露貴は庭に立ち尽くしていた。何度となく訪れた夏樹の家の庭。あの朝、一人、夏樹の目覚めを待っていた庭。いまは夜。人気もない。音もなく、ただ一人。
 隣家では遅い夕食にざわめく気配。反対からは団欒に笑いさざめく声。家の前、誰かが走りぬけた。
 露貴には、何一つ聞こえない。何も、見えない。

 夏樹が死んだ。車道に飛び出した猫をかばって死んだ。夏樹らしい。馬鹿みたいな死に方をした。
 真人も死んだ。後を追ったわけでもないのに、夏樹の骸に付き添った翌朝、もう彼は目覚めなかった。
 露貴は一人、残された。
 最後の声を、聞くことも出来なかった。あの笑い顔を見ることももうない。
 死に顔は、見なかった。ちらりと眠るばかりの体を見ただけ。死んだとは、認めたくなかった。
 夏樹の弟が、涙をこらえて喪主を務めているのを、ぼんやり見ていた。彼が可愛がっていた弟の子が、泣くこともできないで目を見開いているのを、見ていた。
 露貴はただ、そこにいただけ。
 焼かれた体が、細い白い骨になって帰ってきたのを見てさえ、まだその死が信じられなかった。
「露貴さん」
 彼の弟が、涙声で促すのに、黙って箸を取っては、彼と共に骨を上げた。嘘みたいに小さな骨壷に、入りきってしまった骨。骨壷を持てばまだ、温かい。彼の体のように。
 露貴は己が手を見る。星もない夜に、何も見えなかったけれど。
 今ここに残っているのは、彼の体の温もりだろうか、それとも骨壷の。
 指先が、しびれて動かなかった。あれから何も感じなくなってしまった。そのことを悲しいとも思えなくなった。
 弟の子もいない今、この家にはもう誰も住まない。四十九日も済んでいないというのに、家にはすでに荒廃の気配。
 家内には、弟が彼を偲んで夏樹と真人の着物もそのまま。書きかけの原稿用紙には、終わることのない小説が。
「せめて、四十九日が終わるまでは」
 弟は、泣いて泣いて掠れてしまった声で、そう言っていた。自分より親しい仲ではなかったはずなのに、それでもやはり兄弟の縁なのだろうか、弟は子供に返った様に泣いていた。
 いつの間に家に入ったのだろう。気づけば夏樹の文机の前。書きかけの原稿用紙を手にとって眺めていてた。
 これも、四十九日が終わったならば、片付けられてしまうのだろう。どんな筋立ての小説だったのだろうか。どんな文章で終わるつもりだったのだろうか。答えは知れない。
 愛用の万年筆も、文机に転がったまま。細い万年筆が好きだった。硬いペン先が好きだった。手にとっても涙が出ない。遺愛の品はかつて露貴が贈ったもの。気に入って、ずっと使ってくれていた。
 手の中、握りこめば彼の体温が戻るだろうか。冷たい万年筆は答えない。じっとりと、自分の掌に汗が滲むだけ。
 わかっていただろうに、何に由来するか知らないわけではなかっただろうに。
 自分が冗談のようにつけた筆名さえ、厭うことなく使い続けてくれた。真人に逢ってからも、それからもずっと。

  浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど
  あまりてなどか 人の恋しき

 文筆家であった夏樹が、その歌を知らないわけがない。なぜ恋しいのか自分でもわからない、そんな歌の名をつけられても、笑って許してくれた。
 愛せないから、応えることができないから。だから想いばかりは受け入れてくれた。ただ、それだけ。それだけのこと。それでも――。
 恋しいと、口にできたときは幸せだった。思い続けていられるだけで、幸福だった。そこに、生きていてくれるだけで、何もいらなかった。
 いまはもう、いない。
 馬鹿みたいに小さな骨壷に入って、二度と帰ることのなかった水野本邸に帰っている。
「兄の意思ではないと思いますけれど」
 彼の弟は言ってまた泣いた。母親と、同じ墓に入ることだけは嫌がっていたから、せめて墓の用意が整うまでの短い間だけでも、父の位牌の側に置きたい、と。
 父に顧みられる事のなかった息子は、父に愛された息子をそうして父の元に返した。
 その、恋人と共に。夏樹の骨壷の横には、真人の骨壷がある。親類縁者の一人としていなかった真人は彼が生涯、忠誠を尽くした恋人と同じ墓に入る。誰もがそれでいいと思い、誰もが何も言わずにそう準備していた。
 一人、露貴を除いては。
 口には出来なかった。自分でも浅ましいと思うことを止められないものを、口になどできるものか。
 それでも死んだ後まで、夏樹を盗られた。その思いは去らない。
 返せ、と喚くこともできない。自分といるより数段、夏樹は幸せだった。それをこの目で見て知っている。だから言えない。
 知り合ったそのはじめ、まだ幼かった小さな甥。母親に虐げられて、殺されかけて、泣くこともなく唇を噛みしめていた甥。いつから愛しいと思うようになったのだろう。もうわからない。
 自分だけに見せていた笑顔が、曇りはじめたのはいつだったろう。愛しいと、思ってしまったから。
 晴れやかな笑い顔を見せたのは、真人と知り合ったころ。二度とこの手に戻らないことを、知った。
 初めから、自分のものではなかった夏樹。一度だけ抱いてすり抜けた。
 細い体に残っていた傷跡。綺麗な肌につけられた無残。唇が、指先が、今もまだ覚えている。
 焼かれてもうない。
「先に、逝かれたらどうしようか、そう、思った」
 はにかむような笑顔でかつて夏樹はそう言った。自分に死なれたくないと、先に逝かれるのは嫌だ、と。
 それなのに、彼のほうが先に死んだ。
 二度とあの声を聞くこともない。
 もういないのに、自分を残して死んだ、と責めることもできない。愛されてなどいなかったから。真人を連れて、逝ってしまった。
 親族は皆、言った。きっと真人は連れて行かれたんだ、と。ついて行きたがったんだ、と。
 露貴は、ただ曖昧にうなずくばかり。ついて行きたかったのは自分だ、叫ぶこともできず。
 目を移せば、丹精こめて手入れされた庭。真人が愛した庭。夏樹は庭に趣味などなかった。父から譲られた家に小さな庭があった、それだけのこと。真人が来るまで、伸び放題の木の枝も生い茂った雑草もそのまま。
「野山みたいでいいだろう」
 無精を照れて言っていた。あの雑然とした庭が好きだった。夏樹が唯一気に入っていた梅の木に花がつくころ、二人で縁側に座り込んでは飲み明かした。
 いつのことだろう。もう思い出せない。
 振り向けば、まだ夏樹がいるような気がする。庭から上がりこんだ自分を笑って咎めるような気がする。
 振り向いても、誰もいない。
 主を欠いた家には、もう薄く埃さえ積もっている。それに耐えかねたものか、露貴は立ち上がり、衣桁にかけられたままの夏樹の着物に手を触れた。
 普段着の紬。着慣れて柔らかいそれの肩にもやはり、埃が。指でそっと払った。取れなかった。何度も払う。
 ようやく取れて、やっと気づく。埃ではなかった。彼の傷口から飛んだ血の痕。無理に払った着物の地が、荒れて見えなくなっただけ。色さえ見失った目には、血も埃も同じもの。
 あの日に着ていたものか。思えば着物すらも厭わしい。最後に着ていたものか。思うならば着物でさえも愛おしい。
 衣桁から外して手に取った。温かくなどない彼の着物。戯れまがい、袖を通す。
 彼の、匂いがした――。
 振り払い、投げ捨てようとして、留まった。手に持ったまま、しばし。
 視界が暗くなる。赤くなる。何も見えない。
 ふと心づいたとき、着物はむごくも打ち捨てられて畳の上。袖はちぎれて片隅に飛び、裾から背中を引き裂かれ。
 露貴は黙ってそれを見下ろした。
 暗い部屋の中、明りもつけず襤褸屑同然の着物を見ていた。言葉など、あるわけがない。
 ポケットの中、忍ばせた数珠を握り締める。取り出してかすかな明りに透かせば冷たい。
 ただの甥だから。自分はただの叔父だから。仲が良かろうとも、それ以上の血縁ではなかったから。弟のようにあからさまに泣くことは出来なかった。わが子同然に育てた弟の子のように、悲しみに呆然となることも出来なかった。年の近い甥だから、友のように付き合った。自分と彼の関係は、それだけ。
 公然と喪に服すこともできない。ただの、甥だもの――。
 冷たい数珠を握り締め、それから露貴は引きちぎる。紫の玉が飛び散った。点々と、壊れた着物の上に、壊れた玉が散っている。壊れた露貴がそれをする。
「妙に似合いそうで、つい」
 照れて笑って贈ってくれた。女持ちの紫水晶の数珠。若いころは西洋人形のよう、そう言われた露貴の細い指には似合いそうだ、と言って。
 まさかその数珠を夏樹の葬儀で使う羽目になろうとは、本人だとて思わなかっただろうに。あるいは、思っていたかもしれない。自分の贈った数珠で、「友」が偲んでくれたら嬉しいと、思っていたかもしれない。先に死なれるのを嫌がった、彼だから。
 涙ひとつこぼれない露貴は、数珠を壊す。夏樹への、思いのよすがを壊す。飛び散った玉は、泣けない露貴の代わりのように夏樹の着物にわだかまる。
 夏樹は、知っていたのかもしれない。自分が逝ったあと、露貴が泣けないと、知っていたのかもしれない。だから、涙をくれたのかもしれない。
 涙のような紫の玉。紬の色を映して血のような、涙の玉。露貴の頬は乾いたまま。
 一つ一つ拾い上げては掌の中。壊れた夏樹の着物も取り上げ抱きしめる。着慣らした着物の柔らかい肌触り。
 泣けたなら、どんなにいいだろう。喚けたら、どれほど楽になるだろう。返せ、と言えたら。死ぬなと言えたら。置いて行くなと。連れて行けと、叫べたら。泣き喚いて泣き尽くして涙が枯れるまで。枯れることのない涙が枯れるのは、どんな日だろう。泣けたなら、楽になることができるのかも知れない。彼への想いの火がわずかなりとも収まるのかも知れない。
 それならば、泣けなくともかまわない。泣けなくていい。楽になど、なりたくない。
 一周忌には、一人隠れて悲しめるだろうか。三周忌には、皆と一緒に悲しめるだろうか。いつかは、懐かしいと言えるだろうか。いまは。

 声も、出ない――。




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