酷い男だと、思う。
 すべてが終わってつくづくそう、思う。
 それでも愛している。
 どちらを?
 酷い男だと、つくづくそう、思う。

 桜に子が出来たと聞かされたのは昭和九年のまだ春浅い頃の事だった。
 春は名のみの風の寒さ、ちょうどそんな頃だ。
 露貴はそれを聞いたとき、少しも驚かなかった。
桜にとってもまた年のそう違わない甥である夏樹をどれほど深く思っているか、それを知りつつ
「それでも兄様が好きだから。不道徳、と言う意味では変わらないのではなくて?」
そう笑ってすべてを受け入れてくれた桜を、命の限り守ろうと思っていた。だから。
終わってしまった今となってはあまりの青さに苦笑さえもれるけれど、その時露貴は本当にそう思っていたのだ。
衝撃は厳しい顔をした父と、横に並んだ覇気のない長兄の言葉だった。
「桜は私の養女にするから」
 ろくな抵抗も出来ないまま桜は長兄の養女となり、生まれた子供は周囲の反対を押し切って桜が自分の子とした。
 その間露貴は何も出来ず、それどころか実家に近づく事さえ出来ず、ただ実家が送りつけてくる関係書類を眺めているだけ。
 呆然としているその時にまた事実だけを聞かされた。
「夏樹が家を出た」
 想像してみるべきだったのだ。
 桜とのトラブルに当然許婚の夏樹は巻き込まれ、そうでなくとも険悪だった母親との関係はさらに悪化。
「今度は本当に殺されると思ったのさ」
 笑って夏樹が話したのはあれからどれくらい経ってからだろうか。
 当時は当たり前にそんな事を話せる状態ではなかった。
 実の母親に命狙われた夏樹。人嫌いを装っているけれど、本当は信じられないのだと。
 信じたくても裏切られるのが怖くて
「それならば誰も要らない」
 そう言えるだけの若さがあった頃だから。
 露貴は二十歳で、夏樹は十七歳。
 若い、ということは前途多難だということかもしれない。

 桜を取り上げられ、そもそも事の始めが夏樹である以上今は夏樹には会えない。露貴はそう思っていた。
「夏樹を得る事が出来なくて、桜に逃げた」
 そんな罪悪感とも言うような物が頭のどこかにこびりついて離れない。
 幼い、ほんの幼い頃から夏樹を愛していた。
 夏樹がまだ
「愛してるよ」
 の、言葉の意味さえわからない頃からそう言い続けた。
 それがわかるようになってからも
「なにもしない」
 を約束にいつも側にいた。
 桜を愛してもなお、夏樹は露貴の一番であり続け、だからこんな事になった。
「悪いのはみんな私の所為だ」
 幾分自暴自棄になっていた露貴は吐き出すとも呟くともつかない声音で言いながら煙草をふかす。
 大騒ぎになった挙句に親が与えてくれたビルの一室だった。
 それでもまだ末の子供は可愛いのかと自嘲する。
 とりあえずは勘当同然ということで家を出されはしたものの、公に出来ることではなし、こうして会社でも起こせと資金つきでビルを与えてくれた。
 札束で親の頬でも張っ倒し、椅子蹴飛ばして出て行こう。
 思いはしただけで留まった。
 先立つものは必要だから。
 家を出されて一年半。子供はつつがなく成長中と聞く。女の子だった。子供と同じく自棄で起こした会社のわりに持ち前のしつこい性格の所為かこちらもまた順調。
 順調でないのは夏樹の事だけだった。
 会社の上の階にある自分の部屋で露貴は風に吹かれている。
 夜風が気持ちいい。
 煙草の煙がふわり、流れた。
 明日は会いに行こう。

 そう思い続けて半年だ。
 会わない訳ではなかった。いやいつの間にか前と同じほどにも会っている。
 それでも……。
「違うんだ」
 だんだん自分の気持ちがささくれて行くのが手にとるようにわかる。
 夏樹はあまり笑わなくなった。十九歳と言えばもう大人の仲間、当然だ。
違う。
側に寄ればさりげなく身をかわす。それもそうだろう、年が近くとも叔父甥で、男同士だ。当然だ、これも。
違う。
桜の事を話さなくなった。唯一嫌悪感を持たなかった女であったはずなのに、話さなくなった。私に遠慮してか? いとしい女と会えないのを思いやってか?
違う。
なにもかも違う。そんなんじゃない。そんな一通りの事じゃない。
夏樹はこの機会に自分と私との間をおこうとしている。
「……いや、桜に悪い、とも思ってるな。あれは」
 もしもこのまま会ったなら激情に身を任せ、嫌がろうが抵抗しようが我が物にしてしまったかもしれない。
 いとしさゆえにそれさえ出来ないものか、冷静さがよみがえってしまう。
 ふ……と苦笑がもれた。
「いつまで持つやら」

 そしてそれは当たってしまったのだ。
「夏樹が女郎屋に出入りしている」
 聞かせてくれたのが誰かは忘れた。
 すぐに調べた。汚いやり方だとは思わなかった。もしもそれで夏樹が女と言う生き物に抵抗がなくなって幸せになれるのならそれでもいい、そんな事さえ考えた。
 夏樹は入り浸っていた。
 おかしい、ぴんと来た。
「夏樹、話がある」
 捕まえたのは夏樹の家の前。不憫がった父親が家を出た息子にこっそり贈った家の前。
「でかけるところだ」
「女郎屋だろうが」
 いつの間にこんなに大人になったのだろう。十九歳と言う年よりはるかに大人びて見える。頬についていた子供らしい肉が落ちた所為かもしれない。相変わらずの着物姿。袖から見えた腕にぞくりとした。
「一緒にくるか?」
 ちらり、口元に笑いの影が浮かぶ。自嘲めいた笑いを途中で止めてしまったような影だった。
「女の所に行くのに客を連れてく野暮がいるかっ。馬鹿」
「女じゃねぇ」
「……芳町か?」
「女じゃなきゃ男ってのは安直過ぎるだろうが」
 呆れた物言いにはじめて昔の言葉つきが戻ってくる。
 それを聞いて露貴はほっとしたのだ。
 少なくとも荒れてすさんでいる訳じゃあ、ないと。
「行くだろ?」
「行く」
「行こうか」
 そうして女郎屋に連れ立っていくのはなんだか妙な気分だった。

 女にとっちゃいい客かもしれない。上がって酒でも飲んで帰っていく。毎度の事だと女は笑っていた。
「男と女じゃないのさ」
 からからと笑う女は確かに「女」を感じさせない。女郎屋じゃ売れっ妓という訳には行かないだろうけれど、肌をあわせるのが目的でない夏樹にはその方が都合がいいのだろう。
「ねぇさぁん」
 階下から女を呼ぶ声。
「いっといで」
「あいよ」
 そう返事をした時だけ女は少しだけ女らしかった。
 夏樹に惚れているのかもしれないな、露貴は思う。夏樹にずっと焦がれてきた分、そう言うことには敏感だった。たぶん外れてはいないだろう。
 女は三十分ほどだろうか。衣装も変えて戻ってくる。この分では体も清めてきているのだろう。
 例え他の男とであっても情事の影と言うのが夏樹は好きではない。夏樹がそう言ったとも思われないのに女がする気遣いに露貴は内心驚き、そして彼が入り浸っている訳もなんとなくわかった気がする。
「いい女だ」
 心底そう思った。あっさり譲ってやる気は毛頭なかったにしろ。

「なんで女郎屋に?」
 帰り道。
 夜道。
 少し酔っていた。
「人目が煩くてね」
「そうか」
「そうだ」
 がらり障子を開け放ち夜風を入れた。
 月明かりだけの夏の庭にぼうっと朝顔のつぼみが見えた。
 白い。
 酔っていた。
「夏樹……なんで私を避けている?」
「避けてるのは、お前の方だ」
 にやり、笑った。
 酒の所為か、ほんのりと赤くなった目元がいつも見るよりもなお頬を白く見せている。
 月明かりの所為かもしれない。
「露貴が勝手に自分が悪い、自分の所為だって……責めて俺のことを避けてる」
「……悪いのは、私だ」
「たぶん、誰も悪くない」
 夏樹はそう言ってふっと目を閉じた。
 まるで自分に言い聞かせるかのように。
 思わず……。
 抱きしめていた。そんなつもりはなかった。言い訳かもしれない。酔っているからかもしれない。
「桜さんが……」
「夏樹」
 呼べばそのまま黙った。わずかばかりの抵抗もすぐにやみ、その代わり幼子をなだめるように背を抱かれた。
 そうじゃない。
 一度火のついた激情はそんな事じゃ満足できない。
 そっと肩に預けられていた額を、長めの髪とり引き離し、驚く間もなくくちづけた。
 畳に押さえつけ、むさぼる。
 苦しさに唇はなせば、ぴちゃり、水気の淫靡。
 あおられた。
「一度だけ。私の物になったとは夢にも思わない……一度だけ」
 淡い月明かりの中、夏樹の目が蒼く、煌と。
 承諾はそれだった。
 やにわに髪をつかまれ、目を覗かれた。じっと。
「一度だけ。だ」
 夏樹はそうして力を抜き、目を閉じた。
 口元が少し、笑った。
 手を離せばそのままはかなく消えてしまいそうな笑みを浮かべる夏樹を見ていたくなくて、唇を重ねる。
 答える言葉をもたない夏樹に与える言葉はなかった。
 ただ二年の空白を埋めたかった。
 肩のまだ若い傷にくちづけ、脇腹の傷に舌を這わせ、腿の古傷を悪戯に噛んだ。
 のけぞる白い喉。
 かき切ったら私の物に出来るだろうか。
 一瞬思い、刹那に振り払う。
 代わりにそこにもくちづけを。
 一夜限りの体にいくつもの紅い跡を散らしていくのはあまりな無体に思うけれど、止まらなかった。
 貫かれた痛みに寄せた眉根。ため息交じりの吐息。体のぬくもり、匂い、吐き出した、精。
 手の届かない痛みと共に、一生私は忘れやしない。

 眠れなかった。
 体は泥のように疲れ、眠りを欲していたのに、眠れなかった。
 痛めつけられ、疲れきったいとしい人の寝顔をただ見ていたかった。
 血の気の薄い頬、名残の汗の残る額に張りついた黒い髪。
 起こさないようかきあげては額に唇寄せた。
 最後のくちづけ。
 唇を盗む事はどうしても出来なかった。

 夏樹は昼になっても起きてはこない。
 いつもの事だと慰めてはみても、昨日の今日で顔を見せたくないのかもしれない、そんな不安が付きまとう。
 取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない。
 今になってようやくそう、思った。
 憎たらしいほどの夏空に、朝顔がまだしおれる事もなく咲いている。
 白い朝顔。
 からり、庭下駄突っかけて朝顔を一輪、手に取った。
 柔らかい花びらは昨日の夜の夏樹の髪の手触りを思い出させ、痛い。
 からり、寝間の襖が開いた……。
「おはよう……と言うほど早くはないな」
 夏樹が目をそらす前、言った。
 何度となく言った朝の言葉がすぅっと出てきた自分に何より驚き、安堵の微笑を浮かべた夏樹に二度驚いた。
 その夏樹がふと、襟元を気にし、直す。
 わずか、昨日の名残の跡が、見えた。
「夏樹」
 いとしい名を呼び、初めて気づいた。これから私は嘘をつくのだろう、と。
「なにもなかった。いや……色々あったけど、なにもなかった。時間は経っていても、ここにいるのはずっと前の私とお前だ……なにもなかったんだ」
 桜の事も、二年の空白も、まして昨夜の事など。
 なにも。
「桜を……愛しているんだ」
 夏樹は笑った。
 すべてを諒解した笑みだった。
 嘘だと知りつつ、それを受け入れてくれた。
「……そうだな」
「ああ」
 夏樹は微笑む。心持ち目を伏せたまま。
 縁側の風鈴がちりんと、鳴った。
「おはよう、露貴」
 しっかりと顔を上げ、まっすぐに露貴を見詰めた、目。
 陽に透けた蒼い目が柔らかい色に染まっていく。何年ぶりに見るのだろう、露貴はそう思う。
 二度と夏樹を愛しているとは言うまい。
 心の奥底にしまいこみ、誰にも言うまい。
 もうこの人を独りにしないために。
 自分に出来うるすべてをかけて、この人の側にいよう。
 ただ、側にいよう。
「ああ。おはよう」
 手にした白い朝顔をそっと露貴は投げ捨てた。



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