カイザーの機嫌が悪いのは、いつものことだった。ある程度の規模を持つ会社組織の社長として、いかに二代目とはいっても彼はいまだ若年と呼ばれる年齢ではある。が、父の起こした会社をそれ以上の大きさに育てたのも彼であったし、ここ数年に上げてきた純利益のほどなど目を見張るものだ。
 それほどの能力のある彼にとって、社員の能力の低さは苛立ち以外の何物でもない。もっとも自分にできることなのになぜ他人にはできないのか、と問うほど幼稚な知能の持ち主でもなかったから、眉間に皺を寄せるくらいで済ませているのだった。
 水野夏樹は自分の才能のほどを知っている。傲慢な言いようではなく、自分に何ができるのか知っていると、彼にとってはそう言い換えたに過ぎない。そしてそれについてこれるだけの能力を持った人間が少ないこともまた、知っている。
 今現在も、そしておそらく今後どのような未来においても、夏樹は自分の秘書室長以上の人間が現れることはないだろうと思っていたし、おそらくそれは真実だろう。
 ただ、今日の機嫌の悪さは群を抜いて凄まじかった。
 レイアウトの関係で秘書室の室内を通り抜けないと社長室に行くことはできなかったから、自然、嫌でも出入りする社長の姿を秘書たちは目にすることになる。彼が姿を現すたびにぴたり、おしゃべりが止まり、それにさえ苛立ちが募るのか社長はじろりと室内を見回す。彼が社長室に消えた後、息を詰めていた秘書たちの誰かが小さな声でささやくのが聞こえた。
「室長がいてくれたらマシなんだけどな」
 男性陣の同意のぼやきがあちこちで上がるのに、室内の女性たちは目を合わせて溜息をつく。だがしかし、原因ではないにしろ、遠因は自分たちなのだからあまり大きな声で同意するわけには行かなかったのだった。
 それは日付が悪かったのだ。バレンタインデー、と言う華やかな一年に一度のイベントを逃すほど、女性たちは仕事馬鹿ではなかったし、男性ももちろんそれを楽しみにしている。たとえ一ヵ月後に莫大なプレゼントを要求されようとも。
 そんなささやかな職場の遊びがカイザーの癇に障っていることは間違いない。遊び自体にどうこう言うつもりは彼とてないのだ。ただ、普段でさえ劣りがちな能力の持ち主が浮かれ騒いでいるせいで仕事の能率が下がっているのが無性に腹立たしい、それだけなのだ。
 いい加減ここに勤めて長い社員たちはそれを知っていながら――知っているにもかかわらず、と言うべきか――やはりイベントの魔力にはかなわず遊んでいるのだった。
「年に一度のことなんだし、見逃してください!」
 心の中で手を合わせつつ。が、カイザーはそれさえ苦々しく思っていることもまた、社員は薄々感づいている。思えば年に一度のイベント、といいつつも「年に一度のイベント」はバレンタインだけではなく、クリスマスもあれば花見もあるわけで。そのたびの仕事の能率が下がっているのだから、社長の苦労もおして知るべし。
 もっとも、今日の機嫌の悪さがそれだけではないことを知る者はここにいる社員の誰一人としていなかったのだった。

 時間は少し遡る。社長と秘書室長が出勤してすぐのことだった。秘書室の女性社員に室長が呼び止められたことがすべての原因だと社員が知ったなら、皆が皆頭を抱えてうめくだろうことは想像に固くない。
「カイル、先に行く」
 室長に言ったカイザーの声からしてすでに険悪すれすれだった。内心で天を仰いだカイルだったが、社員の話は聞かねばなるまい、と立ち止まってしまったのが運の尽き。
 変に目ざとい夏樹が社員の手の中で握り締められているチョコレートに気づかなかったはずがないのだ。それに気づいたとき、カイルは狼狽を表情に出さないでいることだけに、必死だった。
 夏樹はさっさと社長室に入り、珍しく自分の手でコーヒーを淹れてすすっていた。猫舌なので、あおるように飲めないのが悲しい。いつもはカイルが淹れるコーヒーを自分の手で淹れている、ということも怒りを倍増させている原因なのだけれど、努めてそれを考えまいとしているがゆえにまた火に油を注いでいるのだとは、自分でも理解してはいなかった。
 社長と秘書室長がほとんど同居同然の生活をしている、とは一部の人間しか知らない。そして「同然」ではなく同居なのだ、と知っている人間は社内にはいなかった。
 それも当然だろう。ごく若い社長が就任早々に抜擢した秘書室長だ。後にその能力のほどは証明されたけれど、当初は喧々囂々あった物だ。それは彼同様、若かったからでもあるし、外国人であったからでもある。
 ――それがなんの因果か恋人じゃ、笑えねェ。
 まだ熱いコーヒーをすすりつつ、夏樹は思う。運命の人だの、求めていた半身だの華々しい形容詞をつける気はさらさらなかったが、傍から見ればまるでそのとおりなのだから始末におえない。
 カイルが室長として、と言うより事実上の副社長としての重責に耐えることもこなすこともできるのは、単に夏樹がいま何を考えているかを正確に察知できるからだったし、そうしたいと彼が常々努力を惜しまないからだった。
 古い、友人だった。それが恋人と呼ぶようになったのはそう以前のことでもない。思えば呼び方・関係など二人にとってはどうでも良いもので、ただ互いに愛情を確認したかとか体の関係があるかとか、そんなものに過ぎないのかもしれない。
 ――思い出せば思い出すほど、ずっと好きだったとしかも思えないもんな。
 決して本人に言うことはないけれど、夏樹はそう思っている。あまりにも近くに居過ぎたから、自分が恋愛感情というものを理解するほど成長する前に「居て当たり前の大事な人」になってしまっていた。
 だからずっと友達であったのだ、といまの夏樹は思っている。それを少しばかり残念に思う気持ちもなくはなかったが、どちらにしてもカイルはいつも自分のそばにいたし、これからも変わらない。だからそれでいいのだとここ最近の夏樹は安定した思いを抱いていたのだ。
 その矢先にこれである。夏樹とてわかっている。バレンタインでーであったし、この機会にチョコレートでも渡したいと思う女性がいない訳ではないことくらいわかっている。そしてカイルが物は受け取ったとしても思いは決して受け入れない、自分にだけあることも無論、理解してはいるのだ。
 問題は理性がそれを理解していても感情が暴走しかけていることにあったわけで。さすがに公表することはおろかほのめかす事もできない恋人だ。誰かがカイルに思いを打ち明けることくらい、予想はできる。予想はできても
「俺のカイルに手ぇ出すな」
 と、思ってしまうのはやはり、仕方ないだろう。むしろそう思うのが自然というものだった。
「俺の、何ですって?」
 ようやく社長室に逃れてきたカイルがかすかに笑いを含んだ声で問う。その声の色に、夏樹は眉を顰めてあらぬほうを向くのだった。彼の横顔にありありと「声に出していたとは思わなかった」そう書いてあるのを読み取ったカイルはそれ以上の追求はしないことに決め、ただ心の中で今の発言を喜ぶばかり。めったなことで自分の思いを口に出してくれる人ではなかったから、あのような言葉を聞ける機会などそうそうあるものではない。
 ――あれを聞けただけで彼女に感謝したいくらいだ。
 内心につぶやいて微笑んでしまいそうになる頬を必至に引き締め、カイルは書類を揃えにかかる。その後姿に
「いいからさっさと行け」
 不機嫌もあからさまな夏樹の声が飛んだ。
 普段から、職場と私生活をきちんと分けなくては気の済まない人だった。たとえ社長室の中に二人きりであろうとも、カイルは彼をカイザーあるいは社長と呼んだし、夏樹のほうも部下に対する態度以上のものを取ることはない。
 どれほどチョコレートの件で気分を害していたとしても、今ここで話題にすることではなかった。ただ、夏樹はそれを公私混同するのは嫌だ、と言う理由であったのに対し、カイルは社内で痴話喧嘩をやらかすわけには行かない、とさらに切実な考えを持っているのが大きな相違だったが。
「では、行ってきます」
 今朝は早くから別の企業の担当者と会う予定があったカイルは社長に言ってコートを手に取る。言葉にはしなかったけれど、そこには休戦を求める響きがあったし、帰宅後に釈明をするチャンスが欲しいともこめられていた。
 それを受け入れたのかどうか、カイルに知る術はなかった。社長は目も合わさず、黙ってデスクに目を落としていたし、いつもどおり軽く手を上げただけ。普段と変わらない態度だ、ということで当面の休戦は受け入れてもらえたのだ、と思うよりない。
 これ以上ぐずぐずしているとせっかくの停戦協定が破れかねないので、カイルは足早にドアを開けて出て行った。
 だからその背後に向かって小さな呟きがもらされたのを知りはしない。
「……馬鹿ヤロウ」
 と。

 そんな人知れぬささやかな痴話喧嘩があったなどつゆ知らぬ社員はおかげで一日中、社長が通るたびに戦戦兢兢とする羽目になったのだった。
 この日、他の部署で誰かがどれほど重大なミスを犯したとしても、秘書室の社員ほどの恐ろしさを感じることはなかっただろう。他の部署の社員に言わせれば
「それでも遊んでるお前らって絶対変!」
 ということにもなろうが。
 変人の集団と罵られてもそこは人の子、就業のベルが鳴れば嬉しいし、ほっとしもする。一日ずっと社をあけていた室長が直接帰宅したのだと知った女性の中には、朝のうちにうまくやった同僚を軽い嫉妬の眼で見ていたし、男性の中には、カイルだけがもてはやされる一日にならなかったことに安堵するものもいた。
 今日のこの日にどのような感慨を持つ者でも、社長が退社するのにほっとしなかったものはいない。いくら社長の不機嫌に慣れていて、それでも遊んでしまう強靭な精神を持つ秘書たちといえども、思い返せば今日の機嫌の悪さは群を抜いていた、と感じるのだった。

 珍しく夏樹は自分で運転をしている。運転ができないわけではないし、むしろ好んでするのだが以前ある事故を起こしてからは務めてカイルがハンドルを握っている。
 今日のように彼が先に帰るということ自体そうそうあるものではなかったし、同じ部屋から出勤して同じ部屋に帰るのだからやはり夏樹が一人で運転するのは珍しかった。珍しいついでに寄り道、それも一人でとなると皆無に等しい。そもそもコンビニで買物をすることがあまりない夏樹は、店内を面白げにざっと見回しては買物を済ませる。それでいくらかなりとも機嫌が直る、というものでもなかったが。
 いくら不機嫌とは言え、名目上の自分の部屋に帰るのも業腹だ。元々友人であった期間が長いから、それぞれの部屋は独立している。同じマンションの上下階に位置する部屋に住んでいるのを良いことに、一部屋分の床を抜いて階下の夏樹の部屋とつなげてしまっているのだ。
 だからエレベーターをいつもより一階分、下で降りれば「自分の部屋のドア」があるのだ。
 夏樹は一瞬、押そうとした指を引き戻しいつもの階のボタンを押す。思わず舌打ちしてしまったのが、自分でも腹立たしい。
 帰ってくるころを見計らっていたのか、ドアの鍵は開いている。そんなことさえ、苛立たしいのだ。黙ったまま、入ればキッチンから
「お帰り」
 柔らかい声が聞こえる。その向こうにある笑みが想像できてしまって、うっかり今日の事を許してしまいそうになる。
 だから、返事もしないで夏樹は寝室へ。荒々しくスーツを脱いで着替えを手にバスルームに消える。夏樹の行動を読んだようにカイルは姿も見せない。
 いまは放っておいた方がいい、そう思っているのだろう。それがわかるから余計に怒りが募るのだ、とどうしてわからないのか、夏樹は熱い湯に体を沈めて呟いた。
 帰ってくる時間だから玄関の鍵が開いている。温かい声で迎えてくれる。どんなに機嫌が悪くても怒らないでこうして風呂の用意までしてくれている。いまは夕食の準備をしているのだろう。
 出来た男だと思う。こんな自分によくぞここまで尽くしていられるとも思う。カイルに言わせれば
「趣味だから」
 の、一言なのだろうけれど、その一言にどれだけの意味がこめられているかは、夏樹だとて知っている。
「馬鹿ヤロウ」
 この日、何度目かになる小さな罵り声を上げたとき、夏樹はいつの間にかカイルに怒る気をなくしかけている自分に気づいた。
 舌打ちをまたひとつ。またもやカイルの策略に乗ってしまった。カイルに対しては怒るだけ怒ってしまったらその怒りが持続しないことを彼は知っているのだ。だから放置されていた。それを夏樹が望んだから。望みどおりにしてくれたにもかかわらず、やはりなんとなく釈然としない気持ちになるのは、致し方なかった。

 ほんのりと上気した頬をして夏樹が現れたとき、テーブル代わりのカウンターの上には夏樹好みの夕食が並んでいた。
「ビール、飲む?」
 冷蔵庫から出した缶を掲げているのに、夏樹はうなずくだけ。それにカイルは隠れてほっと息をつく。口数が少ないのはいつものこと。少なくとも反応してくれたのだからだいぶ怒りは収まっていると見てもいい、そう判断したのだった。
 だが早急だったかもしれない。食事の間、普段であったならばカイルの話に目で続きを促したり、声を出さずに笑ったりするくせ、今夜はむつりと黙ったまま相槌らしい相槌も打ってくれない。
「夏樹」
 食事も終わったことだし、そう諦めてカイルは本題を持ち出した。
「あのね、もらってないから」
「なにが」
 取り付く島もないとはこのこと。返事をするからよいのではない、彼の場合は声に出したということはそれだけ険悪な気分になっているのだ。
「チョコレート」
「そう」
「だからね、あなた以外からもらっても全然嬉しくないし……」
「俺がやるって決め付けんな」
「決め付けては……」
「いるじゃんか」
「恋人から贈ってくれたら嬉しいな、と思っちゃ駄目かな」
「……なんだ、俺は。女の代用か? え? なんで俺がチョコなんか」
「そんなんじゃないことは知ってるでしょ」
 自分で自分を傷つけるような発言はいけないよ。カイルはそう続けて、嫌がる素振りだけ見せた夏樹を横から抱きすくめる。
「……ってる」
「え?」
「俺が……おかしいのは、わかってんだよッ」
「どこが?」
 腕の中、頑是無い子供のようにわめき声を上げる夏樹を感じているだけで、微笑ましくなってしまう。いつの間にか素振りだけでも抜け出そうとはしなくなり、彼の指がカイルの背中のシャツをつかんでいる。肩口に頬を押し付けるようにうめく彼は本当に幼子のようで、こんな夏樹を知っているのは自分だけだ、それを思えば嬉しくたまらない。
「だから……っ」
 意地悪をするよう、問い返したのだけれど、夏樹が気づいたことなど、とっくにカイルは気づいている。
「独占欲なんて、あって当たり前でしょう」
「……理不尽だろ、こんな」
「どうして? 嬉しいのに」
「お前に誰かが近づくのが嫌。部屋に閉じ込めて誰にも会わせたくない。……常軌を逸してる」
 自嘲混じりに笑った夏樹の声に思わずカイルは晴れやかな笑い声を返した。
「……笑えばいい」
「そうじゃない」
「いいって……!」
「そうじゃなくてね」
 すっぽりと腕の中、抱き込んでカイルは微笑む。夏樹には見えなかったけれど、うっとりとするような笑みを浮かべているのはわかる。カイルの胸に頬を押し付ければ温かくて規則的な鼓動の音。馴染んでしまったカイルの心臓の音が聞こえる。
「あなたが、そんな風に口に出してくれるのが嬉しくてね」
「……馬鹿」
「だからといって、無理して言わなくていい。今のままのあなたが好きなんだから。焼きもち妬きで我が儘言うあなたが好きだ」
「笑顔で貶すなよ……」
「どこが? あなたの我が儘かなえるのも大好きだし、焼きもち妬いてもらえるほど嬉しいこともないのに」
「理不尽、じゃんか」
「どうして」
「俺だけ」
「夏樹、今日チョコレートもらえた?」
「なんだよ、急に」
「いいから」
「……秘書室の女性陣全員からってのは、もらったけど」
「それ、不思議だと思わなかったの」
「どこが」
 心底不思議そうに問われては、カイルも笑うよりない。
「俺にでさえああやって渡そうとする人がいるんだよ。あなたに抜け駆けしようとしないほうがおかしいでしょ」
「そう……かな……」
「そうなの」
 きっぱり言ってまた、笑ってしまう。昔から色恋沙汰には疎い人だった。今もやはり疎さに変化はないようだ。
「俺が、それとなく全部阻止したって言ったら、あなたはどう思うんだろうな」
「え」
「それも理不尽な独占欲って、言う?」
 驚いて見上げてきた目の中、自分が映っているのをカイルはたとえようもない満足で見返す。それから少しずつ、口許に笑みが広がっていくのも。やがて目にあった険が和らいで、かすかに蒼味をたたえた色合いで見つめてくれる。一瞬で機嫌の良くなった夏樹の目にあるのは口にはしない言葉の数々。
「言わない」
 一言だけ。けれど饒舌な目はそれ以上のことをたくさん、それはたくさん語っていた。
 ふいに夏樹は彼の腕を抜け出し、すぐに戻った。戻った後もまた先のように抱き寄せられるのを暗黙で要求するのが彼らしい。そしてそれを叶えるのがカイルの願望であるのだからもちろんしっかり抱き寄せる。
 腕の中で夏樹はくすぐったそうな笑い声をあげ、満足に溜息をつく。それから照れた色をした目が見上げてきて、手の中の物をカイルに押し付けた。
「コンビニだからな」
 腕の中でそっぽを向く、などと言う器用なことをやってのけた夏樹はそれ以上なにも言わない。カイルも、言葉がない。
 ただ、黙って抱きしめる腕に力を入れるだけ。
 照れ屋の夏樹がコンビニでチョコレートを買うなど、どれほど恥ずかしい思いをしたことだろう。それを思うだけで胸が熱くなる。
「ケーキ、買ってあるんだ。一緒に食べようか」
「ケーキ?」
「ラムボール。好きでしょう」
 彼好みのチョコレートケーキ。外出先から飛んで帰って店がしまるぎりぎり前に買ってきた。あからさまなチョコレートだと、今年は嫌がるかと思って。
 返事の代わりは。
 唇に触れる柔らかいもの。珍しい彼からのくちづけだった。





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