夕暮れ間近、原稿用紙を埋める夏樹の鼻先に香ばしい匂いが漂ってきた。なんの香りだろう、と顔を上げ庭先を見やる。
 五月の夕暮れは、まだ暑いというほどではなくかといって寒くもない。夏樹にとっては過ごしやすい季節だった。
 真人が丹精こめて世話をしている木々が葉を茂らせている。なぜこんな日に仕事をしなければならないのか、と少しばかり理不尽に思わないでもない。
 もっとも好きでしている仕事だし、そもそも気候がよいからと言って外出するたちでもない。単に少しばかり疲れた、それだけのことだった。
 大きく伸びをして夏樹は台所のほうを見やる。香りはそこからきていた。先ほどから真人と春真が笑いながら何かをしているのが聞こえている。
「あと少し」
 再び夏樹は原稿用紙を埋めていく。香りが気になって仕方ないのだが、こればかりはきりのいいところまで書いてしまわなければもっと気にかかって仕方なくなるのは、わかっている。
 だから夏樹が台所に顔を出したとき、すでに後片付けまで終わってしまっていたのは無理もないことかもしれない。
「どうしたの」
 真人が不思議そうに声をかけてくる。だが夏樹はその目の中に悪戯をするときの光を見つけた。
「なにをやっているのかと思ってな」
「晩御飯の支度。ね、ハル」
「うん、支度」
 幼い春真が真人の横で彼の言葉を繰り返し笑う。どうやら何かを言い含められているらしいと見当をつけ、夏樹は肩をすくめて居間へと戻っていった。背中で笑い声が聞こえる。
「まったく……」
 すっかり親子だな、と思う。弟の子を預かっているだけのこと。真人にとっては親戚の子ですらない。それでも彼はずいぶんと可愛がってくれている。
 はじめは警戒していた春真も今ではしっかり懐いて夏樹の甥ではなく真人の子のようだ。あれでは実家に戻ったときが大変だ、と思いはするけれどそれでも嬉しい夏樹だった。
「夏樹。お風呂わいたよー」
 まだ台所にいる真人が声を張り上げる。茶でも飲もうとしていた夏樹は諦め席を立つ。まだ散らかっていた原稿用紙を片付け二人の元へと戻った。
「春真」
「なに」
「風呂」
「やだ」
 真人はこの伯父甥の会話はなんとかならないのか、と常々思っている。春真は打ち解けたというのに、夏樹のほうがこれでは先が思いやられてならない。
「ハル、伯父様と入ってきて」
 半ば溜息まじりに春真に言う。無論、溜息をつく相手は春真ではない。
「やだよ、一緒に入ろうよ」
 言って春真は照れたよう、真人の膝にすがりついた。そのせいだったのかもしれない。夏樹が有無を言わせず春真を抱え上げ、風呂場へと連れて行ったのは。
「伯父さん」
 抗議の声などものともせず、裸に剥いて風呂場へと放り込む。念のために湯加減だけはみたが、ついでとばかり湯船にも放り込む。
「酷いよ」
 聞こえないふりをしてから夏樹はにんまりと笑い、悠然と帯を解いた。

「まったく何やってるんだかね」
 二人がどうやらちゃんと風呂に入ったのを確かめ、真人は溜息まじりの笑みを漏らす。仲が悪いわけではないのだが、お互いに警戒しあっているとでも言うか、真人としてはなんともやりにくくて仕方ない。
 実のところ、すべて真人の誤解であった。二人はそれなりに仲が良かったし、口数が少なくても通じるのはたぶん、血のせいだ。おまけに仲のよい証拠とばかり、示し合わせたわけでもないのに二人してそりがあわないふりをして真人をからかいもする。そのようなこと、まるで気づいていない真人だった。
「まぁ、いいか」
 なにはともあれ、二人はおとなしく風呂に入っているようだ。あの不器用な人が、と思うと真人はおかしくてならない。不意に思い出して風呂場へと声を上げる。
「夏樹。ハルの耳の後ろ、ちゃんと洗ってあげて」
 風呂場からは笑い声と呻り声が同時に届いた。真人は聞こえたはず、と肩をすくめて取り合わない。
 いつからこんなに所帯じみてしまったのだろうと思うと少しばかり恥ずかしい。これではまるで母親だ。
「それもかなり、口うるさい」
 思っただけで深い溜息が出る。確かに夏樹と比べれば、母親役をするなら自分のほうだと思いはするが、いかんせん自分は男性だ、とも思う。
「あ……」
 そこまで思ってあられもない想像をして真人は頬を赤らめた。誰も見ていないのをいいことにそっと頬を押さえる。熱かった。
「ん――」
 夕食の支度をする手を止め、真人は自分の部屋へと小走りになる。普段から出したままの文房具を手に走り書き。数度読み返して莞爾とする。
「なにやってる。あぁ……」
 突然、顔を出した夏樹に驚いて真人は飛び上がった。風呂上りのいい匂いがしている。
「驚いた、もう上がったんだ」
「俺も春真も長湯じゃないからな」
 ふっと夏樹の目が細まった。そして彼は滅多にしないことをする。そっとかがんでくちづけて、真人が酔う間に夏樹は。
「あ、待って」
 真人が手にしたままの紙を取り上げた。慌てる彼を尻目に夏樹はゆっくりと読み下す。はじめから何を書き付けているのかは、わかっている。
 言うまでもない、真人の歌だった。何かあるたび、彼は歌にする。つくづく吸う息吐く息が歌になる男だ、と思う。
「真人……」
 呼び声は、かすかに呆れを含んでいた。真人はどこでもないどこかを見やったまま紙片を奪い返し、いつの間にかまた赤くなってしまった頬を押さえる。
「恥ずかしいぞ、それ」
「うるさいな」
「発表するのか」
「できるわけないでしょ」
 そう答えたのだから、やはり自分でも恥ずかしい、とは思っているらしい。そのことに夏樹は笑みを漏らした。それでも歌にしてしまう真人が、愛しくてならない。
「ほら、夏樹。ご飯の支度の途中だったんだから」
「いい」
「よくない。ハルが見たららどうするの」
「見ない」
「夏樹ってば」
 やっとの思いで腕の中から抜け出せば、夏樹が笑っていた。どうやらはじめからその気になっていたわけではないらしい。
 安心すると共に、少しばかり残念で、そのことがやはり、気恥ずかしい。顔を見せないようにして真人は台所へと戻っていく。見られればきっと、何を考えているかなど一目瞭然なのだから。真人の背中を忍び笑いが追いかけてきた。

 夕食の前、夏樹は再び原稿用紙に向かっていた。真人がすべてを歌にするというならば、夏樹はなにもかもを文章にしたくなる。
 真人のよう、姿の知れない思い人への恋歌、という形ではなく、自分と言う存在を通した別の形になってしまうのは小説家の性分と言うものだろう。
 それでも夏樹の書く物の大半が、実のところ真人への思いを語っていた。露貴などお見通しで、だから彼は夏樹が書いたものを読むのを本心では嫌がっている。本を進呈するたび笑顔で礼は言うのだが。
「伯父さん、ご飯だよ」
 ぼんやりとしつつ頭の中はとてつもない勢いで動いている。春真の声にも筆は止まらない。
「夏樹、ご飯だってば」
 春真では埒があかない、と見たのだろう。真人が顔を出す。さすがに彼の声はよく聞こえた。何度か瞬きをして真人がそこにいるのを確かめる。
「あぁ……」
「きりのいいところまで待とうか」
「いや、大丈夫だ。いま、ちょうど……」
 答えに真人が本当か、とばかり眉を上げる。夏樹は苦笑して勢いよく立ち上がる。このままじっと座っていたら、書き続けてしまいそうだった。
「締め切り、近いの」
「いや。そういうわけじゃないが」
「……なるほどね」
 見上げてきた真人は、にんまりとしていた。その目が、自分だって僕と同じことをしているじゃないか、とあからさまに語っている。夏樹はそっと笑っただけでなにも言わなかった。その目が見開かれる。
「どうしたの、夏樹」
「どうもこうも……」
 驚いていた。食卓を埋め尽くさんばかりのこれはなんだ。しかもどれもこれもが、夏樹の好物だった。
「真人」
 彼を見れば照れた顔。それからわからない、と首を傾げて見せた。
「わからん」
 白状して夏樹は両手を上げる。とっくに座っている春真がけらけらと笑った。
「誕生日」
「え……」
「あなたの誕生日。ハルがお祝いしようってね」
「春真が、か」
「……僕も」
 最後の一言だけは、夏樹の耳にだけ届くよう小声だった。わずかに伏せた顔が照れくさげで、夏樹は胸が熱くなる。
「茶巾寿司なんか久しぶりだから、上手にできなかったけどね」
 共に席についても真人はまだそのようなことを言っていた。夏樹はなにを言っていいかわからなくなる。
「いや……」
 上手にできなかった、と言った茶巾寿司は薄焼き卵がほんのりと輝いて見えるほど、いい出来だった。これのどこが、と夏樹は不思議になる。
「お誕生日おめでとう、伯父さん」
 春真が言うのにも無愛想にうなずくだけだった。真人と二人して笑いあっている小さな甥を見ているだけ。
「いただきます」
 きちんと手を合わせてから、春真が茶巾寿司に手を伸ばす。春真の口にも入りやすい小さな寿司はどれほど手がかかったのだろう。
「もうちょっと小ぶりにしようと思ってたんだ」
 いかにも残念、といった顔をする真人に目を向ければ困ったような顔。
「そのほうがあなた、食べやすいでしょう」
 春真のためではなかったのか、と不意に気づいた。食が細い自分のために、なにもかもを小さく、そして品数多く作ってくれた。
 込み上げるものを抑えて夏樹は箸を伸ばす。一言たりとも礼も褒めもしない自分に春真が文句を言っていたが、真人にはわかっているはず、だからそれでいい。ちらりと彼に目を向ければ優しい顔をして微笑んでいた。
「食後にいかが」
 そう言って真人が持ってきたのは、黒々としたもの。とろりと艶がある汁物だった。
「黒胡麻のおしるこ」
 さてはあの香ばしい匂いはこれだったのか、と今にしてわかる。鼻を近づければ、やはり胡麻の香りが強くする。
「栄養がつくしね」
 小さな声で言って真人が肩に手を置いた。仕事の忙しさに細くなってしまったのを気にかけてくれていたのだろう。
「……ありがたい」
 ゆっくりと口に運べば甘く濃厚な味と香り。夏樹は噛みしめるように味わう。嬉しいなどとは、言えない。照れくさくて、とても。
 見交わす目と目。真人が笑う。つられるよう、夏樹の口許にも笑みが浮かぶ。真人が驚いたことにその晩、夏樹は食事を綺麗に食べつくした。




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