誘われたのは、偶然だったのかもしれない。彼らが計画していたとは思えなかった。年も押し迫った日のこと、露貴はふらりと夏樹の家を訪れた。
「餅、足りてるか」
 そんな愚にもつかないことを言うために。真人に限って正月の用意が整っていないなどいうへまをするはずもないものを。
「大丈夫……だと思う」
「なんだ、その曖昧な言い方は」
 わかっていて笑って見せた。夏樹はすべてを信頼する他者に任せる癖がある。以前は自分だった。いまは、真人。
 ふっと曇りそうになる心を隠し露貴は明るく笑う。照れたよう応えて微笑む夏樹が目の前にいるだけでよかった。
「真人」
 縁側の、いつもの位置から振り返り、夏樹が彼を呼ぶ。真人が顔を出す前に帰ってしまうつもりでいた。はたせず露貴は戸惑う。もっとも、はじめから帰れるはずがないことくらいは予想していたけれど。
「なに。あ、露貴さん。いらっしゃい」
 台所から顔を出した真人が相変わらずの笑みを浮かべている。彼は変わらない。それを言えば夏樹も変わらないけれど、露貴が夏樹に抱く思いを知ってからも真人は変わらずにいる。
 それが、疎ましい。そう思ってしまうのだけは、止められない。
 夏樹は信じている。あるいは信じたいのかもしれない。自分の思いがすでに彼にない、と。だが、真人はそんな戯言、露ほども信じていない。
 それは夏樹を愛するゆえ、だろう。彼を愛しく思うからこそ、露貴が彼に抱く思いを敏感なほどに感じ取る。
 それでいて決して露貴を厭わず迎える。勝利者だから、だとは露貴は思わない。それほど姑息な男ではない。
 けれど時折はそう思いたくなる。そうやって己を哀れみたくなる。自己嫌悪と自己憐憫にどっぷりつかっているのは、案外心地よいものなのだ。
「寒かったでしょう。お茶どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
「熱いですからね」
 言って真人が笑う。それに露貴も笑った。この寒い中、縁側にいても夏樹は熱い茶が飲めない。猫舌の彼を二人でひっそり笑えば向こうで顔を顰めながらも知らぬ顔。
「そうだ、土産があった」
 忘れていたふりで取り出した物を見ては夏樹の口許がほころぶ。
「好きだろう」
 目の前でちらちらと振って見せた。口も聞かずに奪うよう彼の手の中に移ったのはさる和菓子屋の包み。
「ありがとう」
 開けつつ言った夏樹の横、真人がこっそり溜息をつくのを露貴は快く聞いた。
「露貴」
「どうした」
「子供じゃないんだが」
「いやだったか」
 呆れ声に被せるよう露貴が言えば、夏樹の手許を覗き込んでいた真人がこらえきれず笑った。
「すあま、僕は好きだな」
「俺は団子のほうが……」
「あんこのでしょ」
 ならば子供と同じではないか、言いかける真人を手で制し露貴は微笑む。
「なんだ、知らなかったのか」
「なにがです」
「これが好きなのは、みたらしだよ」
 言われて驚いて真人は夏樹を見た。てっきり餡団子が好きなのだとばかり思っていたものを、そう顔にありありと書いてある。
 二人を見つつ露貴は内心で笑みを浮かべる。真人が知らない夏樹を知っている。それが嬉しい。ある種の優越感だと言ってしまえばまた自己憐憫の海に叩き込まれることがわかってるからそうは、言わない。
「餡団子も嫌いじゃないがな」
 そう真人に言うのは夏樹の優しさだろう。露貴はゆったりとそれを眺めていた。
「そうだ、露貴さん」
 不意に思いついたとばかり真人が顔を向けるのに一瞬、心を見透かされたかと身構えてしまう。
「正月、予定ありますか」
 密やかに息をした。考えすぎと言うか、脛に傷持つ身はつらい、そんなことを思いつつ。
「いや……特にないけど」
「だったら、うちで一緒にしませんか」
「それはいいな。いささかうるさいが」
 口許で夏樹が笑い、ちらりと視線を奥へと向けた。向こうでは今までおとなしく一人で遊んでいた春真がびっくりした顔をしてこちらを見ている。
「そういうことばかり言って」
 夏樹をたしなめる真人を見ているとおかしくなってくる。つい笑ってしまった露貴に真人が訝しげな目を向けた。
「いや、すまない。母親みたいだな、と思ったものだから」
「露貴さん……」
 言うなり真人は盛大な溜息をついた。どうやら他でも同じことを言われているらしい。
 夏樹をたしなめ春真の教育をし、それでもしかし真人はれっきとした男だった。柔々と優しげに見えるけれど、それは見かけだけのこと。
「悪かった」
 だから表向き、露貴は謝って見せる。芯が強いからこそ夏樹は彼に惹かれた。毅然とした男だからこそ、夏樹は真人を頼っていられる。
 露貴はそんなことはまるで知らないという顔をしながら、すべて見てきた。そこにいたのは自分だったかもしれない。
 淡い希望にも似た絶望を抱きながら。
「別にいいですけどね」
 そのあと何かを言い足そうとした真人が口をつぐんだ。いずれ、夏樹との惚気だと思えば気づかなかったふりをして笑みでも浮かべているのが賢明、と言うところ。
 二人して曖昧な笑みを浮かべているのに、夏樹はちっとも気づかなかった。
「露貴。どうするんだ」
「あぁ、そうだな。厄介になるか。どうせ本家に顔出しても嫌味言われるだけだ」
「それは……つらいなぁ」
「本当にそう思ってくれるか」
「思ってるよ」
「夏樹」
「うん」
「顔が笑ってる」
 吹き出したのは、真人に春真。すっかり会話を聞いていたらしい子供はなにやら玩具の上に伏せて、それでも隠そうとしているのだろう、笑いをこらえて変な顔をしていた。
「笑うなよ、子供」
「子供じゃないもん、春真だもん」
「まだまだ子供だろ」
「違うもん」
 ぷっくり膨れた頬が可愛らしい。まだなにか言いたげなのを手の一振りで黙らせて露貴はひとしきり笑った。
「じゃあ、正月な」
「大晦日からこいよ」
「そうだな、酒でも下げてくるか」
「悪いな、いつも」
 少しも悪いと思っていない顔で夏樹が言えば、黙って真人が頭を下げる。君が礼を言う筋合いではないよ、心の中だけで露貴は言い、そういうことになった。

 温かいこたつにぬくまっているのは気持ちが良かった。騒ぎ尽くした春真はとっくに布団に入っている。
「頑張ってたのにね」
 日付が変わるまで起きていると言い張って大人たちに混じっていた春真だったが、そこはやはり子供のこと。まだまだ大晦日のうちに舟をこぎ始め、ついには熟睡するに至って真人が布団へと抱いていった。
「やっと静かになった」
「そういう憎まれ口ばっか言って」
「可愛くないとは思っちゃいないさ。でもうるさいときにはうるさい」
 呆れたよう言う夏樹に思わず一言いいたくなって露貴は口を出す。
「夏樹、それ春真の前で……」
「言うわけないだろ。俺を見ろよ、露貴」
 言って肩をすくめる。その肩に、今はだいぶ薄れたはずの傷跡があるのを知っている。親に疎まれた彼は、そのつらさをよくよく知っている。
「すまん」
「いいから飲めよ」
 注がれた酒を一息で飲む。代わって今度は露貴が注げば、彼もまた同じよう飲んで笑った。
「あぁ、聞こえてきたよ」
 耳を澄ませていた真人が遠くを見ながらそう言った。二人もまた、耳を傾ける。
「除夜の鐘だ」
「もうすぐだね」
 また一年、二人で過ごすことが出来た。彼らはそんなことを思いながら目を見かわすのだろうか。
 不意に一人だという気がする。和やかな家族の中に混じってしまった異分子。ゆっくりと酒を飲みつつ大晦日を過ごす。時計が新年を告げる。
「明けましておめでとう、今年もよろしくね」
 真人が笑んで夏樹に言い、それから露貴にも視線を向けて軽く頭を下げる。答えて露貴も笑みを浮かべた。いたたまれない。来るのではなかった。今になってそう思う。
「さて、と」
 酔った体をふらりと起こし、露貴は立ち上がって伸びをする。
「初詣でも行ってくるかな」
 遠回しな暇乞いに夏樹が驚いて目を上げた。
「なんだよ、急に」
「そんな気分になったんだ」
「そうか」
 困ったよう笑う夏樹に手を振った。真人には黙って視線を向けるだけ。互いにそれでいい、そう思っている。
「露貴、待てよ」
 後から夏樹が追ってくる。首をかしげて襖に手をかけたままに露貴に夏樹は笑顔を向けた。
「俺も行く」
 真人には何も言わず。彼に尋ねることもせず。夏樹は一人で決め、一人で行くと言う。何度か目を瞬いた。酔いのせいにして。
「いいのか」
 すっと視線を真人に向ければ肩をすくめた彼がいる。
「行くか」
「行こう」
「悪いな、ちょっと借りるよ」
 何も言わない真人に露貴は精一杯の礼を言い、彼と行くはずの初詣を奪ってしまったことを詫びる。
「寒いな」
 外は寒風吹きすさんでいた。一気に酔いも醒めそうな寒気の中、連れ立って歩いていく。
 自分の体を抱えるよう歩く夏樹の横。露貴は今だけ胸の痛みを忘れていられる。なにを察したわけでもない夏樹が、今ここで自分といることを選んでくれた。
「いい年に、なりそうだな」
 晴れやかな顔をして呟いた露貴を、夏樹は不思議そうに見上げ口許をほころばせる。
「酔ったか」
 軽く小突かれた肩が、いやに温かかった。




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