取材旅行に、珍しく真人が同道していなかった。なにやらどうしても片付けなくてはならない原稿があるとかで、夏樹は一人で海辺の町に来ている。もっともあとで合流する、と言っていたからそれほどつまらない思いはしていなかった。
 不機嫌な理由は他にある。一人ではなかった。夏樹自身は一人、と思い定めているのだけれど、相手がそれを許してくれそうにない。
「先生、写真お撮りしましょう」
 若々しい声が言う。振り返ることもなく夏樹はむっつりと黙り込んだまま海を見ていた。
「きっとあとで必要になりますもの、ね」
 おそらくは編集長の言うとおり、優秀な人材なのだろうとは思う。同行しているのは若い編集者だった。それだけでも気が塞がる所、編集者は女性だった。
 編集長の考えなど読めているのだ。こうして仕事にかこつけて旅行にでも行かせれば、そこはそれ、男と女。あとはなるようになると思っているに違いない。夏樹自身に対してより、彼女に対する侮辱ではないかと思うのだが、そのようなことを口にすれば喜ばれるだけとわかっているから、夏樹は何も言わない。
「祐子君は、優秀な編集者ですから、きっとお役に立つはずです。若い編集者を育てると思って、是非」
 そう言って頭を下げた編集長に夏樹はうなずかざるを得なかった。一応は世話になっている会社である。
 優秀ならばわざわざ作家が育てるまでもないのではないだろうか、喉元まででかかった嫌味を飲み込んだのを褒めてくれたのは真人だけ。
「先生、予定ではこのあと街道沿いの町並みをごらんいただこうと思っていますが、いかがですか」
 ひとしきり写真を撮り終えたのだろう、彼女は夏樹の無言を気にした風もなく華やいだ声を上げていた。
「行きます」
 一言だけ呟くよう言い身をひるがえした。彼女に従ったのではない。ただ午後の海風が少し冷たかった。風に当りすぎて体を冷やすと真人が怒るだろうな、ぼんやり思う。
 昨日、横浜を発ったばかりだ。それなのに酷く真人が恋しかった。
「ここの町並みは昔のままだと聞いています。きっとご参考になりますわ」
 案内人のくせ、うきうきと隣を歩く彼女を見ていると腹立たしくてならない。その程度のことは言われなくともわかっているのだ。だからこそ取材に来ている。
「町並みの写真も撮っておきましょう」
 言ってカメラを構えた。仕事に忠実なのはよくわかる。決して媚び諂いではない。それでも鬱陶しくてならない。
「必要ありません」
「ですけど」
「執筆中に写真を見ることはありません」
「でも、きっと」
「構成中に写真を見ることもありません」
「先生」
「なんですか」
「どうやってお書きになるんでしょう」
「いま目で見たものを私と言う人間を通して構成しなおすんです、ここを使って」
 わざとらしく指先で頭をつついた。彼女は唇を結んで困った顔をしている。
「あなたが仕事熱心なのは理解しています。が、私の好きにさせてください」
 言うだけ言って町並みに目を戻した。考え事をしながらでも、物書きの目はこれをどう表現しようか常に文章を練っている。それを破られたことだけが、少しばかり不快だった。
「申し訳……」
 小声で言うのに煩わしげに手を振り、そしてそれだけでは落ち込ませるかと思い直して、いいですから、そう言い添えた。
 ゆっくりと町を歩く。夏樹が書こうとしているのはここであってここではない景色。夏樹の目を通して再構成された、現実にあったかもしれない架空の町だった。架空だからこそ、町の現実感を体感してくてここに来た。
「おや……」
 ふと足を止めたのは一軒の古道具屋。店先には壷だの陶器の置物だのが並んでいる。風情に惹かれた。こんな店を書いてみたら面白そうだ、ちょうど不思議な登場人物が欲しかった所だし、あの役割を振るならば――。一瞬にして夢想は深い部分にまで進んでいく。
 これが作家の醍醐味かもしれない、時々夏樹は思う。まるでそのときを待っていたようにぴたりと設定が嵌っていくとき、なんとも言えない楽しさを感じるのだ。
 店の中は薄暗かった。これでこそ相応しい。思わず笑みを浮かべて振り返りそうになって内心で舌打ちをする。そこにいるのが真人ではないことを失念しかけた。
「先生」
「なんですか」
「こういうご趣味があるんですか」
 彼女には理解できないがらくた同然なのかもしれない。辺りを見回して首をかしげていた。
「仕事です」
 それだけを言ったものの、半ばは趣味でもある。作家としては成功の部類ではあるのだろうけれど、そもそも金銭はほとんど真人が管理している。そして夏樹自信、あまりにも物欲がなさすぎた。露貴など、たまには無駄遣いでもしてみろ、と呆れて笑うのだから推して知るべしと言うもの。
 だからやれどこそこの壷だ、だれそれの焼き物だと言ったことにはまったく興味がない。あるのはただ欲しいかどうかだけだった。
「お客さん、いい根付をしてらっしゃるね」
 ぼそり、どこから湧いて出たのかわからない男の声に身がすくみそうになる。慌ててそちらを見れば枯れているのだか脂ぎっているのだかよくわからない不思議な老人が座っていた。
「琥珀ですかい。花は……ほう、梔子か」
 興味深げに首を伸ばす老人が妙に好もしくなってしまった。先程、夏樹が頭の中でこの店先に座らせていたのはこんな老人だった。想像通り、と言うよりいっそ気味が悪いほどぴったりだ。
「ちょいと見せていただけませんかね」
「かまいませんよ」
「では拝借」
 そればかりは丁寧に言って頭を下げた老人に、夏樹は帯から根付を外し、手渡した。根付に下げていた小ぶりの煙草入れの中身がちゃらりと鳴った。
 煙草を入れているのではなかった。中は筆記用具だ。写真を必要としない夏樹ではあっても、時折物事を書き留めるくらいはするのだ。
 洋服を着ているのならばポケット、と言うものがある。着物ではそうは行かない。だから夏樹にとって根付は装飾品である以上に実用品だった。
「いいものですなぁ」
 うっとりと呟く声に老人を見る。あまりにも撫で回しているのが少し嫌になって手を出した。老人は残念そうに手を離す。
 取り戻した根付は真人からの贈り物だった。いつのことだったか。琥珀材なのは無論、真人の歌人としての名に由来している。梔子は、彼の最初の歌集「耳成山の梔子」から選んだものだろう。柔らかな琥珀の手触りも、それを贈ってくれた彼の志も嬉しくて夏樹は度々これを身につけた。
「うちにも根付、ありますけどごらんになりますかね」
「是非」
 勢い込んで言ったのがおかしかったのだろう、老人は息の抜けたような笑い声を立て、どこへやら姿を消した。後ろではことの顛末のわからない編集者が呆気に取られて立ち尽くしている気配。
 それにはかまわず、夏樹は戻ってきた老人とひとしきり話をし、気に入った根付を迷いに迷ってひとつ買い求めた。あの寡黙で人嫌いと有名な篠原忍がこれほど言葉を口にするのを始めて目撃した編集者は、瞬きも忘れて夏樹を見ていた。

 宿に帰りついたのは、編集者の予定していたより少し遅くなったらしい。夏樹にはどうでもいいことだ。予定予定と決めていては何もできなくなってしまう。
 そこまであからさまにするのは気がひけたのか、きちんと部屋は二つとってある。そうでなかったら即刻その場で帰ったことだろう。
 それでも彼女は夕食後、しばらく夏樹の部屋に座っている。何か御用がありましたら、と言うことなのだろうけれど気が詰まっていけなかった。
 開け放った窓から夜風が入る。少し肌寒いような、心地良いような風だ。海辺の塩気を含んだ温泉につかったせいだろう、火照った体にはちょうどいい。風には潮の匂いがした。
 背後で彼女が身じろいで息を飲んだような気配がする。ふっと射してきた月影に心を奪われていた夏樹は気にも留めない。
「そんな格好をしていると風邪を引きますよ、篠原さん」
 懐かしい声がする。振り返れば真人が立って笑っていた。
「お前、仕事は」
 驚いた顔を真人がかすかに笑う。それから浴衣がけだった夏樹の肩に丹前を羽織らせた。
「篠原さんが編集の方にご迷惑をかけているんじゃないかと思ったら気が気じゃなくて。郵送すればいいように掛け合ってきました。仕事はこちらでしますよ」
 言っていたずらをするよう笑って編集者に頭を下げれば、彼女はしどろもどろになって礼を返す。
「迷惑だなんて、とんでもない」
「あなたも仕事ですからね、わかってはいるんですが。とにかく扱いにくい男でしょう?」
「失礼なことを言うやつだ。初対面同然の人間に面倒を言うものか」
 不満そうに言って茶をすする夏樹の手元を見て、はっと彼女が腰を上げる。慌てて真人の茶を淹れに行った。
「仕事、大丈夫なのか」
 小声で真人に問えば、黙って彼は笑うだけ。ただし目許に険がある。どうやらあの編集長は、二度と真人のいかなる原稿ももらえないと思ったほうがいいらしい。最近では本業の他に雑文も物する真人相手にそれはかなりの痛手であろうが、夏樹にしてみれば自業自得なので口を挟む気はまったくない。もっとも、編集長自身の知らないところでの自業自得ではあるのでいささか哀れではあるが。
「水野先生、お茶をどうぞ」
「ありがとう」
 にっこり笑って茶に口をつけた真人が内心で不穏なことを考えているなど、夏樹以外の誰にもわからないだろう。いっそわかりたくなかったと心の内では思うのだ、夏樹も。
 誰にも気づかせないよう、そっと心の中だけで溜息をつきつつ編集長を罵る。それから懐に手を入れて小さな物を真人に放った。
「篠原さん?」
「忙しいのに手間をかけさせちまったからな。駄賃だ」
「ありがとう。珍しいですね」
「おい、お前……」
「違いますよ、こっちが」
 思わず言い返そうとした夏樹をさえぎって真人が手の中の物を振った。
「材は象牙かなぁ。鮑ってところが面白いなと思って」
「海辺の町で見つけたってところが気に入ってる」
「あなたらしい」
 そう言って真人が笑う。そっぽを向いた夏樹の視界の端に編集者が映った。どうやら彼女は気の毒にもこの日、二回も呆然とする羽目になったらしい。
「磯の鮑の片思い? それこそあなたらしくもない」
「どこがだ。思い尽くしても相手は意外と素っ気無い。ぴったりだろうに」
「あなた相手じゃそのうち愛想をつかされる日も遠くじゃないでしょうね」
 笑って言う真人の言葉のぞんざいさに編集者が目を丸くした。夏樹は大袈裟に溜息をついて見せ、内心では本気で落胆している。
「篠原さん」
 にやりと笑った真人が根付を放り返してきた。しかしそう思ったのはほんのわずかで、手の中にあるのは別の根付とすぐに気づく。彼女に見られないよう、そっと手の中、包み込んだ。
「あなたにはそっちのほうが似合いますよ、篠原さん」
 喉の奥、真人が笑う。夏樹の手の中にあるのは材は同じく象牙でも形は違う。蛤だった。あの古道具屋で夏樹が迷ったもう一品。どうやら真人も寄り道をしたらしい。莞爾と夏樹が笑った。



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