「出かけてくるよ」
 そう夏樹に声をかけて家を出たのは午後を少しまわった時間だった。
 起きてからなにをするにも落ち着かず、昼食の仕度さえ少々手抜きをしてしまった。
 だから諦めて出かける。
 出かけたいのか行きたくないのか、真人にはよくわからない。
 外は暑い日差しが照っていた。
「暑い……」
 たちまち額に浮かび出た汗を指先でぬぐい空を見上げ。
 嫌になるほどの、晴天。
 真っ青に晴れ渡った空、蝉の声。静かで暑い。
 あの日もこんな天気だった。
 八月十五日。
 戦争が終わった。国民を欺き続けて日本は負け、人々はただすすり泣きだけを共に玉音放送を聞いた。
 なぜだろうか。
 八月十五日はいつも、暑い。
 あの日の記憶がそうさせるのかもしれない。
 電車を乗り継ぎ、東京に向かう。
 そこにはたくさんの人がいるはずなのに、真人の意識には登らない。
 なぜ向かうのか。自分は本当に行きたいのか。それを望んでいるのか。
 堂々巡りの思いだけが心を占めて。
「加賀、加賀真人じゃないか」
 突然だった。
 呼ばれた、とわかるまでに一瞬を要した。
 今になってはもう自分の本名を呼ぶ人のほうが少ないのだから。
「松井……彰祐、か」
 懐かしい、というほど時間は経っていないはずなのだ。
 それなのに思い出すのに時間がかかった。
 思い出したくない、記憶。
 彼のせいではない。彼らにまつわるそのすべての、記憶。
「あぁ、久しぶりだ。元気だったんだな」
 松井は笑う。少しひねたような笑い方。こんな風に笑う男ではなかった、と思えば傷がうずく。
「お前も」
 言葉すくなに真人は言い、ぎこちなく笑って見せる。
 松井もまた、こんなやつだったか、と思っているのだろうことが如実に伺われてしばし互いに言葉を失う。
 先に言葉を取り戻したのは松井の方だった。
「行くのだろう」
 ぽつり、と。
 その意味を完全にわかりつつも真人は即答できなかった。
「どこに」
「決まってる」
「そのつもりではあったんだ」
「行かないのか」
「正直に言えば、まだ迷っている」
「なぜだ」
「……一口に言えるような理由はないのかもしれない」
 追求を反らしたくて空を見上げ。あの日と同じ空。
「加賀。あそこには俺たちの戦友がいる」
「俺はお前ほど単純にそうは思えんよ、いや……」
 ためらうように口を閉ざし。
 松井とは特別に親しかったわけではなかった。
 むしろ彼にしても特別、ではないからこそ声をかけてきたのかもしれない。
 それでも俺お前、程度の親しさ。
 煩わしいような懐かしいような。
 松井の発した、戦友、という言葉に痛みを覚え。
 それは物理的な痛みですらある。
 共通の戦友。仲間。死んでいった。
 生き残った自分たち、あの頃の、陸軍幼年学校の仲間はもう――。
「いる、と思ってるから行かれないのかも知れないな」
 しばし目を閉ざし、己の言葉を噛みしめるように真人は呟く。
 松井は答えなかった。
「いま、お前なにしてるんだ」
 せっかく声をかけてくれたのに、なにか申し訳ない気分になって真人は聞く。
 それとても明るい話題にはなりそうにはなかったが。
「そうだな、まぁぼちぼちと。お前は」
「ん。色々と」
 互いの言葉に思わず笑う。
 答えられない、答えたくない現在ではあるのかもしれない。
 それでも笑った。
 そうしてはじめてしっかりお互いの顔を見た気がする。
「松井、少し老けたか」
「馬鹿言うな、まだ老ける年でもあるまい」
 まるであの頃のように軽く肘で小突いてくるのによろけた。
 真人とはいかにも違う、軍人らしいと言っていい体つき。
 がっしりとしたそれは生来の物なのだろう。
 幼年学校時代にも一際体格のよかった彼だった。
「懐かしいなぁ」
 自分の仕種で過去を思い出したような松井が呟く。
 そして照れて笑った。
「懐かしいか」
 自分もそう思っているのについ、からかうように真人は尋ね。
「懐かしいさ、起床ラッパの音――」
 入学してすぐはとてもラッパの音では起きられなかった。
 模範生の怒声と拳で起こされて再び怒鳴りつけられながら軍服に着替えた。
 泥のように疲れても疲れすぎて浅い眠りしか取れなかったこと。
 いつも上級生に遠慮して空き腹を抱えていたこと。
「剣道の時間は好きだったな」
 にやり、松井が笑う。
「強かったからだろう」
「お前がそれを言うか」
 豪快に彼は笑って言い。
「俺は松井から一本とったことがあったっけね」
 真人もまた笑う。
「辛かった。でも懐かしい。楽しかった事もある」
 松井は不意に言葉を切り。
「でもな、加賀。俺はあのころに戻りたいとはどうしても思わん」
「わかる」
「……恐かったな」
「あぁ、恐かった」
 終戦の年の七月だったか、八月だったか――。
 幼年学校は大規模な爆撃を受けた。
 目の前を弾丸が掠めていく。
 それ以前にも爆撃はあった。
 だから校庭には反撃の為の機関銃のようなものがあった。あったけれど。
「俺はな、あの時に勝てるのか、疑問に思ってた」
 考えてはいけない事だったけれどな、松井は苦く言う。
「……同じことを考えてた気がするよ」
 ろくな武器もないまま明るい陽射しがあっと言う間に埃で霞む。
 悲鳴と怒号と、それを打ち消す爆撃の音。
 そこにいるのは軍人だった。
 それは確かなことではあった。
 けれど、まだ充分に幼い、と言い得る年齢の子供でもあった。
 軍服に身を固め、まだふっくらとした手に武器を持ち。
 乏しい食料で体重の落ちた少年たちが武器を取って戦う。
 間違っている。
 強く思った。
 国を受け継ぐべき少年たちが戦う。
 幼いものが死んで行く。
 あってはならないことではないか。
 当事者だからではない。こんな戦い方を強いるような国に未来はない、ただそう思っただけだった。
 軍服に身を包みながら、真人はそう考えていた。その皮肉。
「そうか……」
「言えなかったものな、そんな事」
「あぁ」
「もう二度と、あんな事があっちゃいけない」
 真人のそれは苦く、呟くにしては決然としていて。
「戦争なんてなくなればいい、そう言ってなくならないのが人間の、業だな」
「せめてなくそうと努力したいじゃないか」
 そうでなければ死んで行った者にあまりにも申し訳が立たない。
 軍人も、非戦闘員も死に過ぎた。
 あんまりにもあっけなく死に過ぎた。
 一人一人は苦しみぬいて死んで行ったはずなのに、「死」というものの多さに感覚が麻痺するほど。
 いつしか目的地に着いていた。
 賑わいの中に清浄がある。祈り、誓い、願い。
「靖国神社、行くんだろう」
 足をとめた真人に松井が不審げに聞く。
「……やっぱり、やめておくよ」
 力なく、笑い。
 松井はどう思うだろうか。いままで一度も参詣したことはない、と言ったら。
 わかってもらえるような気がした。理解を求めてはいなかったけれど。
 それでも真人はそれを言う事はなく。
「そうか」
 松井もただ、そう言っただけだった。
「じゃあ俺は行ってくる」
 軽く手をあげ去っていく。
 その背中を少しだけ見送った。
「加賀」
 と、松井が思い出したように振り向き。
「また会いたいな」
 はにかむ笑顔を見せ。
「あぁ、また会いたいな」
 真人も手をあげてそれに答える。
 けれど二人ともわかっている。
 互いの持つ記憶があまりにも生々し過ぎて、傷をえぐりあう行為をわざわざ望みはしない。
 偶然がなければもう、会う事もないだろう。
 知っていて声をかけ、そして答えた。
「いつか、どこかで、な」
 小さく言った声はもう届かない。
 真人は境内をはるかに見渡し。
 人々が流れ込んでいく靖国の境内。
「あそこには友がいる」
 そう思うからこそ、行かれない。
 死んでいった仲間の顔が浮かぶ。一人、また一人、と。
 彼らは背を向け、真人もまた靖国に背を見せて歩き出す。
「ごめん」
 口の中で呟いた言葉を聞く人は誰も、いない。

 日が暮れてもなお、歩くだけでも気が滅入りそうな暑気が残っている。
 熱気と記憶とに疲れ果てて玄関を開け。
「おかえり」
 夏樹が静かに笑ってそこにいた。
 自身も参詣しようとはしない神社に、なにも言わなくても真人が行ったことを知っている。
 そんな、顔。
「暑かっただろう」
 そう言って冷やした麦茶と絞った手拭をさしだし。
 感謝して麦茶をあおればはじめて喉が乾いていたことに気づく。
 手拭で顔を拭い、汗とともに思い出してしまった記憶までも拭い取りたかった。
「行ってきたのか」
 おかわりの麦茶を手に夏樹が訊く。さりげなく、そっと。
「ううん。前まで行ったのだけどね」
「そうか」
 それ以上なにを言うでもなく彼は障子を開け放ち。
 ぬるい風が入ってきた。
「暑いなぁ」
 すでに日は暮れ。夜の中、庭木が浮かぶ。
「暑いね」
 彼の背後に立った真人はこつり、彼の肩に額を預け。
「まったく暑いな」
 そのまま夏樹は真人の手だけを引き寄せ。
 彼の手が自分の指に絡んでしっかりとつなぎ合わさる。
「本当に、暑い」
 真人には、夏樹が痛みを覚えるほどの力で彼の手を握っているなど、知りもしないことだった。




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