「かっ夏樹ッ!!」
 悲鳴めいた声を上げ、真人が立っていた。
 手には一冊の雑誌。
 ふるふると震える手は一見怒り狂ったそれのようではあったけれど、どうにも違うらしい。
 そうでもないか。
 夏樹は思う。
 いつも真人が照れた時に見せる一番の特徴。
 耳が赤くなるのだ。
 けれど今は顔中を真っ赤に染めている。もちろん耳まで赤くなっているのだけれど、どうにも照れているだけとは思えない。
 原因は既に見当がついている。
 手に持った雑誌。
 それには出版社の名と共に「謹呈」のシールが。
 夏樹が寄稿する雑誌のひとつ、旅行雑記を掲載している雑誌だった。
「どうしたんだよ、真人」
 わかっていながらそうやってからかってしまうのは彼の悪い癖かもしれない。
 けれど真人は常々本当にからかってしまいたくなるような人だったから仕方ない、そう言い訳をしていもする。
 もう共に過ごした年月の長さを数えるのは、止めた。
 真人はいつまでも自分のそばからいなくなりはしない。
 だから。
 それでも随分長い時間が経っている気がする。
 なのに真人は変わらない。
 人格的なことはもちろん、初めて会った頃のままの目で彼を見つめ、腕の中で羞らう。
 その容貌も、また。
 まろみを帯びた、その名の由来にもなった琥珀色の目。さらさらとした茶褐色の、髪。かつて軍人を志していたとはとても思えないほっそりとした、指。
 なにも変わらない。
 変わったといえるのはせいぜいあの頃の少年めいた華奢さが幾分抜けた事くらい。
 それでも相変わらずほっそりとした体にあいまいな笑みを浮かべる彼は
「年齢不詳ですね」
 なんてはるか年下の編集者に笑われたりしている。
 実際まだ二十代で通用するから困ったものだ。
 夏樹は独り胸の中で笑ってしまうのだけれど、そう思っている彼にしたところで年齢不詳は同じこと。
 真人と並んでいると二人して青年に見えてしまうのだった。
 だから、そうしてからかったりじゃれついたりしているのはまるで人ではない、なにかもっと透明な生き物のようだった。
 少年の日の頃のように。
「どうしたじゃないよ、もう」
 ふくれっつらで夏樹の横に腰を下ろす。
 不機嫌なんだぞといかにもアピールするように真人は乱暴に胡座をかいた。
 男のものとはとても思えないきれいなふくらはぎが着物の裾からのぞく。
「なに怒ってるんだか、な」
 すっかりあちらを向いてしまった真人の顎先に指をかけ、あおのかせ唇に軽く触れようとする寸前、逃げられた。
「ごまかされないからねっ」
「なにに怒ってるんだよ」
「思いつかないわけ?」
「まったく」
「見当も?」
「全然つかないね」
 いけしゃあしゃあとはまさにこのことに違いない。
「心当たりがありすぎて、だろうね!」
 さすがに真人も負けてはいなかった。
 ぴしりと抱き寄せてくる手を叩く。
「よくまあこんな事書けたよね、まったく」
「あぁ、そのことか」
 白々しいよ、真人は言い内容を思い出してしまったものか少し頬を赤らめた。
 真人が手にした雑誌に載っている旅行雑記は夏樹があちらこちらに旅行した時のことを書き綴ったいわば旅行記としてはじめられたけれど、随筆、エッセイの類でもあり日々の徒然を書いていることもある。
 最新号に載ったのはその部類だった。
 鬼灯、と題されたそれは真人が不意に火傷をした時の事を書いていた。
「……こんな書き方したら」
 ふっと見上げる目が急に気弱になった。
「続けてごらん」
 夏樹は目からからかいの色を消し、包み込むように真人を抱く。
「ばれちゃう、よ」
「気にしすぎだ。大丈夫」
「だって……」
「こっちもプロだ。言質を取られるような表現はしてない」
「うん……」
 浮かない顔をする真人の額に唇を寄せれば、それでは足りないとばかりにくちづけをねだられた。
「だいたい想像するくらいは読者の自由だよ」
 実際夏樹の手元に来る読者からの手紙の一部はそんな事を想像していると匂わせている。
 圧倒的に若い女性が多かったから、ある種の娯楽として彼女たちは楽しんでいるのだと夏樹にはわかっている。
 けれど真人はそうはいかない。それがわかっているから夏樹も真人にそう言う手紙が来るという事は言わずにいるのだった。
「でもばれちゃったら、困るでしょう?」
「なにが困るんだ」
「だって……」
 言いかけて真人は止まり、左手の人差し指の爪を軽く噛んだ。
 彼のじっと物を考える時の癖だった。
「たいして困る事なんて、ないだろ?」
 そんな真人に助け舟を出すように彼は言い、柔らかい髪に頬を摺り寄せた。
「お前がいれば怖いものなんてなにもない。男二人だったらどこででも生きて行けるし、二人で生きて行く位の蓄えもある。
 俺は小説を捨てられない。お前も歌を捨てられない。どこも原稿買い取ってくれなくなったらお互いが見ればそれでいい」
 ちがうか? という風に夏樹は笑った。
「口で言えない事を俺は小説にしてお前は歌にしている。だったら……互いがいればそれでいいわけだ」
「……うん」
 真人も笑う。
 一つは掲載されてしまったものはもう仕方ないという諦めもあったのだけれど、それよりも普段そんな事をかけらも言わない彼がこうして言ってくれた事が嬉しかったのかもしれない。
「本日のご予定は? 琥珀君」
 自分の言ったことがようやく恥ずかしくなったものか夏樹は茶化しながら問うた。
「特にありませんよ、篠原さん」
 真人もまたいたずら半分同じように返し、二人は顔を見合わせては、笑った。
「じゃあ……向こう行かないか」
 ひょいと再び真人を抱きすくめ彼が言う。
「昼間っから?」
 笑いを含んだ声が夏樹の耳をくすぐる。
「無粋な事を言うんじゃないよ」
 ささやきついで、赤くなった真人の耳にくちづけし、そっと甘噛み。
 襖の向こうに消えていった二人に呆れたかさんさんと照っていた太陽が雲に隠れた。
 あまりの熱々ぶりに太陽も照れたのかもしれない。

 けだるい余韻の残る体にふわりと一枚彼の浴衣がかけられていたのを見て真人は微笑する。
 あのあと眠ってしまった真人に彼がかけてくれたものに違いない。
 浴衣の下はまだなにもまとっては、いない。
 夏樹の腕を枕にしていた真人はこんな時、自分でも妙だと思うほど、幸せだった。
 夏樹はまだ眠っている。
 彼の寝顔を見るたび、真人は思うのだ。
「ずっと一緒にいたいね」
 と。
 今のところその願いは叶えられている。
 けれどこの先はわからない。
 一瞬先の事さえわからない神ならざる身では、一生のことなど見通せるはずはない。
 だからこそ。
 今この瞬間に世界が終わろうとも悔いのない生き方をしたい。
 真人にとって悔いのない生き方とは夏樹と共にいる事。
 それ以外にない。
 真人は自分がわがままでどうしようもない寂しがりなのを知っている。
 知っているからこそ、それを自制してもいる。
 本当はいつも好きだとささやいて欲しいし、側に寄れば抱きしめて欲しい。
 寂しいときにはくちづけと慰めが欲しい。
 けれど。
 共に暮らし生きている以上、なかなかそうはいかないというのもわかっている。
 生活、というものかもしれない。
 だからこうして裸のままの彼を見ているのが好きだった。
 眠っていれば、どこにも行かない。
 そう思う所為かも知れない。
 いいかげんもう、出合った頃とは、違う。
 夏樹は文壇に名を馳せ、真人は加賀沈香の名が消えてもなおこの歌人にとって苦しい現代で名を成した。
 お互いに人嫌いだのうちに編集者が来るのは嫌だの言ってはいられない。
 仕事と生活に二人きりでいる時間がどれほどにか少なくなった事か。
 それでも。
 真人はこの生き方を選ぶだろう。もう一度生まれ変わってもなお。
 この人と在れる事が何よりも幸せだから。
 真人は思う。
 もしも自分か夏樹かどちらかが女だったらどうなのだろう、と。
 異性として会っていたら今自分たちはどうしているだろう、と。
 たぶん、変わらない。
 そう信じたいだけであったとしても、たぶん変わらない。
 真人は夏樹という人を愛したのであって別に男に興味はない。
実際不意に目がいくのは大概美しい女性とすれ違ったりした時だ。
 だからこそこの人が好きなのであって、と言い切れるのだ。
「ずっと一緒にいよう、夏樹」
 まだ抱かれたままの夏樹の胸に頬を寄せ、真人は呟く。
 頬を寄せたのはちょうど傷の跡。
 その傷もだいぶ薄くなった。
 まだはっきりとわかる引きつれではあるけれど、いつも見慣れた真人の眼には随分薄くなったように思う。
 と、我ながらいつも見慣れた、と言うのが妙に色っぽくて少し、笑った。
「……ん、おきたのか」
「ごめん、起こしちゃったね。いいよまだ寝てて」
「いや、いい。どうした? 笑ってなかったか」
「うん、ちょっと、ね」
 片手の腕枕から両腕で包み込むように夏樹は真人を抱きしめる。
 真人の一番好きな形だった。
 二人して家の中で仕事をするくせ、どちらも一人でないと集中できないという因果な仕事。
 真人が寂しがっているのももっとかまって欲しがっているのも夏樹にはよくわかっている。
 それを自制しているのも。
 だからこそ仕事仕事と言っていないでかまってやりたい、とは思う。
けれど思うだけでなかなかどうにもならない、それが生活、生きていく事だ。
 おそらく別のところに行って初めからやり直したって同じことなのだ。
 だからこの時間が貴重で仕方ない。
 側にいられるときは精一杯真人の望むように。
 それが自分に出来る事だから。
 一生懸命にわがままを押さえている真人は、なににも増していじらしく、いとおしかった。
 お互いに相手を思いやって自分を律する事ができ、それを気遣う事のできる人と会えた。
 それがなにより幸せだった。
 何年経ってもその思いは、消えない。
「そうだ、夏樹。見てよ」
 と、真人は枕もとの水差しを置いた盆に手を伸ばす。
 先ほどその水で疲れた喉を潤した。
 ちらり、そんな事がよぎっては自分でも耳が赤くなるのが分かった。
 夏樹はもちろんそれを見逃したりはしない。
 にやりと笑うとうつぶせた真人の背に覆い被さりその耳を口に含んだ。
「あ……」
 充分に満足したはずの体は、それでも彼のそんなちょっとした愛撫にさえ敏感に反応を返す。
 それが夏樹にはどうにも可愛くて仕方がない。
 もうと睨んできた目元のほんのりとした赤さもまた。
 そこにも一度くちづけて彼は身を起こした。
 外見だけではなく、裸であっても年齢のうかがえない裸身だった。
 力仕事をしない綺麗な指先は世の女どもがこぞって噛み千切りたくなるほど、美しい。
 その指先が自身の、闇が凝ったよりもまだなお黒い髪をかきあげる。
 そんな夏樹の仕種を見る事を許されたたった一人はうっとりと彼を見上げていた。
 何度見てもいい男だな、とでも惚気るように。
「おいで」
 真人は彼の腕に再び三度包まれる。
 今度は身を起こした彼に背中から。
 まるで子供みたいな抱かれ方ではあるけれど、真人はこの姿勢も安心できて好きなのだ。
「なにを見せたいんだ?」
 とささやきながら首筋にくちづけたりさえしなければ。
 とは言いながらも本当はそれもけっこう嬉しかったりするものだから、夏樹も察して止めようとはしなかった。
「ほら、鬼灯」
「ああ、この前のか」
「うん」
 薄く透明な朱色の実はもうすっかり中身を抜かれて綺麗な笛になっている。
 商売柄そうそう夏樹ほどペンを持たない真人は頭を働かせている間、ずっとそれを揉み解していたのだった。
 張り詰めた実がだんだんと解け、朱色の皮から薄黄色の種が透けて見え、次第にそれが中の液と共に動き始める。
 すっかり柔らかくなった所で口を切らないようにそうっと中身を抜いてよぉく洗って鬼灯笛の出来上がり。
 真人はこの手の手遊びが得意だった。
「鳴らしたこと、ある?」
「いや、たぶんないな」
 夏樹は真人の手からそれを取り上げ物珍しそうに見ている。
 考えてみれば鬼灯なんていうものは子供の遊ぶもの。
 幸せならざる子供時代を送った夏樹がそんな事で遊んだわけもない。
 そうでなくても子爵の後継ぎが鬼灯で、というのはありえなかったかもしれない。
 真人は自分と照らし合わせて考えれば考えるほど人間離れ浮世離れしたこの恋人がいとおしくてならない。
「こうやってやるんだよ」
 いいながら彼の舌先に鬼灯を乗せ鳴らし方を教えた。
「噛んじゃだめだよ」
 夏樹は言われたとおりに鳴らそうとし、不意に顔をしかめた。
「苦い」
「ああ、まだちょっと苦いかも……」
「鬼灯より、こっちの方がいい」
 言いつつ軽い力で真人を押し倒しては再び体の上。
 肌と肌が隙間なく重なる感触はこの上もなく心地よいもの。
 そうして真人にくちづけを。
「後のくちづけにしては熱烈すぎると思うけど?」
 笑いを含んだ声で真人は言う。
「口直しだ」
 笑って彼は何度目か数える気にもならないくちづけをした。



外伝トップに