冬になって、ひどい無茶苦茶を言われた。これがもっと年も押し迫って、となれば断りようもあるものを、と真人は長く深い溜息をつく。
「どうした」
 涼しい顔をしてわかっていることを問う夏樹に腹を立てる気も起こらない。軽くひと睨みすれば苦笑いをされた。
「わかってるくせに」
「まぁな」
「だったら、助けてよ」
「お前の仕事だからな」
 さらりと言われて座布団でも投げつけてやろうかと思う。それを感じ取ったのか、夏樹はいつもの定位置からすらりと立ち上がった。
「やってみろ。大丈夫だ。お前ならできる」
 だがそのまま逃げはせず、真人の顔を覗き込むよう頭を撫でた。
「そりゃ、あなたなら――」
 口ごもってせめてもの抵抗を試みる。少しだけ、無駄だと思ってはいる。むしろ、夏樹ではなく、篠原忍にそう言われることに照れがある。
 真人を悩ませていたのは、一本の執筆依頼だった。普段、夏樹共々世話になっている雑誌の新年特別号なのだそうだ。
 今までだとて毎年新年はあった。それがなぜ今年に限って。愚痴りたくなるが、今更後に引けないのも、わかっている。
 一体どういう経緯かはいまだ不明ながら、真人のところに新年らしい随筆を、と依頼が来たのは冬のはじめのこと。
「無茶だって、言ったのに」
 どれほど抵抗しようが、真人は弱い。小説に比べればずいぶんと市場の狭い短歌だ。嬉々として載せてくれる雑誌は失いたくない。
「なにも初めてでもなかろうに」
「あなたはいいよ、小説家なんだし」
「お前だって日本人だろうが。大丈夫だ。喋れて書けるなら問題ない」
「そう言う無茶を言うんだから」
 長い溜息を、いったいどれほどついたことだろう。何度となくつき続けている気がした。
「小説を書けるなら、そうだろうけど。僕は文章を書くのは苦手なんだ。あなた、知ってるでしょ」
「俺は――」
「なに」
 顔を覗き込んだままの夏樹がにやりと笑う。いたずらっ子のようで、かつ精悍。時折するこんな表情がとても好きだ。そう思ったときにはすでに真人の負け、とたいてい相場が決まっている。このときもそうだった。
「お前の文章、嫌いじゃない」
 本職の、それも高名な小説家に言われてしまった。真人の頬がさっと赤らむ。照れるな、とばかり夏樹が頬を軽くひと撫でするのに、更に赤みが増した。
「あ、あなたがそんなこと――」
「お前ね、琥珀君」
「なんですか、篠原さん」
 照れ隠しのきつい眼差し。夏樹には戯れだとわかるだろう。それだけの時間を共に過ごしてきていた。
「お前、自分が著名な歌人だっていう自覚、あるか」
「あるわけない」
 即答し、だったら俺もそうだといわんばかりの夏樹の眼差しに出会う。そのことに、妙にすっきりとした。
「そうなんだ……」
「そんなに気に病むな。軽い気持ちで書けばいいんだ」
「それはね、篠原さん。あなたが吸う息吐く息が文章になる人だから言えることなんだよ」
 何度目かわからない溜息をつき、けれど真人は少しだけ気が楽になっているのを覚えた。
「なら少しだけ助言をしようか」
 ありがたいとばかりに飛びつく真人に夏樹は笑う。その必死な表情が、昔の彼を思い出させた。ぼろぼろになって塀にもたれていた彼。投げやりなのに生きる意思だけは失っていなかった彼。
「お前が昔からいつでも一番だったもの。それを主題にすればいい。楽だろう」
 なぜか真人はせっかく赤味が引いた頬にまた血を上らせた。軽くとはいえ、夏樹を打つ真似事までして見せる。
「ちょっと待て。お前、なにを誤解してる」
「だって。無理に決まってるじゃない。僕は小説家じゃないんだ。あなたのことなんか――」
 とても巧くは書けない。と言いかけた真人が硬直する。やっと自分が誤解しているらしいと理解した。
 口を開け閉めして言い訳を考える真人をもう少し眺めていてもよかったが、少しばかり可哀想になってしまう。
「それはそれでまぁ、ありがたいがな」
 ぼそりと言って髪を撫でれば、気を失いそうな顔をしていた。もっとも、羞恥のあまりに倒れたいのはこちらだ、と夏樹は思っている。
 いったいどういう男なのだろう、と思う。何年共に過ごしても、はじめて逢ったころの新鮮さが失われない。かと思えば夏樹を支え甥の面倒を見るうちにある種、剛毅としか言いようのない性格にもなってきている。それでも十五歳の少年のような純真さを真人は今でも心に持っていた。
「夏樹ッ」
「そう怒るな、誤解だ、誤解」
「だったら――」
「あのな、真人。俺としては短歌の話をすればいいんじゃないか、と言ったつもりだったんだが」
「だったらそう言ってよ。もう、紛らわしいな」
「それは、すまん」
「謝らないでよ。僕が悪いみたいじゃない」
 まだ照れているのだろう、ふんと鼻を鳴らして真人は立ち上がる。その後姿も目に馴染んだものだった。
 当たり前のような顔をして当たり前に茶を淹れる。ごく普通の日々が、ごく普通に過ぎていく。
「……ありがたいな」
 冬の室内は暖かくしていても底冷えがする。猫舌の夏樹のために淹れてきた茶は、いつもより熱かった。
「夏樹」
「いや、なんでもない」
「具合、悪いの」
「全然。元気だよ」
 長い時間を過ごしても、時にはこうして意図を取り違えることもある。それが夏樹には楽しくもある。軽く湯飲みを掲げて茶に対する礼をした。
「そう。なら、いいんだけど」
 夏樹がなにに礼を言ったのかが、真人にはわからなかった。けれど彼がそれで楽しんでいることは、見ていてわかる。ならばそれでいい。いまの真人はそう思う。思わずくすりと笑った。
「どうした」
「ううん。昔だったら、もっと気にしただろうなと思って」
「子育てすると多少のことじゃ動じなくなるらしいからな」
「そうだね。たいていの主婦が夫は大きな子供だって言うよね」
「お前な」
「なに」
 呆れ顔の夏樹の頬に真人は触れる。春真が学校から帰ってくるにはまだ間があるだろう。他愛ない言葉遊びであっても、子供の前では慎まねばならない。
「変わったけど、変わらないね。夏樹」
「同感だ」
「どっちが」
「お前も」
 短い言葉でするやり取り。互いににやりと笑って目を覗く。物音に気をつけながら、軽く唇を触れ合わせた。
「ただいまぁ」
 もう一度。思ったときに子供が走ってくる音がする。慌てて飛びのいて真人は笑う夏樹を睨んだ。
「お帰り、ハル」
「ただいま、真人さん。伯父さん」
「いつも言ってるでしょう。伯父様が先、僕は後」
「はぁい」
「返事は短く。――ハル、一度だけだよ」
「まだはいはいって言ってないじゃん」
「言うつもりだったでしょ。いいから手を洗っておいで。おやつがあるよ」
「やった」
 飛ぶように駆け込んで、大急ぎで手を洗っている音がする。生活の物音を夏樹は苦笑しながらでも楽しんでいた。
「本当に主婦だな」
「なにか言った、夏樹」
「いいや。まぁ、こんな調子で過ごさせてるから、編集者がお前に嫁をって言ってくるんだろうなと思ったまでだ」
「好きでやってることなんだけどな」
 困ったような笑顔で真人は言う。事実、自分でもこれほど家事が好きだとは思っていなかったのだ、彼と会うまでは。
 軍の幼年学校で過ごしていただけあって、身の回りのことができるのは当たり前。家事はその延長だと思っていた。
 だが、ここに徹底的に家事のできない男がいた。いるだけではない、選んでしまった。彼と共に過ごす人生を。だから巧みになったのだ、と真人は言わない。
「言わなくても――」
 きっと彼にはわかっている。ふっと口許がほころんで、歌を詠みたくなる。
「あとであとで」
 いまは腹を空かして帰ってきた春真のおやつが先だった。
「手、洗ってきたよ。今日のおやつはなに、真人さん」
 座敷を走るな、と夏樹が制止する笑い声。笑いながらでは躾にならない、と真人は渋い顔をするのだが、いざと言うときにはちゃんと叱るから強くも言えないでいる。
「ドーナツ。夏樹、あなたにはこっちね」
 幸か不幸かこの家には雑誌がいくらでもある。二人分の掲載紙となればずいぶんな量だった。中には婦人向け雑誌もあって、そういうものには家庭で作る西洋菓子、などというものも載っている。
「この前のあれか」
 夏樹が呟いたのはだから、そういうことだった。訝しげな彼の目に比べ、春真のほうはきらきらと輝いている。
「いただきます」
 言う間も惜しいとばかりに慌ててドーナツにかぶりつく。感想など聞かなくとも、春真の表情で充分だった。
 せっかくの真人手作り、それも自分の分だと言われてしまっては夏樹も断りにくい。春真のそれよりずいぶん小さな丸いドーナツを小さく齧る。
「……器用なもんだ」
「どう」
「あぁ、気に入った」
 食が細い夏樹のため、真人はこうして春真のおやつにかこつけて夏樹の口にするものをよく作る。ドーナツの中にはそっと練り胡麻とあわせた餡が忍ばせてあった。
「――すまんな」
「あなたに倒れられると看病するのは僕だしね」
 笑う真人の手を握りたくとも、口の周りを砂糖まみれにした子供が目の前にいる。心の中で舌打ちをすれば、真人に目顔でたしなめられた。
「体にいいからね。そうだ。春になったら若菜摘みに行こうよ。あれも体に――」
 真人は最後まで言えなかった。ドーナツの欠片を口の中に放り込み、夏樹がそれだとばかりに膝を叩いている。
「新年の随筆。それがいい。若菜摘みの歌があっただろう、百人一首に。それがいい」
 莞爾とした夏樹の一言で、それは決まったようなものだった。




モドル