門にしている。
 当然と言えば当然だった。
「ハルのほうが詳しいかな」
 口元に少しだけ控えめな笑みを浮かべて翡翠が言う。
「そうでもないがな」
 口だけ謙遜しておいて
「墨絵は琥珀の歌集『耳成山の梔子』から。和歌も。字を書いたのは篠原」
 春真が言った。
「はじめて篠原の字を見たとき、繊細な字を書く人だなぁってね、思ったんだ」
 そう言ってちらり、春真をみて思わせぶりに、笑う。
 なにか二人の間にその「字」にまつわる思い出があるのだろう。
 あえて詮索するつもりもなかった。
 ふっと耳のあたりを春真が赤くしたのを見てしまったせいかもしれない。
 ここで下手な詮索などしようものなら、愛しい夏樹が意地悪な叔父になにを問い詰められるかわかったものではない。

 記念館の中はひんやりとしていた。
 古いものを守るためなのか、必要以上の照明もなく、それが返って幻想的で、篠原・琥珀というふたりの展示にふさわしい気がした。
 ガラスの向こうに篠原の自筆原稿があった。几帳面そうな字。びっしりと書き込まれた朱筆。下書きだったのかもしれない。
 この人の叔母が自分の曾祖母なのか。
 そう思うとなにか時代のつながりとだけでは言い切れないような不思議な感じがする。
「へぇ」
 隣の夏樹が声を上げたのは写真、だった。
 薄暗い、夕方だろうか、居間の中で障子にもたれて庭を見ている篠原の写真。
「雑誌の取材だったそうだよ」
 ね、ハル。
 翡翠の言葉が夏樹に聞こえているのか、どうか。
「似てるな」
「そうだね」
「え?」
「夏樹君、自分と似てるって思ったんじゃないの?」
「いや、叔父貴と似てるなって」
「あぁ、なら同じことじゃない?」
 そう笑った翡翠の言葉に、まだ要領を得ない顔をしている夏樹を見ては
「あなたと先生もよく似てますからね」
 言えば
「そうか?」
 そんな不審げな顔をされてしまった。
「似てますよね?」
「うん、ほら……」
 そう言って翡翠は、今度は正面から移っている篠原の写真の横にふたりを並べる。
「やっぱりそっくりだよ、こうやって三人並べると、ね」
 その翡翠の言葉に、軽く目を閉じて満足そうな顔をした春真。
 夏樹は見なかったろうけれどカイルはそれを見た。
 たぶんそれは甥と似ていること、ではなく篠原とよく似ていること、への安堵だったのかもしれない。
 春真は篠原と琥珀に育てられた、といつか聞いていた。
「でも神経質そうな所は夏樹君のほうが似てるかな」
「そんなに神経質に見える?」
「カンが強くてわがままには見えるね」
 春真が笑う。
 笑った所などどういうわけか似てない、そうカイルは気づく。
 春真の言葉に従えばそのわがまま加減がふたりの違う部分なのだろう。
「大変だろう、コンラート?」
 当然夏樹のわがままが、の部分が言葉からは省略されていて。
「趣味ですから」
 返した言葉にもわがままを聞くのが、の部分が隠されていた。
 一瞬顔を見合わせて、夏樹以外の三人が笑う。
 ひとりなんのことだかわからない夏樹が取り残されて面白くなさいそうだ。
「なんなんだよ、ったく」
 不貞腐れて歩いていくのに足を速めて、並んだ。
 じゃれる仕種で夏樹が肩をぶつけてくる。
「なんだったわけ?」
「あとで、ね」
「しらねぇよ、もう」
 またひとりで行きかけるのを軽く腕を引いて止めた。
「わがままがかわいいなっていう話」
「あのなぁ」
「なに?」
「いい年した男にかわいいはないだろうが」
 心底呆れた、という顔をして見せても目が笑っている。
「おや知りませんか。かわいいっていうのは……」
「『愛す可しって書くんですよ』か? いいかげん聞き飽きたぞ」
「残念ながら俺は言い飽きてないんでね」
 にやり、笑ったカイルの胸をひとつ小突いて今度こそ夏樹は歩いていってしまった。
「なにをじゃれてるんだか」
 うしろで春真たちの笑う声が聞こえた。

 ゆっくりと館内をめぐるふたりの後ろで、翡翠と春真の立ち止まる音が聞こえた。
 振り返ればふたり、黙って一枚の写真を見ている。
「めずらしいんでしょう?」
 翡翠がそう問いかけている。
 足を戻して写真を見れば、そこには篠原と琥珀の並んだ姿。
「めったにないね」
 春真が答えてようやくカイルは思い当たる。
 写真のふたりがどれほど深く想いあっていたか、またそれをひた隠しにしていたか。
 時代を考えれば無理もない。
 確かいつだったか先生にそう聞いたことがあった。
「聞きたいな、ね?」
 翡翠が笑う。
「ちゃんと聞いてみたいと思っていたんですよ、先生」
 言ったカイルの横で夏樹もまた興味深そうに目だけで笑って肯いている。
「先生はよせ、いいかげん」
 口先だけで非難した春真は言葉を切って少し考え込む。
「三人で温泉に行ったことがあったな……」
 そうしてぽつり、話しはじめた。
「あれは俺が実家に帰るって決まった、冬だった」



 いつもより気難しげな顔をした伯父。隣に座った真人は少し青ざめていた。
「この春には春真も中学にあがるし、そろそろ本家に帰ったほうがいい」
 そう言ったのは伯父だった。
「……うん」
 決められた事なら、大人が決めてしまったことならば逆らえない。
 内心では帰りたくなどまったくなかった。むしろ「帰る」という言葉を使えるのはこの家だけだと思っていた。
「ハル……」
 真人が名を呼んではそのまま口を閉ざす。いっぱいに見開かれた目には薄く涙さえ浮かんでいて、まるで遠くに行かされるのが自分ででもあるかのよう。
 嫌だったら「帰って」きていい。つらかったらいつでも「帰って」おいで。
 目が、そう言っている。
 言葉に出して言えることではなかった。
 赤の他人の家にやらされるのではない。春真は自分の両親のところへ帰るのだ。
 けれど。
「……僕は、この家の子だと……思ってる。たぶん帰ってからも、ずっと」
 それだけを言うのが精一杯だった。
 自分でも思ってもみなかったことにきつく閉じた目蓋から涙が湧いてきた。
 考えていた以上に、それよりもはるかにふたりを両親だと、思っていたのか。
 真人は春真がふたりの関係を知っているとは夢にも思っていない。
 けれど春真は知っていた。ふたりが信じられないくらい慈しみあった恋人同士だということを。
 そして春真が知っている、ということを去年のクリスマスのころ伯父にも知られてしまっている。
「卒倒するから言うな」
 そう言って大人の男が見せる笑い方をあの時伯父はしたのだった。
「……心構えをさせておきたかっただけだ。今すぐどうこうと言う話じゃないからな」
 顔つきとは裏腹の柔らかい声で伯父はそう、結んだ。

 それから何日かしたある日。
 それは深々と冷え込む寒い日だった。
「でかけない、夏樹」
 鬱々としていた伯父に真人が言うのが聞こえた。
「ハル、行くよ」
 程なく自分にも声がかかり、行き先も知らずに連れ出されていた。

 ついたのは箱根の温泉宿だった。
「ゆっくりしよう、たまにはね」
 真人が笑う。
 ひっそりとした笑い方、これが春真は大好きだった。
 静かに控えめに柔らかく。
 こんな笑い方をする人が伯父とともに生きる、ということに関してだけは強靭な意思をみせる。
 春真にはそれが不思議で、不思議に思うことがまだ子供の証しでもあった。
 寂れているわけでもないのに人気の少ない宿は泊り客など自分たちのほかにはいないように見える。
「お湯にいこう」
 真人に誘われて三人で行った風呂もすっかり洗い場は乾いていて誰かが入った気配もない。
 なんとなく服を脱ぐのが恥ずかしい年頃でもあり、少しばかり黙って立っているとふたりは気にした風もなく着物を脱いでいく。
「どうした」
 伯父に不審がられてようやく慌てて春真も脱ぎ始めた。

 白濁した湯は熱すぎずぬるすぎず快適で。
 なにかをしゃべるでもなく三人で湯船に浸かっているのが心地いい。
 もうすぐこうしていられなくなるんだな。
 ふいに数日前の伯父の言葉がよぎり、切ないような気持ちになる。
 じわり緩んだ涙腺を隠すように春真は両手に湯をすくっては顔を洗った。
「あぁ、気持ちいねぇ」
 湯船の中の岩にでも腰かけているのか、半身を湯から出した真人がさも快さげに言う。
 伯父は、と目を転じればこちらは長々と湯に体を浸している。
 頭を岩に預けゆったりと体を泳がせ、目を閉じ。
 その頬が少し、そげていたのに気づいたのはようやくそのときだった。
 なにかを言おうとしたのを真人に目で制される。伯父が気づかないようにそっと上げた手でしぃっと唇に指を当ててみせた。
 それでも気配を感じたのか彼は目を開け、少し口元だけで笑って見せる。
「洗うよ」
 別段なにを言うわけでもなく、ざばり湯からあがったのはきっと伯父なりに放っておいてもらえるのがうれしかったのだろう、そんなことを春真は考えていた。
「背中、流そうか」
 次いで真人もあがってしまう。
 まだ湯に浸り足りない春真はそのまま二人の姿を目で追った。
 華奢、と言っていいほど細く見える真人だったけれど、こうして裸になると意外ときっちり筋肉がついている。軍人だった、と聞いたことがあるからそのせいかもしれない。
 さっさと腰かけて体を洗い始めている伯父はといえば、年のわりに大柄なくせ、真人ほど出来た体ではなかった。ずっと文筆にたずさわっているからなのだろう。
「少し、良くなったかな」
 小声で真人が聞いている。
 けれど反響した声はしっかり春真の元まで届いた。
 そしてその仕種も、また。
 春真に背を向けていた真人はじっと見ていることなど気づきもしなかったのだろう。
 背中を流すその手でそっと伯父の左肩の傷跡に触れていた。
 痛ましげな横顔が春真の目に映る。
 指先が静かに傷跡をたどっている。大丈夫だ、とでも言うような伯父の手がその手に重なった。
 見ているだけでどきどきする、ふたりの姿。
 見惚れてしまった。
 ふと気づけば洗い場の前に張った鏡の中、伯父が自分を見て目だけで笑った。
「気づかなかったふりをして黙ってろ」
 とでも言うように。
「夏樹、どうかしたの」
「いや……なんでもない」
 やりとりに慌てた真人が振り返った時にはもうとっくに知らん顔をして春真は外を眺めていた。

 薄く開けた襖の隙間から、春真は向こうの部屋をのぞいている。
「子供はもう寝なさい」
 そう琥珀に追いやられてしまったのは半時間ほど前だったか。
 すっかり暗くしたこちら側からのぞいていても明るい向こうからは気づかれる心配はない、そう思って心置きなくふたりの姿をのぞいていた。
 生まれた家に帰されるその前にしっかりとふたりの姿を、仲睦まじいふたりの「両親」の姿を目に焼き付けておきたかった。
 つい今まで伯父はゆっくりと酒を飲んでいた、が
「体に障るよ」
 ちいさな声で真人に咎められては杯を置く。
「まだ、痛むでしょう」
「だいぶいい」
 答える伯父の声に眉根を寄せた真人はそうっと肩に触れる。
「嘘。今日は寒かったから……」
 掌で古い傷跡を温めるよう、包み込み。
「お前がここまで連れてきてくれたからな」
 本当にもう痛まない、伯父がいたわるように、笑った。
「本当に」
「あぁ、本当に」
 心配げに問うのに、力強く伯父が答えればとろり、真人が笑み崩れるのが見える。
「真人」
 伯父の手が彼の手をとり、少し笑ってそのまま甘えるような、膝枕。
 その髪をいとおしげに撫でる真人の手。
 頬に伝わっているのだろう真人の体温に安堵したように伯父は目を閉じていた。
「そんなに心配するな、古傷だ」
 髪を撫でる手をとらえては言い、そっと掌に唇を寄せ。
「……うん」
 伯父の言葉に、そう真人が答えていたような気がする。
 が。
 春真には聞こえていなかった。
 膝枕のまま、真人に見えないよう伯父は、にやり、襖の隙間に笑ってみせたのだった。



「……とっくに俺がのぞいてたのなんて気づかれてたってわけだな」
 春真はそう笑って言葉を結ぶ。
「見咎められなかったんですか」
 あまりにもあっけらかんと言葉を切られてしまったのでつい、カイルはそう尋ねてしまった。
 見咎められるはずなどない、それがわかっていたにもかかわらず。
「伯父貴は俺がふたりの事を知ってるのを知ってたし、そもそも……」
 一度口を閉ざした春真は少しだけ遠くを見るような顔をして、それから写真に目をやる。
 「両親」の写真。ふたりの、どことなく強張った、見る人が見たならばよそよそしいほどの表情をした、写真に。
「あの人達は自分の事を恥じてなんか、いなかったよ」
 少しも。決して。
「伯父貴が……というより真人さんが俺に隠してたのは単純に世の中の仕組みってものをちゃんと知ってからその事実を知ればいい、そう思っていたからだしな」
 またも物思いにとらわれるような目をした春真の腕に静かに翡翠が手をかける。
 口を開くのをじっと待っているようでもあり、励ますようでもある、そんな目をして見ている。
「もっとも……ちゃんと聞かせてくれる前に、死んじゃったけどな」
 そう、言っては無理に笑ったような顔を春真はする。
 ふいに。
 カイルは自分の腕にぬくもりを感じ。
 見れば静かに夏樹が腕に触れていた。
「急に呼び出してこんな話するなんてさ、なんかあったの?」
 さまざまに押し寄せたのであろう感情を振り切るように夏樹が言う。
 もう腕には触れていなかった。
「別に。一度ちゃんとハルの口から聞いておいたほうがいいんじゃないかなってね、思っただけ」
 笑いながら言って翡翠は春真を見上げる。
 全幅の信頼。
 そこに見えた表情はきっと夏樹が自分に見せる顔とよく似ていたことだろう、カイルは思う。
 けれど夏樹のほうがよりずっと、自分を信じていてくれている。
 そうも思う。それがまったくただの惚気である、ということも理解しつつ。



 すっかり暗くなった道を夏樹とふたり、歩いている。
 ささやかで満ち足りた時間だった。
 あれから四人は食事をともにし、それから彼等の家で少しばかり酒を飲んでは話に花を咲かせてきた。
 篠原と琥珀の住んだ家で、彼等の「息子」と自分たちが笑いさざめいている。
 なによりの供養かもしれない。
 そう思ったのは帰り際、
「今日は命日でな」
 春真が言ったからか。
「あんまり驚いてなかったよな、お前」
「ん、なにが?」
「叔父貴の話」
「あぁ……前に聞いてたからかな」
「へぇ。めずらし。いつ?」
 不思議そうに尋ねて来た夏樹にカイルは思わず苦笑を漏らす。
「あなたが話してくれたでしょうに」
「そうだっけ?」
 ばつが悪そうに彼はどこかを見て言う。つくづく、彼にとって当時の自分は友達以上の何者でもなかったのだな、そうカイルは思う。が今があるからそれはそれで甘くて苦い良い思い出だった。
「それに高校のとき。……好きな人がいて、どうしていいかわからなくって、先生のところで黙って座ってたことがあって」
 相談するつもりなんかでは決してなかったのに、何度か行くうちにはその想いを口にしていた。
 けなされれば気が楽だ、そうも自虐の中で思っていた。
 しかしそれはその教師と一緒に暮らすかつての教え子が想いあう仲だと打ち明けられてあっさり崩れ。
 いつしかそんな自分に彼はその二親の話を聞かせてくれたのだった。
「……気分悪いな」
「え」
「……」
 それだけ言って夏樹は足を止め、空を見上げ。
 ぼんやりと明るい都会の空に月がかかっている。
 咲き残りのジャスミンがどこからかふわり、香った。
「いくら昔のことでも……お前に好きな人がいたって、聞きたくない」
 月明かりに。ほんのりと染まった耳。
 目を背けたまま、それだけ言って口をつぐんだ。
 めったに好きだとさえ言ってくれないこの人が見せる、嫉妬。
 愛しさに狂おしい。
「あなた以外、誰がいるっていうんだか」
「あ……」
「今も昔もこれからも。あなたしか要らない」
 振り返った彼の髪に指を絡めれば耳の赤さが頬まで移り。
「……なに言ってんだか」
 こつりと夏樹はカイルの胸を拳固で押しやり、足早に歩いていく。
 その後をカイルは満足げに笑いながら追う。
 離れていたふたりの影が待つほどもなく隣り合わせになっては、家路をたどった。




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