庭に面した大きな窓の前、夏樹が寝そべっていた。時折手を動かしているのを何かと見れば、猫だった。
 近頃はよく野良猫が遊びにくる。餌のひとつももらおうと思ってきているのだろうが、中々愛嬌があるようなないような猫だった。
 それを窓越しに夏樹がからかっていた。横着な、と真人はひっそり笑いを噛み殺す。どうせ遊ぶのならば庭まで出て行けばいいものを、こうしているのはたぶん寒いせいだ。
「まぁね」
 出て行けばいったで風邪をひくの熱を出すのと自分が文句を垂れるのも、わかっていた。もしかしたら夏樹はそれを慮ってくれているのかもしれない。
 そこまで思って真人の笑みは温かいものに変わる。ふと歌が詠みたくなった。春真が帰ってくるにはまだずいぶんと間がある。
「……ん」
 が、集中が途切れた。夏樹はとっくに猫で遊ぶのをやめ、寝そべったまま何かを読んでいる。首をかしげたり顔をなんとも言えない風に顰めたりと忙しい。
 もっとも、その表情の変化を見破ることができるものは多くない。真人は自分のほかに露貴くらいのものだろう、と思う。
 そして思い出す。そういえば今回の歌は露貴にまつわるものだったな、と。
 新年特別号だけのはずだったのが、なぜかあれよあれよと言う間に連載を持たされてしまった。必死の抵抗など儚いもの。結局うなずかされてしまった。
「真人」
 読んでいたものから夏樹が顔を上げて呼ぶ。その声にも何か緊張を覚える。真人は静かに彼の前に正座をした。
「いや、別にな。かしこまらなくてもいいんだが……」
 困ったような顔をして見せているくせに、夏樹のほうが困っている気がした。
「夏樹」
 自分に何か言いたいことがあるのならば、偽らずに言ってほしい。名を呼ぶだけの行為にそれだけの意味をこめた。夏樹は一つうなずいて自分も起き上がる。正座をして向かい合っているところなど、まるでお見合いだ。その緊張具合も。
「あのな、真人」
「はい」
「俺はな、自分で筆名の由来を明かしていない」
 そう言って夏樹はぽん、と読んでいたものを叩く。真人の百人一首の解説が載っている雑誌だった。
「あ、でも――」
「知ってる人は知ってるし、別に知られて困る話でもない」
 夏樹は少しだけ首をかしげ、小さく笑って見せる。困らない、と言うのはどういう意味だろう。真人は思う。
 たぶん、露貴のことなのだ。彼らの間にあるものを誤解していたのは、いつのことだろう。遠い昔のような、つい昨日のような。
「だからな、真人。露貴がどうのじゃないんだ。わかるか」
「……え、あ。うん。その」
「わかってないな、お前」
 溜息まじりの疲れた声。はっとして真人は夏樹を見つめる。彼が怒っている気がした。踏み込んではいけないところに、土足で入ってしまった気がした。
「――ごめんなさい」
「なにが、だ」
「その。歌のことって言うか、筆名のことって言うか」
「真人」
 一言だけ。それなのに真人はびくりと体をすくませた。そんな姿に夏樹はひどく困ってしまって言葉を巧く接げないでいる。知らず天井仰いでいた。
「歌でも筆名でもない。誤解は招きたくないからな、はっきり言っておくと、露貴のことはきっぱり無関係だ」
「――でも」
「うん、どうした」
「……名前、露貴さんだったよね、つけたの。僕が踏み込んで」
「だから、関係ないって言ってるだろう」
 言葉を奪うように言えば、真人が居竦まる。本当はそんなことをしたくはないのに、夏樹にはどうにも上手な言い方がわからなかった。
「あの頃の露貴が俺を想っていたことは今更否定しない。お前も知ってるしな」
 過去のこと、と夏樹は言う。真人はそれこそ知っている。いまなお露貴にとってただ一人は夏樹。誰と交際しようが、子を儲けようが。露貴がその心を捧げているのはただ一人。さすがにそればかりは口が裂けても言えなかった。
「だから、筆名はあいつなりの嫌がらせで、同じくらい愛情だった」
 当時を思うのだろうか、少しだけ夏樹の表情は柔らかい。こんなとき、真人は心の中でだけ、溜息をつく。共に生きると選び選ばれたのは自分であっても、夏樹にとっても露貴はかけがえのない人なのだということを見せつけられる思いだった。
「俺は嫌がらせだとわかった上で、受け入れた」
「……心じゃないの」
「真人」
 ゆっくりと、たしなめるように名を呼ぶやり方。ここ数年は覚えがない気がする。難癖をつけている程度の自覚は真人にもあった。
「お前にはわからないのか、真人。こんな言い方はしたくないがな、嫌がらせだけ受け入れたって言うのは、露貴は理解してたぞ」
 これを真剣に言われてしまってはそれこそ真人の立つ瀬がない。浮かぶ瀬もない。だが夏樹は悪戯のよう、笑って言った。
 本当は言わなくともお前だとてわかっているはずだ、とばかりに。それを誇るように。だからこそ真人は笑みを取り戻す。気づかぬうちに微笑んでいた。
「……少しだけな、思うよ。俺が『篠原忍』名乗るたび、あいつはどんな気持ちだったんだろうなってな」
「嬉しかったと思うけどな。僕が露貴さんだったら、嬉しいと思う」
「お前はお前。露貴と比べるな。……何年ぶりかな、こんなことを言う羽目になったのは」
「ごめんなさい」
 蚊の鳴くような真人の声に夏樹は珍しく大きな声で笑った。
「それで、だ」
「え」
「本題は別なんだがな。ずいぶん話が遠くにいっちまっただろうが」
 わざとらしい伝法な言葉遣いに、夏樹が本心ではまだ困っていることが理解されてしまって真人は襟を正して座りなおす。
「正直に言うと、これが俺でよかったかもしれないと思う」
「夏樹、説明して」
「これからするところなんだが」
「あのね、怒られるなら、早く聞きたい。怖いよ、僕だって」
「いや、別に怒っているというか……怒っては、いないような……」
「夏樹」
 再度の促しに、夏樹は苦笑して雑誌を開く。見もしないのに、真人の百人一首を眺めているふりをする。
「そうだな、やっぱり俺でよかったと思う。あのな、真人」
「はい」
「お前は特におかしなことをしているつもりはなかったと思うし、こちらも困ってはいない」
 一度言葉を切り、夏樹は真人の顔を覗き込む。真剣に、意見を聞こうとする姿勢がそこにある。意見、ではないかと夏樹は思い直した。まるで師の言葉を待つ弟子のような目をしていた。
「でもな、真人。どんな些細なことであっても、本人が明かしていない事実を他人が書くものじゃない。それは礼儀の範疇だぞ」
「あ――」
 はじめて自分のしでかしたことに気づいた真人がさっと青ざめた。
「だからな、一言でいい、断ってから書け。これこれを書くからって言えば、俺はうなずくだけだからな」
 笑って言う夏樹の顔を真人はとても見られなかった。自分はいったい何と言うことをしてしまったのだろうか。言われなければわからなかった己が恥ずかしくてたまらない。文章は本業ではない。そんな甘えが確実にあった。
「――ごめんなさい」
 正座した膝の上、ぎゅっと拳が握られていた。その手を夏樹は包み込み、子供でもあやすよう、叩いてやる。
「そんな顔するな。俺でよかったと思っておけ。他人だと、洒落にならん。俺だったらこうして話してやれる。よかったよ、俺は」
「でも」
「いつまでもそんな顔してると、俺が春真に怒られるだろうが」
「ハルに、なんで」
 驚く真人に夏樹はにやりとして見せる。幸い、驚愕に沈んでいた心は吹き飛ばされたらしい。
「また伯父さん、真人さんをいじめてるのって、俺はどれだけ春真に言われたかな」
 さもおかしそうに言う夏樹に、真人はつられて苦笑する。次第にそれが本物の笑みになる。
「少なくとも、昼間は、泣かせないけどな。俺は」
「夏樹ッ」
「怒るな」
「無理言わないで。子供の前でそんなこと、言ってないだろうね」
「言わない、言わない。言ったらお前を怒らせるからな」
「当たり前じゃない。なんて人だ、本当に」
 ぷりぷりと怒ったおかげで、すっかり真人は立ち直ったらしい。それに目を細める夏樹を見やり、ようやく真人は策略にはまったことに気づいた。何か言ってやろうとするより先、夏樹が言う。
「あそこの編集者、何か言ってきたか」
 目で百人一首の載っている雑誌を示していた。
「え。別に、何も」
「そうか。では内緒、と言うことで教えてやろう」
「夏樹。どうしたの」
「編集長が言ってたぞ。新年特別号に書いたお前の、中々好評だったそうだ。編集長の趣味かどうかはわからんがな、特に俺の話が気に入った、と言ってたぞ」
「ちょっと待って、夏樹」
「だからな、真人」
 にっと笑った夏樹が真人の頬を包む。ちょうどそこに光が射した。若い頃から変わらない光の加減で蒼くも見える目が真人を見つめている。
「俺のことなら、いくらでも書けばいい。期待してるよ、琥珀君」
「ただし、断ってから、ね」
「そう。断ってから、だ」
 真人は一度しっかりとうなずいた。二度と再び間違いは起こさない。その決意を夏樹は理解してくれる気がした。
「ありがたく書かせてもらいますよ、篠原さん」
 急に何もかもが照れくさくなった。そんな風に誤魔化したこちらの気持ちなど、疾うに彼はわかっている気がした。




モドル