赤い火。
 赤い。赤い。
 炎。
 熱い。
 血……。



「おい、真人」
 うなされて、目覚めた。
 夏樹の指に額をぬぐわれて冷や汗をかいていたことにはじめて気づく。
「大丈夫か」
「うん」
 上の空の返事で彼の背中にしがみつく。
 柔らかい、着慣れた浴衣の感触に頬を擦りつければ夏樹の匂いがする。
 一番安心できる、匂い。
「夏だな……」
 そう彼は不意に。
 言葉を返すことなく僕はただ腕の中、肯いた。

 いつの間に眠ってしまったのか、わからない。
 普段だったら彼が目覚めるまで一緒に眠っている事はないのだけれど、眠りが浅かった所為か今朝は夏樹の身動ぎで目が覚めた。
「おはよう」
 うっすらと陽の差し込む部屋。夏樹が微笑う。
 細めた目が蒼く、揺れる。
「おはよう」
 気を使われている。些細な彼の仕種にそれを敏感に感じる。
 夏、だから。
 あの日もこんな、いい天気だった。
「認めないんだね、やっぱり」
 唐突だったはずの僕の言葉に彼は驚いた風もなく
「そうだな」
 肯いた。



 あの馬鹿な戦争が終わってもう何年、そうやって数えるのはやめた。
 けれど着実に毎年夏は巡って。
 八月の僕はなにを言う気にもならないくらい、憂鬱だった。
 広島。長崎。そして終戦。
 八月は哀しい事が多すぎる。
 戦争が終わってこれほどの年月が経つのにどうして戦争による
「死者」
 が減らないのだろうか。
 原爆の所為に他ならない。
 放射能が体を蝕んでは殺されていく。
「終戦」
 なんてなんの関係もなく。
 そしてその元凶を作った国はいまだそれが原爆の所為である、とは認めない。
 敗戦、というのはそういうものなのか。
 こうしている今も放射能に殺されている誰かがいるというのに。
 確かに。
 愚かしい戦いだった。
 戦いなんていついかなる理由があろうとも、愚かしい。
 人が人を殺していい理由なんてどこにも、ない。
 昔、夏樹が皮肉に嗤って言った。
「戦争を始めるとき為政者は『人命より大切なものがある』と言い、終えるとき『命より重いものはない』って言うのさ」
 と、そう。
 多分それは事実であり、事実であるからこそ、気が滅入る。
 虚しく、馬鹿馬鹿しい戦いにたくさんの命が失われ、政治的解決がつけばそれはあらゆる意味で忘れられる。
 敗戦国においてはもう同じ過ちは繰り返さない、という意味において。
 戦勝国においては黙殺、という意味で。
 なんて、虚しい。
 せめて、誰かが覚えていなくてはならない。
 だから僕は夏を忘れない。
 原爆を落としたあの国がいくらその悲惨さを忘れまたそれを使おうととしても被爆国に生まれ生きる僕らがそれを忘れてはいけない。
 だから語り継いでいかなくては、いけない。
 いけないのに、それは僕の中でまだ。生々しすぎるのだ。
 戦争は愚かしい。
 早期終結のため、という名聞でただその国に生きていたというだけの民間人を大量に虐殺する。
 原爆などという人の手に余る、兵器。どれほどの威力か試してみたくなった。そして名聞が、あった。
 たったそれだけで。
 今もなお犠牲者は増えている。
 そして戦争に勝った、という理由で名聞は正しい事となり、原爆の被害さえ黙殺される。
 広島にある原爆の碑には
「安らかに眠って下さい。もう過ちは繰り返しませぬから」
 そう刻まれている、という。
 ある意味で、正しい。
 けれど僕は納得いかない。
「過ち」
 を犯したのはこの国だけだろうか。
 戦争放棄、過ちへの悔い。
 確かに正しい事ではある。
 けれど原爆を落としたのはかの国、アメリカ。原爆を落とそう、核兵器を保持しよう。そんな国があってはその覚悟さえ虚しいではないか。
 この、忌まわしい戦争の記憶が、記録が薄れ消え去る前にもっと知ってほしい。
 過ちを犯したのはこの国だけではないことを。
 もう二度とどこであっても戦争になどならないで欲しいという我々戦争世代の思いを。
 なにもわからず周りの人がばたばたと死んでいくのを見るのも。
 友人が国という体制に殺されるのも。
 見ず知らずの他人となんの恨みのないのに殺しあわなければならないのも。
 もう、たくさんだ。
 もう、いやなんだ。
 そんな願いさえ、届かないのか。

 アメリカでは。
 真珠湾を忘れない、と聞く。
 日本の外交の稚拙さで宣戦布告がなされるより先に行われた、攻撃。
 それを卑怯だといっては忘れない、という。
 ならば。
 民間人を多量に虐殺した彼らは卑怯ではない、というのか。
 まるでルールのわからないゲームのようだ。
 なにが正しくなにが卑怯なのだろう。
 少なくとも非戦闘員を大量に巻き込んだ事は非難に値する。
 日本に捕らわれたかの国らの捕虜の食事にごぼうが出たことがあるそうだ。
 それを彼らは
「捕虜虐待だ」
 そう言ったそうだ。
 ごぼうは彼らの国で食さぬものだから。
 たったそれだけで。
 食習慣の差もなにも解さずに日本が悪い、そういう。
 戦勝国の驕り。
 そう片付けてしまうにはあまりにも不可解な言いがかり。
 それを非難してはいけないのか。
 敗戦国として受けたその様々な出来事。
 覚えていれば憎しみに繋がる、出来事。
 けれど忘れてはいけない事だ、それは。
 憎しみしか抱けない僕らの世代から事実を知った上でお互いに理解しようと努力できる世代まで。
 いったいどれほどの時間がいるのだろう。
 そんな時代はこないのかもしれない。
 けれどこの事実を忘れ去ってはいけない。
 それこそもう二度とあんな事を繰り返さないために。
 少なくとも一方に戦争の意思がなければ戦争になどはならない。
 そう思う僕は甘いのだろうか。
 ある日突然仲間を失うのも。大事な人が失った誰かの話を聞くのも。
 もういやだから。
 誰にももうこんな思いを抱いて欲しくないから。
 戦争などどこでも起きて欲しくはない。



「行くのか」
 夏樹が問う。
 布団から軽く身を起したしどけない姿で、かろく。
 僕の負担にならないように、そう。
「ううん」
 そんな気使いにもそれ以上の言葉を返す気にはなれない。
 体を起せばそっと抱かれた。
 慰めるように柔らかく。背中を撫でる暖かい大きな、手。
 日に焼けないままの白い首筋に額を押し付ければ急に。
 泣きそうになった。

 僕は今年も靖国神社には、行かれない。
 終戦記念日の今日。
 外では今年も蝉が、鳴いていた。





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