今日はあちら、明日はどこか。
 楽しんでさえいた。
 忍びあう恋人同士の、世間を欺く逢瀬の、背徳を楽しんでさえいたのだ。
 傍らに彼がいる。
 腕の中で笑う。
 ぬくもりに、悪戯めいた笑いをもらすことを知った。
 私の胸に頬を寄せ
「鼓動が聞こえるね」
 そんなことを言って満足げに目を閉じた薫さん。
 狭い宿の薄汚れた畳、そんなものにも私たちは喜びを見出していた。
 ただただ幸福だった。
 刻一刻と式の日取りが迫っている事など、考えもしなかった。
 言いすぎだろうか。
 確かに考えていなかったわけではない。
 二人してこのまま逃げ回っていればなんとかなる、そう心のどこかで思っていたのかもしれない。
 そんなわけなどありはしない、わかっていたけれど。

 案の定、それから数日後に剣持の家の者が私たちを見つけ出した。
 予想もしなかった。
 見つけられる、とはどこかでわかっていた。
 けれどそれが薫さんの父の信頼も篤い剣持家の執事であるとは、彼がわざわざ迎えに寄越されるとは。
 さらに想像を絶していたのは千尋が同行していた事だった。
 考慮しておくべき事だった。
 千尋の性格を考えればわかることだったのだから。
 許婚に姿を消され、兄と慕った従兄がそれに関わっているらしいと知ったとき、彼女がどういう行動を取るか、私たちは良く知っていたはずだった。
 まして千尋は薫さんの言動に、私の感情に、疑いを持っていたのだから。
 千尋は昂然と顔を上げ、青ざめたまま私たちを見下ろしていた。
 彼女の後ろで執事がそっと顔を背けたのを私も薫さんも見逃しはしなかった。
 背けもするだろう。青ざめもするだろう。
 私たちは婦人が目にして良い姿をしてはいなかった。



 私はその後、まるで監禁されるように屋敷に閉じ込められ、庭に出ることさえ許されなかった。
 そうしていれば私が千尋への同情にも似た愛を取り戻すかとでも言うように。
 私たちのあんな姿を見てさえ千尋は婚約を解消しようとはしなかった。
 彼女の誇りだったのかもしれない。今となってはわからない。わかろうとする努力をしたこともない。
 着々と進んでいく式の準備は私だけを取り残し、ただ独り時間の外に放り出されたような感覚だった。
 その間、薫さんのことは噂すら聞かせてはもらえなかった。
 私と同じように軟禁されているのだろうか。
 もっと酷い目にあっているのではないだろうか。
 なにも知らない召使たちが式の準備に嬉々とざわめく中、考えていたのはただ、薫さんのこと、ただそれだけだった。
 まるでどこか遠い世界の出来事を厚いすりガラス越しに眺めてでもいる、そんな心地。
 いまとなれば千尋の心こそ私以上にざわめいていたことだろう、そう推測しもするけれど、あのころの私には薫さんの哀しみだけが理解できるただひとつのことだった。
 いつかはわからない。そんな日々のいつか、だ。
 私が閉じ込められている部屋は庭に面した日当たりのいい部屋だった。
 夏樹も知っているだろう。私が居付かなかった水野の屋敷の「私の居間」だ。
 日当たりがいい、と聞いて驚いているかもしれない。
 あの頃は日当たりのいい部屋だったのだ。
 今は本棚で囲って光の射す隙のほとんどない居間。
 外界――妻と子――から逃れるようにしてそうしたのだった。
 あの部屋のかつてはあった窓。
 出入りが許されていれば庭を散策するのにそこから外に出たものだ。
 そこに人影が寄って私を呼んだ。
「貴治様でいらっしゃいますね」
 見かけぬ人はそう言って一通の書状を置き、それ以上はなにも言わずに立ち去った。
 どうやって部屋の前まで入ってきたのか、想像もつかない。
 あるいは私を不憫に思った誰かが見過ごしてくれたのかもしれない。
 書状にあったのはよく知った字だった。


『貴治君

 貴治君。君が父上に禁足されている、と聞きました。ご想像していると思うけれど、教えたのは千尋です。
 私に二度と君と逢わぬと約束すれば君の父上にそのことを伝えて不自由な環境を解こう、と言う。
 君にこうして強引な手紙を言付けているのだから私の答えなどここに書くまでもないことと思う。
 貴治君。君に逢いたい。
 私も君同様、屋敷から出ることも叶わないでいます。
 逢いたい。そう書けば君が逢いにきてくれようなそんな気持ちになっている。
 でも来てはいけない。
 君は千尋ときちんと結婚し給え。
 こう書くと貴治君が紙を破かんばかりに怒り狂うさまが目に見えるようで少し、可笑しい。
 私は最前、「答えなど書くまでもない」そう書いた。ほんの何行か前を読み返し給え。書いてあるだろう。
 千尋は私から君を奪おうとしている。いや、千尋から私が君を奪い取ったのかもしれない。けれど君はすでに私のものだ。そうだね、貴治君。
 その私から君を、君から私を奪おうとしている彼女を憎めはしない。けれど君をなくす事などできようもない。
 千尋、というすでに定まった人のある君に出会い、社会から逸脱し、求め合った一対の魂を誰が引き裂く事ができようか。
 千尋が君を離さない、というならば彼女には「妻」の座を与えればいい。水野貴治の妻は千尋でも君の心は私のものだ。
 これで丸く収まりがつくとは微塵も思っていない。
 けれど私たちが強硬になればなるほど醜聞好きな雀どもが騒ぐ。君の名誉に傷がつく。そんなことは本意ではないのだ。
 君が千尋と結婚することで君は冷たい家庭を持つことになるだろう。ほんの数年、いや一年も経てば君が千尋を欠片ほども愛していないことにいかな彼女でも気づくだろう。
 そうなった時の恐ろしさは想像に余りある。君にそんな枷を負わせることにためらいもある。
 けれど私には他に方法が思いつかないのだよ、貴治君。
 私たちが一番早く再会できる望みは君がすんなりと結婚してしまうこと、以外にないのではないだろうか。
 こう書いたからといって私が心穏やかでいる、とはよもや思ってはいまいね。
 貴治君。結婚し給え。そして跡取を儲け給え。
 跡取さえいれば君のご両親も私たちを強いて引き裂こうとしないだろう、と思うのは楽観過ぎるだろうか。
 千尋を妻にせよ、おそらく誰からも愛されないであろう子供を儲けよ、私はそう言う。
 わが事ながら背筋に悪寒が走る残酷さだと自覚している。
 けれど私には君を失う事ができない。君を得る為にならば私は鬼にもなろう。千尋が憎いのではない。ただそれ以上に君が恋しいだけなのだ。
 貴治君。私は君が結婚したら屋敷を出ようと思っています。君に跡取が生まれたと知ったら居場所を明かそう。それまでは探さないで欲しい。連れ戻されでもしたらなににもならないのだから。
 同意してくれるのならば使いにその旨を伝えて欲しい。信用できる男だから安心してくれて構わない。
 君に逢いたい。信じてくれると願っています。
                                  薫 』



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