「今夜は遅いか……」
 仕事が忙しいから残業する、夏樹はすまなそうに
「食事、一人で済ませて」
 そう言った。
 だから夕食の買い物に来たカイルもどことなく気が乗らない。
 彼の食事を作るのはカイルの喜び、もしくは趣味であって、決して食事を作る、という行為自体が好きなのではないのだ。
 漫然と食品売り場を見てまわったけれどやはり気分が乗らないものは仕方ない。
「帰るか」
 食事を諦めて帰りかけたときふと、チョコレートが目に留まった。
 ごく普通の板チョコである。
 けれどそれがカイルの心を刺激した。
 最前とは打って変わった表情でいそいそとカイルは買い物を済ませる。
 買い残しがないかもう一度頭の中で確認をし、弾むような足取りで帰路についたのだった。
 もし行き会う人がいなかったならばカイルは本当にスキップでもしていたかもしれなかった。

 自分の食事などすっかり忘れてカイルは没頭していた。
 キッチンに立ってバターをクリーム状に練ったり粉をふるったりと余念がない。
 一般的にドイツ人男性はキッチンに立つのを厭わない、という。
 厭わない、どころか料理が好きだ、お菓子作りも趣味のひとつ、と言い切る人も多い。
 そしてカイルもまたそういったタイプだった。
 もっとも彼の場合それを食べる相手が夏樹である時のみ、という限定条件がつきはするのだが。
「好きなくせに苦手だからな」
 ひとり呟いてカイルは笑う。
 チョコレートが好きなくせに甘いものが彼は苦手だ、と。
 実際、夏樹はチョコレートを好みはしても、その好みはほとんどビターかブラックだった。
 たまにおいしいミルクチョコレートを口にはしても量は食べない。ましてホワイトチョコレートなど
「言語道断。あれはチョコじゃない」
 そう言って笑う。
 あれはあれでよい、とカイルは思うのだがこればかりは好みだろう。
 夏樹が口にするホワイトチョコレート、といえばマルセイバターサンドぐらいの物だ。
「まったく好みがうるさい」
 胸の内で思いはしてもカイルの口元は笑っている。
 そんな彼が愛しくてならないのもまた事実。彼の好みを熟知し、それに応えられるのは自分だけ、というのもまた事実。
 それがまた、嬉しい。
 卵白を泡立てる手を休めカイルは時計を見る。
「大丈夫そうだな」
 本当は前日に作った方がよかった。気がつかなかったとは不覚の極み。
 だが夏樹が残業、と言った時には相当に遅くなる事を覚悟していた方がいい。
 ならば時間はなんとか間に合いそうだった。
 泡立てた卵白をふんわり混ぜた生地をリング型に流し込んで余熱していたオープンに入れる。
 我ながら良く覚えているものだ、と自画自賛しつつ、焼き上がるまでの時間の休憩にコーヒーを淹れはじめた。

 初めて焼いたのは確か日本に来てからだった。
 ドイツ菓子を扱っている店があまりにも少ないので自分で作ることにしたのだった。
「大学の時かな……」
 コーヒーの香りに混ざる煙草の香りを深く吸い込んで思い出す。
「そうだ、あの時だ」
 大学に入った当初の事、高校時代とは違い、同じ敷地内にあるとは言え高校生になった夏樹と会うことはなくなってしまった。
 毎日、顔をあわせ時間を共にし彼の無言の声さえ聞き分けられるようになっていた。
 それなのに自分は大学に、彼は高校に進んだ事でぱたりと顔をあわせられなくなったのだ。
 それがたまらなく寂しかった。
 夏樹とは親しい、特に親しい友人以外の何者でもなかった。
 こうしてこのまま疎遠になっていったらもう二度とあのような時間は持てないかもしれない。彼の側にいたい、その一念で日本の大学に進んだのに、どうだろう、今はまったく会うことさえできない。
 つらく、寂しかった。
 それを紛らわせたかったのかもしれない。
 少なくともケーキを作っているあいだはそれに集中していられる。気もそぞろに作って失敗したらその方がなお惨めだから。
 思い立ったものの詳細がわからず、めずらしく自分から兄の所に電話をかけて義姉にレシピを聞いたのだった。
 兄も作るのは嫌いではないがどちらかと言えば食べる方が好きな人だった。この場合、義姉に聞いたほうが確実、というもの。
 けれどいまのレシピは義姉のレシピではない。幼いころに自分が食べた母の味に夏樹の好みを加えている。だからこれはカイルのレシピだった。
 オーブンが時を知らせ、カイルは思い出の中から帰ってくる。
 ふわりと良い香りがしていた。かすかにレモンが匂う。
 カイルも好きな香りだったが、夏樹のほうがこの香りを好む。
 焼き上がりのこの場にいたなら声を立てないあのやり方で笑って見せてくれるだろうに。
 少し冷たくも見え、厳しくも見える彼の美貌。感情が顔に出ない、どころかほとんど表情が動かないのがそう見えてしまう所以だろう、カイルは思う。
 それは彼なりの処世術であるのだけれど、その硬い顔がわずかに笑うだけでまるで幼子のようなあどけない顔になる。
 その笑顔を見せてくれる事がカイルの幸福だった。
 粗熱の取れたスポンジを方から出して冷ましているあいだにコーヒーを淹れる。
 飲むためにではない。
 夏樹好みのチョコレートクリームのために。
 かなり濃い目に淹れたコーヒーをクリーム状のバターに加え、それからチョコレートを。
 チョコレートの風味が高まりそれでいて甘味は抑えられる。
 かすかなコーヒーの香りも夏樹の好む所だった。
 まだ冷めないスポンジに挟む事は出来ないな、ちらり横目で見てカイルは楽しそうにプラリネを作りはじめた。



 夏樹が帰宅したのは真夜中を幾分過ぎた頃だった。
「ただいま」
 言ってネクタイの結び目に指をかけ緩める姿は心底、疲労している。
「おかえり」
 きっとこんな日は甘いものを喜ぶだろうな、内心ほっとする。
「なんか……いい匂いがする」
 ふと辺りを見回して夏樹は言い
「土産」
 思い出したように箱を差し出す。
「コーヒー淹れて」
 それだけ言って着替えに行った彼がなぜか少し照れているような気がした。
 とりあえず土産の箱はカウンターに置いてコーヒーを淹れはじめたカイルの下に彼はすぐに戻ってくる。
「見た?」
「まだ見てないよ」
 答えるカイルに早く見ろ、と憮然とした表情が言う。
 苦笑して箱を開けたカイルの目に入ったその驚き。
「シュヴァルツヴァルターキルシュトルテにしようかと思ったけど面白くないからやめた」
 そっぽを向いて彼は言う。
 箱の中身は薄くて軽くいおいしいもの。
「アップフェルシュトルーデル?」
 元はといえばウィーンの名物菓子ではあるがカイルはこの菓子が好きだった。
「違う」
 どこか得意げに彼は笑う。
「チョコレートシュトルーデル」
 そう言って再び笑った。カイルの好きなあの顔で。
「俺もね、いいものを用意しておいた」
 嬉しさのあまり弾みそうになる足取りを抑えてキッチンへ。戻ってきたときカイルの手には美しく装ったケーキが。
「フランクフルタークランツ、好きでしょう?」
 目を見開いて彼が驚いている。それだけでカイルは満足だった。
「また、どうして」
「あなたこそ」
 言って二人、顔を見合わせて笑った。
 二月十四日、本日バレンタインデー。




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