もう治った。そう言って聞かない彼を朝からずっと布団に押し込んだまま、僕は居間の障子に背をもたらせかけている。
 いつもの彼の定位置だ。
 普段はきちんと閉まっている襖の向こう、寝間で彼が面白いものでも見るように僕を見ているその視線を感じている。
 一晩ぐっすり眠って体調もほぼ戻った彼とは対照的に、僕はすっかり寝不足で、しかも不機嫌だった。
 沈香の所為だ。
 僕にとってだって懐かしいはずのその名は、今は僕の妬心あおるだけの始末で。みっともない、そう分っていてもだからといって苦しさが少しでも減るわけもなく。
 梅の木を通る涼やかな風が甘い緑の匂いを運んでくる。普段だったならばどれほど心和む景色だろう。穏やかな日常の情景。僕の心は慰められない。
 そんなことの出来る立場ではない、そう分っていてもあてつけ半分、僕の周りには詠みかけの短歌が散らばる。
 夕焼け空も早、暮れた。
 ふっと風が動いた、と気づけば彼が僕の側にいる。
「だめですよ……」
 彼は無言でばさり、丹前広げて引きかぶり、なんていうことだ。
 僕の……膝枕。
「嫌か」
 喜んで、の意をこめて肩にそっと手を置けばすうっと彼の体から力が抜けていく。
 張り詰めた彼の糸が緩んでいく。それが僕にとってどんなに嬉しいことなのか、彼は知りもしないだろうな、そう思う。
「夏樹さん……」
「かじゅ、だ。親しい人はそう呼ぶ」
 本来の名を音で呼んだその響き。
 その甘やかな響きを口にすれば、なんだか心が温かい。他愛のない、僕は胸のうちで少し、笑った。
「俺は沈香、という歌人に惚れてて、それが愛しく想うお前と同じ人間だった、それが嬉しい。それだけだ」
 いったいこの人はさらりとなんていうことを言うのだろう。
 自分の言ったことが分っているのだろうか。彼の言葉の持つ意味を図りかね、僕は怪訝というよりもむしろ呆然と彼の肩を見ていた。
「おい、人が一世一代の賭けに出たってのに、聞いてんのか、お前は」
 あきれたように身を起こす彼はきっと笑っているはず、そう思っていたのにそれは鮮やかに、裏切られた。彼の目はこれ以上ないほどに、真剣だった。
「か……じゅ」
「好きだ、と言っている」
 彼の瞳が真正面から僕を見詰める。僕はしばし言葉を失い、ただ彼の目を見詰め返していた。
「真人」
 おずおずと、それからきつく彼の腕に抱きとられ、そして僕は抱きしめられた意味を理解する。
 彼の腕の中、高鳴る鼓動を聞き、ようやく僕は言葉を取り戻した。
「夏樹が、好き」
 まるで逃げられるのを恐れているかのようにしっかりと僕を抱いたまま、頬に頬が触れる。
 ためらいがちに触れて、離れた唇。瞳を見上げれば今までの躊躇が嘘であったかのように彼はくちづけを貪った。
「あ……」
 解放とともに漏れた溜息が己のものとは思えないほど、甘い。
 お互いの、体温。合わせられた唇の、肌の。
 同性である不自然や禁忌はなぜかまったく感じない。
 出会うべくして出会ったのかもしれない。そう、思う。温もりを隔てる何物もいらない。ただその肌が恋しくて。
 僕の体を撫で上げ、漏れる吐息を楽しむ彼の口元にわずかな、笑み。自分では細すぎる、そう思っている腕に、大人になりきれない腰に、彼の指が触れていくたびにぞくり、肌が緊張に震える。
 その次を期待して。じらされようが切なくて、背中に腕を回してすがりつけば、かすかに彼が微笑む気配。
 唇にくちづけを、ひとつ。それから。引きつれた傷跡にもくちづけ。彼は微笑む。
 その柔らかい色をした瞳をずっと見ていたくて。願いもむなしく熱に翻弄されていく。彼は好きだ、を繰り返し僕は彼の名を呼び続け。
 合わせた肌の温もりがこんなにも優しいものだと、僕らは知らなかった。互いの肌の温かさに、初めて僕らは理解した。それをもたらしたのが互いであった歓喜と共に。

 甘い悲鳴を上げ続けた僕ののどが、今度は渇きに文字通り悲鳴をあげて目が覚める。
「信じられないな……」
 苦笑が浮かぶ。
 僕らはそこでそのまま、裸のまま抱き合って眠っていた。
「確かに……」
 僕の身じろぎで目を覚ました彼もそう、笑った。
 くちづけひとつ、着物を羽織り立ち上がればふらり、よろけて僕らは笑う。幸せだった。
 水を汲んでくれば、寝間に戻った彼に腕を引かれて僕は布団に倒れこむ。
 帯も結ばぬ着物をするり、肩から落とされて再び彼の、腕の中。

 朝の光が差し込んで目を覚ませば、隣に彼がいる。それだけのことがなんて嬉しいのだろうと、思う。彼の背中に爪の跡、僕の体にくちづけの、跡。僕らは顔を見合わせくすりと笑い、子供のようにじゃれあった。
「まずは朝飯だな」
 ついばむようなくちづけの合間に彼が言い、僕は笑う。珍しい、と。朝が弱くて、放っておけば昼までだって寝ていかねない人が起き抜けに、腹減ったなんて言うのがおかしくて、照れくさくて。
「体力がいるんでね」
 笑いを含んだ声が耳元でささやいて、またくすりと笑った。
 朝食はまだだいぶ後になるらしい。

「お前さ、これ……」
 ぽん、と横をたたき、言う。見れば僕の書き散らし、歌だった。
「これ、俺のことだろう」
 よくもまあ抜け抜けと言うものだ、僕はあきれて物も言えない。
 彼が手にしているのはすべて恋の歌、僕が詠んだ彼への恋歌。だから何も間違ってはいないのだけれど。そんな僕を見てようやく照れ臭くなったか笑いながら言う。
「世に出す気はないか」
「……え」
「沈香と知った以上、埋もれさせておくのは耐えられん。嫌ならあきらめる」
 あきらめる、言いつつも簡単には引きそうにない気配に僕は飲まれ、またこれといって埋もれさせたい理由もなかった。
 ただひとつの条件さえ、飲んでくれれば。
「沈香、を名乗らないでいいなら」
 僕にとっての挫折の思い出。出来ることならもう二度と名乗りたくはない。僕の夢と憧れと希望の、かけら。
 今また新たに手にした温かい思いがあるから、余計それはそっとうずめてしまいたい。新しい名で、新しい生き方をしてみたい。
「ならば別の名で」
 僕のそんな思いを彼はとっくに分っていたように、あっさり言ってくれる。それがありがたくも嬉しい。嬉しいのだけれど。
「どうして……」
 僕は不安だった。僕にとって歌は支えだった。歌で身を立てることをあきらめてからも、僕は胸のうちで独り、歌を詠み続けていたから。
 だからまたここで歌詠みとして挫折して、歌を詠う気力さえなくなったら僕はどうなってしまうか、不安だった。
「こんなに愛されてるのを見せびらかしたくってね」
「夏樹、茶化さずに」
 そうして彼は言うのだ、はかないまでの微笑を浮かべて。
「茶化してなんかないよ。この魂を埋もれさせたくない、さっきも言った通り。お前の歌を愛してきた人間として、世に出したい。俺のお前はこんなにすごい奴なんだ、とね。ある意味で……野心、と言ってもいいかもしれない」
「でも……」
「大丈夫だ。俺がいる」
 そう言ってはふわり、抱きしめられた。そうして僕は肯いた。それは彼の腕にごまかされたわけではなく、大事なことに彼が思い至らせてくれたから。
 もしも歌を亡くしても、僕には夏樹がいる。そして彼がいる限り僕は詠う心を無くしはしない。
「愛してるよ」
 だから。俺のお前、その響きに誘惑されたのもまた、ひとつあったのだけれど。
「知り合いが雑誌を主宰している。彼女なら、俺らのことも黙っていてくれる」
 どんなに愛し合っていても、世を憚る仲である事に変わりはなく、彼の作家としての名誉のためにも……そこまで考え僕は驚いた。
「女の人なのっ」
 なんだ急にと笑う彼を見上げて再び問う。それほど珍しいことだから。
 戦争が終わってもまだいたるところに焼け野原がある。男はまだしも女は食べていくことすら容易ではないこの時世に、身を落とす人も少なくない。そんな頃のことだから。
「余計な悶着を避けるために名義は兄貴になってるけど、動かしてるのは、彼女だ。ん……違う、叔父貴、か」
「そうなんだ」
「戸籍上は彼女……桜さんの叔父ということになってるんだが、本当は腹違いの兄でな。事情があって奴の長兄夫婦のところに養女にいったから、叔父、姪ということになる、紙の上ではな」
 その時の彼の含みのある言葉の意味を知るのはもっとずっと後のことになるけれど、それだけでも今の僕には充分複雑な家だと思うのだ。
「その叔父貴というのが俺の叔父貴でもある」
 すっかり混乱した僕に、彼は手近な紙にさらさらと家系を書いてくれ、ようやくそれで分った。
 少なくとも、より混乱した、という意味では。
「俺の母親の末の弟が今話した叔父、露貴で、年は俺の三つ上。腹違いの桜さんが跡取息子の籍に入っているから、やっぱり彼女にとっても露貴は叔父になる。……確かにややこしいな」
 それより何より、僕に意外だったのは彼とてあの母親以外の家族も親戚もいるには違いないだろうけれど、一人誰からも離れて暮らす彼がこんなに楽しそうに話す親戚がいるとは、思ってもみないことだった。
「露貴がいなきゃ、俺は死んでた」
 いぶかしげな僕を察して言うその言葉に、はじかれるように彼を見上げれば、穏やかに笑っている。大丈夫だよ、と。僕を安心させるためだけに。
「近くに住んでたから、何かあるたびに奴に助けられたのさ」
 そう言いながら長い指が僕の髪をもてあそんでいる。それを見て僕は思うのだ。彼の痛みは和らいでいる、と。たとえそれがほんの少しであったとしても。
「名前……つけてくれるかな」
 ためらいながらも彼に頼めば、もちろん、と笑って彼は僕の目を覗き込む。
「琥珀……と」
 お前の目の色だ、そう言った。
「あまり、好きじゃなかった」
「柔らかい栗色の髪、琥珀の瞳、俺にはうらやましい限りだがな」
 言いつつ、すっかり気に入ったのかひざを枕に転がった。
「母はいわゆる日本人離れした人で、俺を生んだ頃は親父と不仲で……しかも俺ときたら親父に瓜二つときている。だから、余計な」
「……うん」
 僕はほかにいったい何を言ったら良かったのだろう。寝物語に彼がどんなに憎まれたかも、弟がどれほど溺愛されたかも、話してもらった、この僕に。
「気がついてるか、この眼」
「うん、きれいな……蒼、だ」
 たぶん気にしているだろうそのことを僕は努めて軽く言う。何も違和感など持っていない、ただ何かの機会に気づいてしまった色があるとばかりに。
「そうか」
 事実、綺麗なのだ。その点にまったく嘘はない。普段は気づかない。そっと陽に透けたとき。あるいはふわり、笑ったとき。かすかに帯びる、そう例えて言うなら夜の空の色。月の光を照り返す海の色かもしれない。
 たぶん親しくその瞳を覗き込んだ人間でなければ気づくまい、その色。
「余計……な」
 彼の言葉は僕の心臓をまるでわしづかみにしたほどの痛みをもたらしたのだ。庭に目をやる彼の瞳の中に浮かんだ痛みを、僕の体に感じたのかもしれない。
「僕は好きだ」
「目だけか」
 いたずらっ子のように問う。
 柔らかい黒髪を玩びながら、応える。
「夏樹のこと、全部」
「ん……」
 そうして静かに笑って言ったのだ。
「紙の上だけでも、水野を名乗るといい」
 と。呆然として答える言葉を持たない僕に彼は続ける。
「もしもお前が女なら、俺は何のためらいも無く嫁にもらった。現状お前を嫁にするのは無理だからな」
 嫌でないなら、とそう加えながら。
「水野琥珀……」
 口に上らせてひとつ、ため息をつく。なんていい名だろう、と。亡き母の好んだ沈香よりもずっと愛しいい僕の名。彼の愛でたこの目の色の名。この名こそ、僕が出会うべき名だ、そんな気さえ、した。
「ありがとう……」
 そうとしか言えない僕は今、この名にかけて誓う。琥珀の名にかけて僕はきっと名をあげて見せると。彼がつけてくれた名にかけて誓う。なによりも彼との恋にかけ、彼に恥じない僕になるために。




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