翌日初めて僕は彼の原稿の使いにやらされた。
 人嫌いの彼は編集者が家にくることを好まないから、どうしても郵便に頼ることになる。
 それで間に合わないときには自分で持っていく。そのほうが家に来られるよりもまだしもいいらしい。
 だから今日になって初めて僕は彼が篠原忍という作家であったことを知ったのだった。
 篠原忍の名は世の中を拗ねて暮らしていた僕でも知っていて、小説家であり随筆家でもある。
 よもや彼がそんな高名な作家だなんて気づきもしなかったといったら見くびりすぎか。
 けれど僕の前ではそんなそぶりは決して見せなかったし、照れるからと言って筆名も教えてはくれなかったから、僕に知る由は無い。
 だから余計、こうして教えてくれたのが、嬉しい。恋した人が秘密を打ち明けてくれたことが何にも増して嬉しい。たとえそれがほんのささやかなことであったとしても。
 使いにやらされた先は、昨日話していた「桜さん」のところ。自宅の一角を事務所代わりに使っていると言っていたからそれなりに大きな家なのだろうと思ってはいたけれど、まさか藤井元子爵邸だとは想像もしなかった。と言うよりも考えの内にすら華族出身などと言うことは入っていなかった。
 と言う事は、桜さん、という人は藤井元子爵令嬢と言うことで。つまり、夏樹の母親の実家が子爵家だという事はとりもなおさず彼自身、元華族の子息ということになる。
 それで彼が母親から受けた仕打ちのあまりのむごさを諒解した。可愛い弟息子に爵位を継がせたかったのか、と。
 華族制度が廃止された今となってはそれも空しい。日本から、貴族、というものがいなくなって四民平等になったのは三年ほど前のこと。
 実際はまだ元華族の肩書きは有効だし、ぜんぜん平等ではなかったけれど、制度の廃止に伴った相続税や何か色々で大打撃を受け、生活の立ち行かなくなった元華族も多いと聞く。
 けれど、ここ藤井家は当主がよほど敏腕なのか、そうした風は見られない。むしろ身分という枷が取れてのびのびとしているようにさえ窺えた。
 事務所の扉をくぐればあらかじめ僕が行くということを連絡してあったものか、一人の上品な婦人が僕に目を留めたのだろう、首を傾げて微笑んだ。
「こちらへどうぞ」
 それから柔らかい声でそう呼び寄せてくれた。あえて尋ねるまでも無い。この人が間違いなく藤井桜だった。長い髪を丁寧に編み上げて、すっきりとした洋装をしている。
 それがまた、よく似合ってもいた。桜の名にふさわしい、挙措。
 働いているのは婦人と男性が半々といったところか。皆てきぱきとして活気にあふれ、動きやすそうな洋装だ。
 彼がどこから調達してきたものか、立ち襟のシャツに上着とズボンといった格好をさせられて送り出された理由がよく分った。
 確かにここに着物でいたらどう贔屓目に見ても場違いだ。戦後の活気というものかもしれない。そんなことを思って僕は笑った。つい先日まで僕は洋服ばかりを着ていたのだから。
 互いの自己紹介を簡単に済ませた後、渡しておいた原稿の封筒に同封されていた一通の手紙を、彼女は困ったような顔をして読み、そして目を上げる。やはり困り顔のままだった。
「篠原さんから、よい歌人だからとご紹介いただいたのだけれど」
 そう聞いて僕はそんなに簡単な世に出せるわけが無い、そう思いつつ少しだけ落胆した。
 それが顔に出たものか、彼女は仄かに笑みを浮かべ違うのよ、と僕を見た。
「来歴を語るのは面倒だから、本人を行かせる。話は本人に聞かれますよう。……と、ね。あるの」
 見せてくれた手紙は見事にそれしか書いていない。
 紹介状を入れておくと言っていたけれど、こういうのは紹介とは言わないと思う。
 宛名は桜様、夏樹とだけあり考えてみれば二人は系図の上では従兄妹同士、血のつながりで言えば叔母甥になるのだから、不自然ではないか。ただ、なんとなく妬ける自分の心が始末に負えない。
「話していただけるかしら」
 けれど僕はもちろん話すつもりだった。
 そうして作家・篠原の名に憚りのあること以外は皆、話していた。僕が沈香であったこともすべて。
 桜さんという人は、そんな人なのだ。編んだ髪をほどけば、少女めいているかもしれない。それでいて母の包み込むような温もりも感じる。不思議な人だった。
 あらかじめ清書してあった三首の短歌を僕自身の履歴書代わりに差し出せば、間違いないという風に彼女は肯く。とすると、彼女は「沈香」を知っているのかと驚いた。あんな数首ばかりの歌を知っている人が身近に二人もいた。けれど思い直す。彼女は夏樹の親しい人なのだからもしかしたら彼が話したのかもしれない、そんな風に。
「私一人で決めてしまってもいいのだけれど、ぜひ社員とも図りたいと思いますから、後ほどご連絡、ということでもよろしいかしら」
 無論僕に否やのあろうはずが無い。たったそれだけのことでいいのかと、かえって拍子抜けしてしまうほどだった。
「加賀沈香の再出発にふさわしい企画を立てないと、ね」
 と言ってくれた彼女に慌てて僕は言う。二度と思い出したくない名であるよりも、今は夏樹がくれた新しい名で歩きたい。かといって彼女にそれを正直に打ち明けられるわけもなく、僕はしどろもどろで挙動不審だったことだろう。
「沈香を名乗るつもりは無いんです」
「それならば、新しい名前を教えておいていただけると助かります。元沈香の名無しさんじゃ困りますもの」
 ようやく言ったそれに彼女は笑った。ころころ笑えば、意外と気の強いところが前に出る。決して不愉快な気の強さではなくて、芯の強さと言ったほうがいいのかもしれない。
「琥珀、と名乗るつもりです」
「でしたら、水野琥珀、となるのね」
 今思い返してもよくその場で卒倒しなかったものだと自分で感心することしきりだ。
 柔らかい言葉の向こう、さすがと言うかやはりと言うか、彼の従妹殿はたいしたものだった。
「まあ、そうなります」
 憮然としたまま僕が言えばふっと目を細めてさも愉快そうに笑う。
「伊達に従妹をやってはいませんの。この文面で『そのこと』が察せられないようではあの人の従妹は務まりませんしね」
 と、再び笑った顔は楽しくてたまらないと言いたげだった。
 彼女なら黙っていてくれると、彼がそう言った意味も今ならよく分る。彼女は僕らの味方で、もしかしたら不幸な従兄のこの恋を喜んでさえいるのかもしれないと感じたから。
 それからしばらく雑談めいた面接を受けた僕は、あまり仕事の邪魔をしてもいけないと辞去しかける。中途半端に腰を上げた途端、彼女が笑った。
「お迎えよ」
「え……」
 振り向けばそこに彼の姿。むっつりと不機嫌で、実は心の底から困ってる。そんな顔をして夏樹が立っていた。
「ご心配だったなら、最初から一緒においでになったらよかったのに」
「雑用を済ませて戻るところですよ」
 かなわない、という風に苦笑して彼は言う。
 雑用なんて無いのはこの僕が一番よく知っていることで、たぶん彼女もそれが嘘だと分っているはず。
 照れ屋で心配性の彼が僕はとても、好きだった。

 何を話すわけでもなく、市電に乗って家路をたどる。帰る家があって、大好きな人と一緒で、それだけのことがなんて気持ちのいいことなのか僕はまったくずっと長い間忘れていた。
「お祭り、だね」
「ん、祭りだって」
「横浜の、開港記念祭だよ。もうすぐ」
「あぁ、そんな時期か」
「今年は市電、花電車走らせるんでしょう。そう聞いているけど」
「見たいか」
「すこし」
 僕は懐かしく思う。戦前に……確かあれは幼年学校に入学した年だったか、その前だったか。
「前に見たときね、なんてきれいなんだろうって」
「子供だったろ」
「だから、余計」
「一人で……な訳は無いな。すまん」
 大抵の事を話してくれた今でも、彼は家族の話をするのが苦手で、だからこそ僕にもその手の話題は振らないようにしてくれている。
 以前の僕だったらきっとそのまま避けていた過去の話も、今こうして彼に話すのなら、別にためらいは無かった。
「父と、ね」
「いいのか、居場所、知らせないで」
「亡くなったんです。戦争で」
 そうか、と彼は肯き小さくすまない、と言った。
 かたりかたり、市電は進み声が駅名を告げる。日ノ出町、日ノ出町、と。あの日僕はどこかで新しい生き方を望んだのかもしれない。
 なけなしの金で市電に揺られ、当ても無くこの駅で降りたのだから。日の出の響きに惹かれたのかもしれない。
「父はね、警察官だったんです。自分は戦地に行けないからお前はなにがあっても行けってね。横浜の空襲でやられたらしいんだけど、僕は学校から帰るまで、ぜんぜん知らなかった。おっかない親父だったけど……一度だけ花電車見に連れてきてくれたんです」
 今となってはその父もいない。懐かしく思うにはあまりにもあっけなく死なれて、今にもどこからかひょっこり生きて帰ってくるんじゃないか、そんな風にも思う。
「母は僕が幼い頃に亡くなったから、もうよく覚えてないんだ」
「……俺の親父も情けない男ではあったけど……いい親父だったと、最近は思う。もっともまだ生きちゃいるがね」
 彼が幾分照れ臭げに父のことを語るのが、僕は嬉しかった。憎んでも憎んでも自分の心がすさむばかりなのを僕は彼から教えてもらったから。
「親父は女房にぞっこん惚れてて、女房が憎いほどに嫌う息子を可愛がったら愛想尽かしでもされるんじゃないかって、戦々恐々としてた。紆余曲折の挙句俺が家を出たときに今の家を用意してくれたのも親父だった。もちろん、母親には内緒でね」
 くすりと笑い、それにしても情けねぇなとまた笑った。僕は彼の父と言う人を、懐けないとは思わなかった。彼の言葉の裏には、父からだけはわずかであっても愛された記憶がうかがえたから。
 彼が父親について語ったことが事実ではないことを僕らが知ったのはずっと後のことになる。彼の父は気弱でも小心でもなく、妻を愛してさえいなかった。

 他愛ないことを喋っているうちに家に着く。我が家だ、と不意に思った。何だかそれは身の内が震えるほど嬉しい言葉だ、そう思う。
「お前が声立てて笑うなんて珍しいにもほどがある。よっぽどいいことでもあったかい。驚くね」
 驚いたのは僕のほうだ。戸障子すべて開けっ放しで出てきた彼にも驚いたし、その縁側に見知らぬ男が寝そべっている日には驚かない方がどうかしている。
 またその男と言うのが役者にしたいほどの美形で。役者、と思ったのはひとつ訳がある。どこかで見た気がする顔だった。
「なんだ、きてたのか」
 彼は気安く言い、自分も庭先から居間に上がっていく。
 とにかく彼が気にしていないのだから茶でも淹れることにして、その間に僕は何とか冷静を取り戻したいと願った。
 相変わらず縁側で寝そべる役者もどきと、定位置に寄りかかった彼はなんだか妙に親しげだ。
 どうぞとだけ言って茶を出せばなぜか僕は笑われた。思わずむっとしかけたけれど、夏樹が親しげにしている人に対してそのような態度を取るのははばかられ、僕はぐっと我慢する。
「そんな顔しなくたってとって食おうたァ言わないよ。君は夏樹の番犬かい」
 そう言って。彼の名をかじゅ、と音で呼ぶほどの親しい間柄、ということは。
「露貴だ」
 道理で見たことがあるはずだった。髪の感じ、目許の造作、そういったものが似ている。いや、むしろ全体的な雰囲気が似ている。桜さんに、というより桜さんがこの腹違いの兄に驚くほどよく似ていると言うべきか。
 改めて僕は挨拶し、どれほど顔がこわばっていたか知った。これでは番犬とからかわれるのも無理は無い。
「桜に会ってきたんだろ」
「相変わらず早耳だな」
「なにお前が可愛い人連れてきたって桜が電話よこしたからな。見に来たわけで」
「見にきたは失礼だろうが」
 もっともだと露貴さんは笑い目顔で僕に悪意の無いことを伝える。晴れやかで華やかで、憎めない。
 この兄妹は彼に同性の恋人がいてもいったい全然驚かないというのはどういう訳か。不思議に思う僕の前、何も気づかなかったような顔をして露貴さんが茶を飲んでいた。




モドル   ススム   本編目次に